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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-28 21:39:58 (1504 ヒット)

         【漂流の中での宣告】使徒言行録27:13〜
 使徒パウロは、ローマに運ばれる船中にいます。囚人の一人として、船底に詰め込まれたのです。マケドニア方面からローマに向けて荷を運ぶ貿易船に、囚人たちとローマの護送兵卒団が乗り込みます。船員たちもあわせて全部で276人。
 この船が、地中海クレタ島沖にたまに発生する暴風エウラキオンに見舞われ、舵の制御を失い、漂流状態に陥ってしまいます。刻々と進む状況悪化の中で、船員たちの思惑とローマ兵団の思惑はぶつかり、相手の生命を切り捨てて生き残ろうとする修羅場の様相を呈していくのです。守るべきは、船荷か職務か命か。先に死ぬべきは、囚人か民間人か兵士か。恐ろしい駆け引きです。
 囚人の一人パウロが、この漂流する船中で呼びかけた事は、生きることへの意志と、捨ててはならない希望、そして何より神への信頼でした。お互いが支え合い、ここにいる全ての人が、身分を越え思惑を越えて、生きて一緒に乗り越えるべきことを、それが神の御心であることを宣告したのでした。この宣告。漂流する船(時代)の中で、誰もが聞いていくべき宣告だと思いませんか。●吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-22 20:11:36 (1565 ヒット)

「まさか」の中の「まさか」
 使徒言行録16:16−32

1.フィリピで
 フィリピはローマ帝国の植民都市です。マケドニアの第一区都市で、アジアに渡っていく最前線の拠点としても非常に活気のある町でした。ローマからたくさんの人々が入植していたようですし、貿易の要所でもありましたから、たくさんの商売人がひしめき合い、また腕におぼえのある船乗りたちの相手の酒場や遊興場が軒並み並んでいる町でもありました。どうしても、けんか、窃盗、密売、賭博、売春などトラブルも頻発し、少々荒い「おい、こら」式の捕物帖も日常茶飯事といったきわめて世俗的な都市であります。
 パウロとシラス(第2回伝道旅行のパートナー)は、フィリピの町にできあがっていたユダヤ人たちの「祈りの場所」(ユダヤ人たちは世界中に散らばって住んでいて、自分たちの信仰を厳然と守ろうとする彼らは、律法を学ぶシナゴーグと呼ばれる会堂を各地に建てたり、祈りの場所を定めていたりしていた)を訪ねては、イエスこそがメシア(キリスト)であること、このイエスを受け入れるならば、神の救いの約束があなたのものになるという福音を宣べ伝えていました。
 どういうわけか、ひとりの女占い師がパウロとシラスにくっついてくるようになり、何日も何日も大声で呼ばわり、パウロとシラスの伝道活動にいささか障害が起こるようになりました。いかにも悪い霊にとりつかれているその女性に対して、パウロは「イエスの名によってこの女性から出ていけ」と、彼女を正気に戻したのでした。ところが、この女占い師には「香具師の元締め」のような裏の親分がおりました。彼女は、彼らに飼われていた稼ぎ手でありましたから、この親分は自分の商売道具がだいなしにされたと言ってかんかんに怒り、日頃手を回している官憲に訴えてこの二人を捕縛したのでした。「ぐうの音も出ないほどに痛めつけ、その後は、煮るなり焼くなりご自由にしておくんなせい」というような具合で引き渡された二人は、事情聴取もろくにされずに、いきなり人々の面前で衣服をはぎ取られ、何度も何度も鞭で打たれて(ローマの鞭は、残酷な鞭で、鞭の皮の表面に貝殻の破片などが仕込んであって、打たれると肉が切れ、身が裂け、数度の打撃で気絶するほど痛いと言われています)、ボロボロにされて牢屋に放り込まれてしまったのでした。

2.牢屋の看守
 フィリピにつくられた牢屋で長年看守をつとめる男がいました。ローマの警察組織につながる人間です。牢屋の看守とは、決して人々からうらやましがれる仕事ではないけれど、フィリピの町の治安維持のために、それなりに気概をもってその仕事を勤めておったことでしょう。次から次へと入獄してくる囚人たち。私情を交えずに、冷徹に、ローマの警察支配を徹底するため、秩序維持をモットーに勤めていたのではないでしょうか。それが、彼の人生の安定の方式でした。
 ところで、この看守には、数日前から気になることがありました。身体中むち打たれ、ボロボロの状態で牢屋に放り込まれたパウロとシラスとかいう二人の男。「あぁ、あぁ、びてえや。当分は、痛みで夜もろくに眠れねえだろうな」と思いきや、夜になると、歌をうたい、なにやらぶつぶつとつぶやいていたかと思うと「アーメン」とかなんとか言って、また歌をうたう。おかしな野郎たちだ。ところが、不思議なことに、その歌が始まると、この牢屋全体の空気が、妙に柔らかくなる。恨みと怒りと痛みと絶望感で、悶々とし、殺気立っているこの牢屋の空気が和らぐんだ。いや、この自分も、あれが始まると、ふと気づくと、心が落ち着いて、耳を傾けてしまっている。いったい、ありゃ何なんだ・・・。

3.まさか
 そんなことを考えながら過ごしていた夜のことです。突然、ぐらぐらと地面が揺れ始めました。信じられない揺れです。ぐぁんぐぁん、がしゃんがしゃん、ランプも吹っ飛び真っ暗になった中で、揺れが続きます。なにもできない。うわぁうわぁと言ってるだけしかできない。そんな揺れがやっと収まり、自分が生きていることを確認し、ほっとした瞬間、看守はわれに帰ります。「まさか!」
 いそいで手探りで、牢をさぐってみると、壁は崩れ、はめ込まれた鉄柵もはずれ、壁に打ち込んだ足かせ鎖も根本からぼろぼろ落ちている。どの牢部屋にも人気がない。「しまった!逃げられた!」。茫然自失となりながら、彼は、自分の人生が終わったと思ったのでした。考えたこともない「まさか」が起こってしまったのでした。そして、この責任は、ただでは済まない。崩れたのは建物だけでなく、彼の人生、彼の生きる道がすべて崩れたのでした。とっさにそのことを悟った看守は、絶望の中で、自害するしか思い浮かばず、剣を抜いて逆手に持ち、振り上げたのでした。
 そのとき! 間髪いれずに声がしたのです。牢部屋の暗い奥から声がしたのです。「死んではいけない。わたしたちはここにいるから。」
「まさか!」 彼は耳を疑いました。まさか、そんなことが・・・。彼はたいまつを掲げて奥の牢部屋に進んでいきました。なんとそこには、パウロとシラスを取り囲むようにして、囚人たちがみな集まっていたのでした。
「まさか!こんなことが」。この看守は、「まさか」の中で、ほんとうに驚くべき「まさか」なことを経験したのでした。そして、最初のまさかは、「絶望のまさか。」「死ぬしか残さないまさか」。けれども後の方のまさかは、「望みのまさか」、「命のつながりのまさか」でありました。
「もう死ぬしかない。」そうとしか思えないところに一気に看守をつき落とした「まさか」(これを、わたしたちは3.11以降、「想定外」とか「未曾有の」と連呼するようになりましたが)。この「まさか」の中で、「自害してはいけない」「死んではいけない」「生きていこう」「あなたはすべてを失っていないのだ」、この声が響いたのです。パウロとシラスは、このいのちの呼び声を彼に届けたのです。これが、まさかの中のまさかです。

4.「プロフェッショナル」、観た?
 4月16日、先週の月曜日の夜のNHK「プロフェッショナル」ご覧になりましたか。東八幡教会の奥田牧師が、宮城県石巻の蛤浜で牡蠣漁をする集落の再生に関与していく場面が前半にありましたね。亀山さんという、蛤浜の区長、漁長さんを、震災直後に奥田さんが初めて訪ねる場面。あのときに、亀山さんが奥田先生に見せた絵手紙がありましたね。大分から届けられた支援物資の中に添えられていた絵手紙には「生きていれば、きっと笑える時が来る」って太文字で書かれていました。亀山さんは番組の中でおっしゃっていました。「見知らぬ誰かが書いてくれたこの絵手紙が心の支えだ」。
 奥田先生は、その夜、宿舎でテレビのインタビューに答えておっしってました。「もちろん食べ物も大事。でも、人間って、どこで生きていくのかな・・・。」「この手紙の言葉の重みは、3.11以前と、3.11以後は、まるで違う。」「この手紙の意味の違いを、日本社会がくみとれるかどうか、ですね」。
 亀山さんはまさかの中で、「生きていれば、きっと笑える時が来る」・・・。この言葉に何とか生かされていた。そして亀山さんは奥田先生たちボランティアとの出会いによって、すべてを失ったわけではないことを経験していかれたのです。
 看守もまさかの中でそれを聞いたのです。「自害してはいけない。死ぬな!生きていこう。みんなここにいる。」

5.あなたも、あなたの家族も・・・
 蛤浜の牡蠣漁集落は、何度も挫折します。支援機構の支援を受けても、それに応えられるような成果を出せないんじゃどうしようもない。その引け目もあって、これ以上の支援をお断りしようという結論に一時はなりました(そのとき、奥田先生もほんとに悩んでました)。蛤浜の集落全員との協議の席で、奥田先生はみんなの前でこういうのです。「あのね、実は、ぼくには夢がありましてね。みなさんの牡蠣漁がうまくいく、それがまずの願いだけれども、もしその牡蠣漁がうまく行き始めると、そこに出荷や流通の過程に雇用が生まれる。その新たに生じた雇用の場に、わたしが支援しているホームレスから自立しようとがんばっている人たちの働き場を与えてあげて欲しいんだ、と。つまり、蛤浜の漁師さんたちが立ち直っていくのは、ただみなさんたちが立ち直るだけのテーマじゃない。それは、たくさんの人たちの、自立や立ち直りに場と役割を果たすことにつながるんだ。」
 その奥田先生の言葉に、蛤浜の漁師さんたちは、自分のためだけじゃないのだ。自分たちのチャレンジは、誰かの支えにつながるんだ、という新しい動機付けを得て、一度は閉ざしかけた支援を受ける道を、また開いていかれたわけです。「あの日の会議が、すべてだった」と奥田先生は語っておられました。

「救われるためにはどうすべきでしょうか」。心揺さぶられた看守は、パウロたちに問いました。パウロとシラスは言います。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
 主イエスとは、死ぬしかない「まさか」の中で、「生きていなさい」とおっしゃる命のまさかを届けてくださる方です。この「生きていける」という招きを信じなさい。すると、あなたが救われるだけでなく、あなたの家族も救われるのだ。ここは家族伝道のテーマのようにして読まれる箇所ですけれど、単に家族の救いのことではない。そうではなく、人間の一人の救い、人間の一人の信仰、人間の一人の希望は、誰かの救い、誰かの希望につながるのだという、救いの関連性のテーマなのです。
 奥田先生は、支援は一方通行ではない。絆も一方通行ではない。お互いに支援し支援される。誰かの役に立てる、それがお互い大切なんだ、と語っていましたね。
 私たち一人が、私たちが生きることを祝福してくださるキリストを信じる、クリスチャンになる、それは、単にわたしの救いのためにだけではない。わたしの家族の導きにつながり、わたしの友人の導きにつながり、今はまだ見ず知らずの誰かの救いにつながるかもしれない。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、そしてあなたにつながる誰かも救われるのです。このことを、信じようではありませんか。

 4月16日の夜11時。NHKのプロフェッショナルの放映直後に、蛤浜の亀山秀夫さんが奥田先生の自宅に電話をかけてきてくださったそうです。受話器からは、亀山さんが号泣しながら、「奥田さん、生きていてよかった」という声が聞こえたそうです。                    
                               了 
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-07 17:35:28 (1451 ヒット)

         悲しみからの方向転換 ルカ福音書23:55-24:12
 金曜日。目の前に起こった信じられない出来事。慕わしい主イエスが、酷たらしく殺されてしまったのだ。茫然としながらも、女たちはイエスの亡骸の後をついていき、墓に納められたのを見届けて帰った。安息日が始まりかけていた。
 土曜日。彼女たちは安息日を嘆きと悲しみの中で過ごした。望みといえば、一刻も早く亡骸にとり縋って泣きたい、そのことであった。御遺体を清める香料と香油を整えながら、嘆きとおした。
 三日目の朝。夜明けを待たずに、女たちは墓に急いだ。主イエスに会うために墓に行かねばならなくなるとは…。激烈な悲しみと滂沱の涙に向かって急いでいる自分たちの、なんという哀れ。しかし心から会いたいただ一人の人は墓の中。これからも…。人生に希望を与えてくださったあの方を、これからも墓の中に求めていくしかない。確かに受けとった愛と希望を、これからは過去の想い出の中に探していかねばならない。
 しかし、駆けつけた墓では、女たちのそれらすべてが打ち破られてしまっていた。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
     4月8日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-31 21:04:00 (1408 ヒット)

         【イェスよ、思い出してください】ルカ福音書23:32−49
 釘を打たれたのは掌だろうか、手首だろうか。木に打ち付けられ、そのまま垂直に立てられた時、自身の体重がすべてそこに掛かって、およそ人間が堪えられない激痛が全身を駆け巡るという。
 激痛による痙攣と出血による朦朧、その肉体的な極限状態の中で、最後まで、十字架の主イエスは、人間が背負えない重荷を見ていた。赦されることでしか降ろせない人間の重荷を見ていた。それが「罪」だ。そして、主イエスは、罪の審きの厳しい責め苦の中に残られたのだ。決して十字架を降りずに。そして祈った。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 十字架は、神の義と神の愛がぶつかり、神の御子の苦悩の祈りによって、愛と赦しが実現していく場所である。
 自分で自分がわからない罪人。自分で荷を背負いきれず、また降ろせない弱き者。背負われ、担われ、祈られ、赦されてしか生きていけない自分。それが私たちの偽らざる出発点。だから、私たちはいつもこう祈りながら生きるのだ。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください」。
                     ●4月1日 週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-23 22:14:50 (1438 ヒット)

                                  【いつも、心に、問いかけを】
 受難節を過ごしています。昨年の受難節は東日本大震災の衝撃と悲しみが重なりました。それゆえに、十字架を背負うて苦しみ抜かれる主イエスにすがり、極限状況の中を共にいてくださるキリストに慰めを求めたことを想い出します。人間の生に迫りくる「不条理」に答えを失い、戸惑いながら、それでも御言葉に聞こうとして共に歩んだ私たちの2011年度でした。心から感謝いたします。
 今回の経験でも強く感じさせられましたが、人間には出せない答えというものがあります。人は、神(や宗教や信仰)に答えを求めようとしますし、それがあたり前だと思い込んでいます。しかし、聖書の出来事をよく読むと、人間の問いに
神が答えているのではなく、神の問いかけの中を人間が生きているのだ、ということがわかるのです。
 人間が“手に入れた”と思った答えが消えてしまうことがおうおうにしてあります。大切なのは、よい答えを手にすることではなく、よい問いを手にして生きることです。キリストは私たちと共にいて、どのような時にも、生きるためのよい問いかけをくださるのです。
                                                                 ●3月25日週報巻頭言 吉高 叶


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