【御国をくださる神の御心】マタイ7:21−23
「神の国」とか「天国」と聞くと、わたしたちはどうしても「行く」ところだと考えてしまいます。「行く」と考えますから、行けるように頑張りますし、入る資格のある自分かどうかが気になります。自分の正しさで「行こう」とし、生前の生き方によって「入ろう」とするのです。
けれども、イエス様は一貫して、神の国は「来る」とおっしゃいますし、神の国は「与えられる」と言います。それは父なる神の慈しみと憐れみによって、ふさわしくないような者をも招き迎え入れる「神の愛の支配」なのだ、と。
山上の説教は、「そこに行こう」とするばかりに、神さまをではなく、自分を第一にしてしまう人間の転倒状態に対して、反律命題(あなたがたは、こう聞いている。しかし、わたしは言っておく!とひっくりかえす型)を通して、もう一度、人間をまっすぐ神さまと結び合わせるために語られたメッセージでした。
人間の強い願いが先に立って、「主よ!主よ!」と呼びかけることがありますが、「御心」をたずねていなければ、せっかく届けられようとしている神の国と、すれ違ってしまうことがあるのです。
●2月3日週報巻頭言 吉高 叶
【空の鳥、野の花、天の父】マタイ6:25−34
イエス様は「見よ」とおっしゃいます。空の鳥を見よ、野の花を見よ、と。
私たちは、そこに、焦らず、飾らず、ありのままを生きている姿を見ます。けれども、イエス様がほんとうに「見よ」とおっしゃっているのは、その生命の背後にある天の父の御心、神様の養いのことです。「見えているもの」ではなく「見るべきもの」への視線の転換を呼びかけてくださっています。
私たちは、どうしても見えてしまうものに心を奪われ、思い悩んでしまいます。すべての背後にあり、かつ、ほんとうは人間が常に見るべき方である神様が見えなくなるとき、強烈に見えてくるもの、それが、生活の必要であり、持ち物の不足であり、自己の貧しさです。拡大鏡で見るように、それらは大きく悩ましくなります。
「一日の苦労」。それはあります。日々を生きる計画、それもしていいのです。しかし、背後にある方を見失うとき、必要以上の苦しみが襲いかかります。「一日の苦労」以上の苦しみによって、今日というかけがえのない命の時間が、だいなしになってしまってはいけないのです。
●1月27日週報巻頭言 吉高 叶
【祈り・命の構え】マタイ6:5−15
「信仰を持つ」ということの根本にあることは、向かい合う相手としての神を知るということです。また、感謝を捧げる相手として神を知ることだとも言えます。
人間は、感謝する相手(しかも、その時々の相手ではなく、全てのことの背後にあって感謝すべき絶対的な相手)を持たないと、結局は自分を感謝するようになります。自分を誉め、自分を讃え、自分に感謝して生きるしかなくなるのです。そのようにして、自己はどんどん肥大化し、自分を常に喜ばせることのできる自分が大問題になっていきます。その精神性の行き着く先は絶望です。自己は、やがて衰え、必ず死を迎えるからです。
信仰生活とは、感謝を捧げる絶対的な相手をいただいて生きる生活です。感謝だけでなく、願い、訴え、すがりつくことを許される絶対的な他者をいただき、同時に、その方から問われ、示され、啓かれ、守られ、救われて生きる道なのです。その絶対的な相手、すなわち神様と向かい合い、対話している命の姿を「祈り」といいます。
ですから、祈りは、信仰者の「命の構え」だと言えます。
●1月20日週報巻頭言 吉高 叶
【主イエスの味、主イエスの光】マタイ5:13−16
「あなたがたは地の塩、世の光」。そう言われると、私たちはつい気負ってしまう。他者への作用力、人々への影響力を持たなければならない。それがクリスチャンとしての存在意味だ、と。しかしその前に、素朴に気がついていなければならないことがある。それは、「イエス様が地の塩であり、イエス様が世の光である」ということだ。
イエス様が「あなたがたは・・・」と呼びかけ、招く事柄は、実は、まさにイエス様がそれであられるところへ呼びかけているのだ。「わたしは地の塩、わたしは世の光」。イエス様はそのように生き、そのように死に、そのようなものとして復活されたのではないだろうか。イエス様の十字架の愛と赦しの御業は、その身を世に溶かし、罪の世を照らしている。世は、もはや彼によって味付けられているし、世は彼の光をうち消すことはできないのだ。そして、この私も、イエス様の十字架の愛と赦しによって味付けられた者として、ここに生きている。
わたしの影響力。教会の影響力。イエス様を抜きにして、そんなものはいらない。主イエスの味、主イエスの光なのだ。
●1月13日週報巻頭言 吉高 叶
【誘惑の中のインマヌエル】マタイ4:1−11
明けましておめでとうございます。
新年最初の御言葉として示された聖書テキストは、「荒野の誘惑」です。人が辿るべき大切な道のりとして、自らもバプテスマを受けられたイエス様が、それに続いて進まれたのが、誘惑の待つ荒野でした。ここに象徴されていることは、信仰者の人生にもまた誘惑が満ちているということではないでしょうか。
こうも言えます。人が神様と向かい合う道を歩み始めた途端に、それまでは何とも思わなかったことが、誘惑として立ち現れてくるのだと。信仰者の新たな試練です。
人生にとって大切なことは、誘惑が無くなってしまうことではなく、また誘惑を誘惑と思わなくなってしまうことでもありません。誘惑を知ることです。誘惑を恐れることです。その上で、その誘惑に勝利されたイエス様を見上げて生きることではないでしょうか。
パンの誘惑、信仰の誘惑、権力の誘惑。サタンはこの三つの誘惑をもって、再び人を神から引き離そうとします。その中で、人がインマヌエルの信仰に立ち続けること。イエス様は身をもって、人生の善き姿を示してくださっています。
●1月6日週報巻頭言 吉高 叶