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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-12-10 12:18:18 (1423 ヒット)

                <アドベントの随想>
「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」
ナザレの娘マリアが、受胎を告げにきた天使に答えて語った最後の言葉。マリアは、自分を主の言葉のはしため(しもべ)だと言い切った。主の言葉が引き起こす御業の受け皿となることに決めたのだ。そして、祈り、待ち、思いめぐらせる人と、彼女はなった。
主の御言(みことば)のしもべとなる。これもクリスマスが与えてくれる大きな示唆の一つである。「お言葉どおり、なりますように」という信仰を、自分なりに求めながら、アドベントを過ごしていきたいと思う。そこで、詩を一編。

聖書(みことば)を読もう、
見えてくるまで。
聞こえてくるまで。
聖書(みことば)を読もう、
一つになるまで。
一つとなるまで。
聖書(みことば)を読もう、
出会わされるまで。
遣わされるまで。



投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-12-01 10:43:35 (1485 ヒット)

                【教会は主告白の上に立つ】
●テキスト マタイ16:13-23
主イエスは弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」とおっしゃいました。パン種とは、酵母のことです。膨らませるイースト菌のこと。つまり、真理や原理を膨らませるところで、まちがった膨らませ方をしてしまうことがあるのです。もともとの生地をいかようにでも膨らませようとする人間の欲望や願望、思惑や思い込みの危険性を主イエスは指摘しています。
ですから「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と弟子たちに尋ねられたのも、人間の思いこみや願望を浮き彫りにさせるためです。その上で、主はずばり問われるのです。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。」
「あなたはメシア。生ける神の子です。」こう答えた弟子に向かって、「あなたは岩(ペテロ)。あなたの上にわたしの交わり(教会)を建てる」と主イエスは宣言なさったのでした。
教会はしばしば、人々の必要や望み、この世での勢いや栄光という「酵母」によって膨らむことがあります。その瞬間に、「サタンよ、引き下がれ!」と、主は教会を弾劾なさるのです。
●12月2日週報巻頭言 吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-11-27 10:41:44 (1391 ヒット)

                 【夢を見、幻を仰ぐ魂を】
「かみ食らういなごの残したものを、移住するいなごが食らい、移住するいなごの残したものを、若いいなごが食らい、若いいなごの残したものを、食い荒らすいなごが食った。」                                      ヨエル1:4
これでもか、これでもか、と言わんばかりに災いが降りかかり、完膚無きまでに倒され、再生の手がかりを何一つ持てないでいる自分たちの姿を、イスラエルは「いなごにやられた大地」に喩えました。しかし、誰も見向きもせず、手を着けようとはしない荒れ地を、愛と憐れみをもって保有し続け、そこに臨在し、うめき彷徨う魂を知ってくださる神さまに気づいた時、神の民は顔をあげ、主をほめたたえる心と、夢を見る魂を取り戻したのでした。
私たちが試みの中にあった時、実は、変わることなく誠実であられた神さまを思い出しましょう。神さまの柔和と愛とに、一切を負っているにもかかわらず、神さまを忘れ、高ぶった苦悩をふりかざして反発している私たちであることを悔い改めましょう。
主よ。あなたのしもべを憐れんでください。そして、もう一度、夢を見、幻を仰ぐ魂を、私たちに与えてください。
●11月25日 週報巻頭言  吉高 叶


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-10-20 19:29:56 (1640 ヒット)

                 【栗ヶ沢・バプテスト・教会】
栗ヶ沢バプテスト教会という名称そのものに、すでに三つの重要なファクターが織りなされています。どれ一つが欠けても、私たちは私たちではありません。
<栗ヶ沢>には、他のどの地域でもなくこの地域で種が蒔かれ、この地域で芽を吹き、この地域で茎となり花を咲かせてきた、具体的で固有の歴史と表情が刻まれています。
さらに、その固有の歩みは、キリストを主として生きる<教会>というコミュニティーであり、しかもその身体のつくりかたは<バプテスト>という特性を重要なモデルにし、またものさしにして生成してきたのです。
キリストが頭であるならばボディーはどうでも良いというのではなく、教会であるならば場所はどこでも良いという抽象的な存在ではありません。この地域で、キリストの教会を、バプテストの組み立て方でつくろうとした結実として、栗ヶ沢バプテスト教会は存在しています。
ここに、私たちは具体的に存在し、私たちは、無機質な<会員>としてでなく一人ひとりが、無比な存在としてこの教会に加わっているのです。その全てをもって栗ヶ沢バプテスト教会なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-10-09 21:00:35 (1690 ヒット)

                  【各個教会と協力伝道】
「バプテストは各個教会主義だ」とよく言われます。その通りです。でもそれは決してそれぞれの教会が独立独歩で行けばよいとか、お互いに不干渉を徹底すべきだという意味ではありません。各教会が、意志決定において自ら責任を果たし、その教会の会衆の合議によって運営され、その決定を他の教会(や他の誰か)が覆す権限は持たないという「会衆主義」を別の言い方で表現した言葉なのです。
人間が自立するとは、自分が自分だけで生きることができないことを了解し、他者への依存、他者との共生においてしか立つことができないことを、わきまえ知ったときに成立するのです。つまり、「自立」は、常に「連帯への認識」を内包しているのだと言えます。 私たち栗ヶ沢教会も、多くの先行教会の伝道への情熱と祈りと献金によって産み出された教会です。この教会が、まだ胎児であったときに、すでに祈りの連帯はこの胎児の血脈となっていたのです。そして「大人」になった今も、私たちは諸教会との連携なしには立てない存在なのです。このことを忘れた瞬間に、私たちは幼児に逆戻りしてしまうのです。


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