『愛は力です』
キリストを信じた者には責任があります。キリストを信じていない人々からいつも見られています。品格品性を問われます。日本人は民度(道徳意識や生活規範)が高いといわれています。それなら尚更、普通以上のものを現さないと福音を聞いてもらえません。こんなことを言うと、「牧師さん、それは無理です…」との声が聞こえてきます。
牧師は答えます。「決して無理ではありません。」本気にならないから、「無理だ」と思ってしまうのです。「無理」と思ったときこそ、聖書を開きましょう。
イエスさまは何と言っているでしょうか。
イエスさまの答えは、『求めなさい、そうすれば、与えられる』(マタイ7:7)。
イエスさまは決して「無理だ」とは言わない。本気で求め、探し、門を叩けば、神さまは必要なものを与えると宣言しています。問題は私たちの姿勢です。本気になっていますか。
罪を赦された「罪人」のままで良いとして、満足していませんか。その姿は、イエスさまの十字架の意味を知らない人には、「罪人の居直り」に見えたりするのです。悔い改めの祈りを忘れないようにしましょう。謙遜な態度は人の心を動かします。謙遜から生まれる愛には何かを起こす力があります。
●3月23日週報巻頭言 山田 幸男『傷ついて、祈って、癒されて、そして』
本日証しの機会が与えられたことを心から感謝します。私は吃音障害(言葉を話そうとすると脳から舌や肺にうまく信号が伝わらず、声が出なくなってしまう病気)を患っています。挨拶を返せない、電話にも出られない。不自由な生活の中で「言葉は返せないけれど、あなたのことが大好きです」と伝えたい、そう思った私が出した答えは「ずっとにこにこしていること」でした。授業で当てられようものなら、言うべき文字は目で見て分かっているのに息を吸うばかりで過呼吸になり、嘲笑され「予習して来ていない不真面目な奴だ」と誤解されることも数多くありました。しかし、それでもやはり私は人間が大好きで、積極的に人と話すことをやめることができませんでした。この世で心が傷つけられることの大半は人間関係から来ますが、神さまはそんな小さく弱い私を器として選び、この1年間に劇的な恵み −Amazing grace− を注いでくださいました。本日はその体験を、聖霊のおもむくままに証ししたいと思います。
●3月16日 週報巻頭言 笹岡 智子

『美しい門』
先週、名古屋から着任しました。皆さまのお祈りとご配慮に心から感謝いたします。栗ヶ沢教会の“新しい歴史”を、これから一緒に刻んで行きましょう。
私は牧師として、これまで29年教会に仕えて来ました。ふじみ教会(神奈川)2年、三島教会(静岡)1年[協力牧師]、盛岡教会(岩手)8年、そして瑞穂教会(名古屋)18年です。栗ヶ沢教会は5番目の働き場所です。これまでの歩みを振り返るとき、それぞれの教会での体験によって、未熟な者が牧師となるように育てられて来たことを実感します。経験年数を重ねる程に牧師職の奥深さに驚くばかりです。その一方で栗ヶ沢教会でのこれからの働きは、私の牧師としての“集大成”とすべく、決意を新たにしています。
《…わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。…キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい…右手をとって彼を立ち上がらせた。…すると、たちまち、その男は…歩き出した。そして…神を賛美し…境内に入って行った。》(使徒3:6〜8)。
聖書にある出来事を現代の“美しい門(栗ヶ沢教会)”で、皆さまと一緒に体験して行きたいと願っています。最愛の妻・好子共々よろしくお願いいたします。
●3月9日週報巻頭言 山田 幸男
「主の祈り」
イエスは、偽善者や異邦人のような祈りを戒められ、祈りの模範として、
「主の祈り」を私たちに教えて下さった。そして、この祈りは、私たちの教会を含めて、今日多くの教会において奉げられているが、ともすればお題目の如く、
半ば習慣的に繰り返されていると言うことはないであろうか。
もう一度、その本来の意味を深く考え直して見る必要があると思う。
イエスは、旧約の時代の「小聖書」とマルチン・ルターに言われた「詩編」(150篇)の、広義の祈りと讃美に加えて、「詩編」に少し希薄であると言われている、他人のための、敵のための、積極的な罪の赦しを祈る「愛」の祈りを加えて、
「主の祈り」を集大成なされた。
「主の祈り」は、私たちの日常生活の中で失われているものへの祈りであり、また自然にはとても祈られそうもないことへの祈りである。そして「主の祈り」は、先ずは父なる神への呼びかけで始まり、前半は「み名」と「み国」と「みこころ」のための、「神」に関する祈りであり、後半は「我ら」の体や信仰生活や実存に関する、「我ら」人間に関する祈りとなっており、最後は「神」に対する頌栄を以って終っている。
今朝は、この「主の祈り」一句一句の学びを通して、「神」への祈りのあり方を、皆さんと共に学んで行きたいと思う。
●3月2日週報巻頭言 杉野栄美
「賜物を生かし、成長する教会」
パウロは、「エフェソの信徒への手紙」をローマの獄中から書いています。前半の1章から3章までは、救いに関する教理について、後半の4−6章では救われた者の実践的な歩みについて記しています。この教理を理解した上で、実践に移すという順序は、とても大切です。何を信じるかによって、その人の生活が決まり、信仰があって次に生活があり、教理があって次に実践が来るからです。そこでパウロは「勧めます」という言葉から4章を始めています。それは、この手紙を読む人たちに、具体的に行動に移すように促そうとしています。「教理を知る」ことが念頭に置かれていました。神を知るための知恵と啓示の御霊が私たちに与えられるように、とパウロは祈り、そしてキリストにある霊的な富がいかにすぐれているかを、彼は話していました。こうした霊的富に従って、私たちがこの世において、どのように生きればよいかをパウロは教えています。共に学んで参りましょう。
●2月23日 週報巻頭言 平山公司


