【随想 被災地に、虹よ、かかれ!】
二年目となる3.11を前に、被災地・釜石市を訪れ三日間を過ごすという導きをいただいた。瓦礫の撤去が終盤を迎えつつあるということ以外に、復興の「ふ」の字も始まっていないかのような釜石の現実に愕然とした。訪ねた大槌第7仮設の被災者たちは、バプテスト連盟が贈った談話室の中で笑顔で接してくださったが、二年経っても再生の手がかりが見えないままの仮設住まいの疲れを確かに背負っておられた。この間、方々で歌われている「花は咲く」を、まだ歌う気になれないとのことだった。
12年前に、12人の韓国の牧師たちと一緒に訪問した、当時新築叶ったばかりの釜石新生教会(日キ教団)も訪ねることができた。小さいながらも高い天井を持つこの教会。津波に呑まれた3m付近を境に上部と下部とでは別の様相だ。吹き抜けの美しいステンドグラスの下方は、はげ落ちた一階部分の天井とぶちぬかれた壁。まさに傷だらけの教会である。
見上げたステンドグラスの中央の図柄は、オリーブをくわえたノアの鳩。新しい大地の出現を知らせた、あの鳩が飛んでいた。虹よ、かかれ!
2013年3月10日 週報巻頭言 吉高 叶
【礼拝へ、そして礼拝から】
信仰生活の中心が、そして教会の業の中心が礼拝であることは言うまでもありません。信仰生活の一部として礼拝があり、教会の諸活動の一つとして礼拝があるのではないのです。礼拝する生活としての信仰生活であり、礼拝する群れとしての教会なのです。
礼拝は、前奏・招詞に始まり、祝祷・後奏をもって終わります。けれども、礼拝者としての生活は、祝祷・後奏から派遣されて始まり、礼拝した者としての労働、勉学、生活を歩んだのち、再び主の日に礼拝式の場に戻ってくるという循環をもっています。
礼拝を示す聖書の言葉はラトレイアといいます。もともと「服従・奉仕」という意味の言葉です。礼拝は、ずばり、神への奉仕なのです。「奉仕」と聞くと、自分には何ができるだろうと考えてしまいますが、礼拝こそが、神が最も喜ばれる奉仕です。そして礼拝は、神の国の先取りでもあります。老若男女、元気な者・そうでない者、喜ぶ者・悲しむ者、社会的立場や民族の違いなどを超えて、神を礼拝することにおいて一つとなる、神の国のイメージなのです。 ●2013年3月3日週報巻頭言
【祈り−瞼を閉じれば、そこは神の庭】 ローマ8:22−28他
祈りの姿勢。それは祈りがどのようなものであるのかを端的に示しています。私たちは祈るときに目を閉じます。それは、自分の目で見ている世界から遮断されるためです。目は最大の情報の入り口です。そして人間の判断の起点です。それゆえ、目で見えているものに左右され惑わされるのです。瞼を閉じることによって、それらからいったん遮断され、神が見ているもの、神が見せようとしてくださることに与ること、これが祈りの姿勢です。詩篇にはこうあります。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」まさしく“瞼を閉じれば、そこは神の庭”なのです。
祈るときに私たちは手を組みます。それは、自分で全てに携わろう、自分で全てを解決しようとする思いを断ち切るためです。手は、人間の行為の象徴です。あらゆる行動の起点です。手を組むことによって、人間の行為からいったん遮断されるのです。
祈りは、「神の目が見る世界」「神の御手が働く世界」に自らを移し、そこでこそ神に問いかけ、神から御旨を聴かされていく「神との交わりの場」なのです。
●2月17日週報巻頭言 吉高 叶
【種を蒔かれ、種を蒔き】マタイ13:1−9
良い土地、道端、石地、茨の土地・・・。主イエスは、種が蒔かれた地面の状態に人間の何かを喩えています。信仰にまつわる人間の素地の話のようであり、また一人の人生の中で立ち現れてくる様々な姿のようでもあります。不確かで、浅はかで、弱い自分自身を顧みさせられる喩えだと思います。けれども、主の喩えの真の主題は、土地にではなく、「種を蒔く人」にあります。芽が出ようが出まいが、実を結ぼうが枯れようが、あきらめずに種を蒔き続ける農夫、それが父なる神なのです。神は、忍耐と憐れみをもって種(「御国の言葉」13:19)を蒔き続けておられます。
天の国は、この種と土地の出会いであり、交わりです。良い土地とは、この種との関係の中で捉えられるのであって、人間の素地そのもの(誰もが認める「良い人」とか)ではありません。いいえ、「良い人」にかぎって、一鍬入れれば、ガチンと石地に突き当たったりします。
「私」の状態を問わず、この私にめがけて今日も種は飛んできます。受けとめさえすれば、それ自身の力で芽がふく種が今日も新たに蒔かれているのです。
●2月10日週報巻頭言 吉高 叶
【御国をくださる神の御心】マタイ7:21−23
「神の国」とか「天国」と聞くと、わたしたちはどうしても「行く」ところだと考えてしまいます。「行く」と考えますから、行けるように頑張りますし、入る資格のある自分かどうかが気になります。自分の正しさで「行こう」とし、生前の生き方によって「入ろう」とするのです。
けれども、イエス様は一貫して、神の国は「来る」とおっしゃいますし、神の国は「与えられる」と言います。それは父なる神の慈しみと憐れみによって、ふさわしくないような者をも招き迎え入れる「神の愛の支配」なのだ、と。
山上の説教は、「そこに行こう」とするばかりに、神さまをではなく、自分を第一にしてしまう人間の転倒状態に対して、反律命題(あなたがたは、こう聞いている。しかし、わたしは言っておく!とひっくりかえす型)を通して、もう一度、人間をまっすぐ神さまと結び合わせるために語られたメッセージでした。
人間の強い願いが先に立って、「主よ!主よ!」と呼びかけることがありますが、「御心」をたずねていなければ、せっかく届けられようとしている神の国と、すれ違ってしまうことがあるのです。
●2月3日週報巻頭言 吉高 叶