【豊かに実を結ぶ人生】
2013年も新年度を迎えています。この春から、新しい環境で、新しい生活を始められた方も多いことでしょう。ピカピカの一年生がまぶしく見える季節です。入学・進級・就職など希望に胸をふくらませ、充実した人生を求めての門出と言えましょう。一口にクリスチャンと言っても様々です。実を結ぶ生活をしている人と、殆んど実らしい実を結んでいない生活をしている人とがいます。
どうしたら、実を結ぶ生活ができるのかという事について教えているのが今日の聖書箇所(ヨハネ 15:1〜 6)です。イエス様は、私たちの救いを切に願っておられます。私に繋がっていなさいと再三招いておられます。イエス様に繋がり、イエス様の愛に留まってさえいれば、自分が無力であろうと、私たちは主の喜びに満ちた命の働きによって、主の目的のために喜んで生かされる者となり、豊かな実を結ぶ人生を送ことができるのです。教会は4月から新しい歩みを始めました。教会に集う私たちも固く主に繋がって、歩みたいものです。
★2013年4月14日 週報巻頭言 平山公司
【礼拝・捧げる喜び】
4月を迎え、リクルートの姿が眩しく感じる季節です。先週は桜満開のイースターで、枯れ枝に咲く桜の花が、イエス様のよみがえりを象徴しているかのように感じました。十字架のイエス様の死で離散して行った弟子たちは、イースターの朝、復活のイエス様に出会い、再び立ち上がり、世に出て行きました。
「ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け ……。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と書かれているとおり、この時から教会の営みが始まって行きます。宣教、交わり、パン裂き(主の晩餐式)、祈り、そしてバプテスマ式。これは正しく栗ヶ沢教会の礼拝の姿です。
この礼拝を大切にすることで、神様の祝福が与えられます。神を畏れ、喜びの時にも悲しみの時にも互いに愛し合う群れとなっていくならば、主は必ずこの地域のさらに多くの方たちを私たちの仲間に加えてくださいます。
★4月7日週報巻頭言 面川正史
【「復活祭」をあなたの人生の祝祭に】
イースターおめでとうございます。
私たちが救い主と仰ぐ主イエスが「十字架の主」であられることに、私たちはどれほど慰められ、支えられていることでしょう。私たち教会員は、自分だけでなく、兄弟姉妹の受ける人生の苦しみを知っています。生きる道に影を落とす不運、病い、不条理。何もしてあげられない自分の弱さ。ただ、ただ、十字架の痛みをご存知のイエス様にすがり、イエス様だけは、彼/彼女と一緒にいてくださることを信じて祈ることをゆるされて来ました。
そして、私たちが救い主と仰ぐ主イエスが「復活の主」であられることに、私たちはどれほど励まされ、勇気づけられてきたことでしょうか。出口が見えないトンネルの中でも共に祈り、愛する家族を亡くした悲しみの中で、ご一緒に御国の約束を聞きました。復活のイエス様の前で、私たちは兄弟姉妹であれました。
イエス・キリストを一緒に仰ぎ、その前で泣き、笑い、大切なことを受けとめ合った16年。ありがとうございました。
復活のイエス様の前で、お別れできますことを心から感謝しつつ。
●3月31日週報巻頭言 吉高叶
吉高叶牧師は本日をもって栗ヶ沢教会牧師を退任、4月1日よりバプテスト連盟常務理事に就任されます。
16 年間の牧師としてのお働きに心より感謝しつつ、連盟でのお働きが祝福に満ちたものとなります様お祈り致します。
就任礼拝4月25日(木)18:30(所:連盟事務所)
【十字架、神の義と愛の闘い】
どうして、この私の救いのために、主イエスは十字架にかからなければならなかったのか?この問題は、生きる間中、繰り返し身に迫ってくるテーマである。
私という罪人を赦すなら、「赦す」と宣言して放免すれば良いだけではないのか?なぜ、神は、独り子を犯罪人の一人として十字架に掛け、人々からの嘲弄、弟子たちの裏切り、神の沈黙、肉体の極限的な苦痛、そして渇き切った死を味あわせたのか?そこに、わたしの何があるからだ、と言うのか?
十字架は、神の義と神の愛が交差するところだ。神が義でなければ、この世界に秩序も倫理も何もあったものではない。罪は断罪され、悪は裁かれねばならない。しかし、そうだとしたら、果たして私は神の前に立っていられるのか?
しかし、神は「愛の神」であられた。裁かねばならないこの私を、赦すために「義にして愛なる神」がどれほど苦しんだことか。「赦す!」私への愛を選ぶために、神の義の剣は誰に向かったのか。
十字架は、神が私に対して、義ではなく愛の神であろうとしてくださった神の闘いの場であったのだ。
●3月24日週報巻頭言 吉高 叶
【福音伝道・私たちの喜び】
バプテスト教会では、よく「牧師だけが献身者ではない、信徒も献身者だ」と言われます。その通りだと思います。
バプテストが誕生する前のキリスト教世界は、いわば幼児洗礼が基本でしたから、生まれたらクリスチャン、生まれたらすぐにその土地の教会員となりました。ですから、人々は「伝道する」という動機をほとんど持ち合わせていませんでした。
バプテストはそうした自動的信仰に疑問を持ち、キリストの贖いと復活を主体的に受け止め、告白し、キリストに従う人生を決意し、「信仰告白共同体」をつくっていくようになりました。更に、その共同体を広げ、継承していくためにも、バプテストにとって伝道は避けて通れない労苦であり必然でした。
長い歴史を経て、初代教会の使徒たちの伝道の姿を取り戻したのがバプテストだったのです。伝道は、弟子たちの復活体験の衝撃と主イエスのご命令と派遣にさかのぼります。そしてペンテコステ(聖霊の賦与)によって動き始めるのです。
伝道するとは、「復活の証人」となることです。希望と命の光の中に人々を伴い行く、喜ばしい労苦なのです。
●3月17日週報巻頭言 吉高 叶