✣あなたはどこにいるのか✣
『主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった…』
(創世記3:1)とあります。
女はこの蛇が仕組んだ巧妙な罠(わな)におちてしまいます。
女は神さまが言ってもいないことを言い始めます。神さまは男(アダム)に『…善
悪の知識の木からは、決して食べてはならない…』(2:17)と命じましたが、『…触れ
てもいけない…』(3:3)とは言っていない。神さまは、触れるなとも見るなとも言って
いません。大切なのは『食べない』ことです。女の失敗を善意の解釈とみることもで
きますが、善意であれ、悪意であれ、神さまの言葉は、神さまが語った言葉として、
そのまま大切にしなければなりません。私たちも、同じ間違いをしていないでし
ょうか。聖書のことばに対して、私たちがあれこれ思いを巡(めぐら)せて、余計な
ものを付け加えたり、大切なことを差し引いたりする。そんなことをしていたら、神
さまが備えている本来の祝福から、私たちは遠ざかってしまうことになります。混沌
の世界へ誘惑する巧みな知恵(蛇のささやき)に惑わされた人間は、エデンの園から
追放されてしまいます。でも、神さまはそんな人間を何故か見捨てないのです。
●6月22日 週報巻頭言 山田 幸男
✣男と女と神の領域✣
エデンの園で、アダムは創造主なる神さまのために一生懸命働き、充実した日々を過ごしていました。そのアダムに、神さまは助ける者を与えようとして、獣や鳥、あらゆる生き物を連れて来てお見合いさせます。しかし、“ふさわしい助け手(パートナー)”としての被造物は見つからなかった。それもそのはず。アダムは神さまから、『…命の息を吹き入れられ…生きる者となった』(創世記2:7)特別な被造物です。他の生き物とは違う“尊厳(神の息吹)”を与えられています。それなら、アダムと同じ“尊厳”を備えた被造物でなければ“パートナー”にはなれません。『主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされ…人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り…女を造り』(創世記2:21-22)と聖書は語ります。神さまはアダムが眠っている間(神秘のうち)に女を創造し、アダムに与えました。二人は一体となり、喜んで神さまに仕えました。「科学的ではない、ナンセンス!」と反論する方、聖書の読み方を間違えないでください。これは古代の伝承。大切な真理を象徴的に伝えています。男と女をつなぐのは“創造主(神)”であり、神のもとで互いに助け合い、幸せになるのです。
●6月15日 週報巻頭言 山田 幸男混沌(カオス)から秩序(コスモス)へ
旧約聖書・創世記を読む人は、いきなり神の前に引きずり出されます。神存在の説明もなしに、聖書は、『神は天地を創造された』(1:1)、『神は言われた…光あれ…すると光があった』(1:3)と、神を押しつけて来る。私も、初めて創世記を読んだときにはイヤな書き方をしていると思いました。
ところが、聖書を読みたいという強い思いから、教会の聖書研究会に出席し、牧師さんによる聖書のことばの説き明かしを聞いたとき、「聖書には読み方がある」ことを知りました。聖書は、神を信じる人々が“神の啓示”を受けて書き記したもの。彼らは“創造主と被造物”の間には厳然とした区別があると考えている。信じる、信じないは別として、先ずその視点で読む。これが聖書を読むときの大前提です。「進化論(すべては偶然の産物であり、何の意味もなく誕生し、進化し、何の意味もなく死んで行く)」のインテリ思考は横へ置き、“絶対者なる神”が目的を持ってこの世のすべて(この私も)を創造したのだとの視点で読む。
すると、私の場合は、自分が存在するこの世界がそれまでとは違って見えて来ました。“光”は私の内側にも輝いて、神が分からない私を、混沌から秩序へ、確かに導き始めたのです。
●6月1日 週報巻頭言 山田 幸男
✣行け、汝の信仰、汝を救えり✣
こういう言い方は、あまり好きではないのですが、祈りの世界の素晴らしさは、実際に体験してみないと分かりません。いつの時代も信仰に生きた人は、「祈る生活」を大切にしています。祈ることによって、試練に立ち向かう勇気を与えられる。上からの力に包まれる。素晴らしい“恵み”を実感する。この上向きのスパイラルが、「祈る生活」を豊かにします。こうして祈る人は、更に次の祈りへ促されて行くのです。祈ったら、直面するすべての問題が直ちに解決するというわけではありません。祈っても祈っても、なかなか先へ進めないのが私たちの現実ではないでしょうか。ところが、聖書に登場する人々、特に神さまから祝福される人々は、それでも尚、「祈る生活」をやめない。祈り続けます。私たちは、祈ること、求めることを、なぜ、途中でやめてしまうのか。“神の時”は必ず来ます。イエスさまは盲人バルティマイに『行け、汝の信仰、汝を救えり』と言われました。バルティマイの目が見えるようになったのは、この宣言の直後です。見えるようになった彼は、その後、『なお道を進まれるイエスに従った』(Mk10:52)。その道は“受難と十字架への道”。すべての人が救いに招かれる道です。祈りが聞かれたら、あなたはどの道を行くつもりですか?
●5月25日 週報巻頭言 山田 幸男


