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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2023-10-01 18:28:09 (237 ヒット)

礼拝説教「生き返った息子」   ルカによる福音書(Luke) 7:11-15
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
週報巻頭言「生き返った息子」

  本日の聖書の直前の場面であるカファルナウムという町で百人隊長の僕を癒したイエスは、その足でナインという町に移動されました。そこは、カファルナウムから南西に40キロほど離れたところにあり、かつて、旧約の預言者であるエリア、エリシャが活動した地域に属していました。
  一行がその町の門に近づくと、ちょうどある母親の一人息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところでした。その母親は、やもめであったと書かれます。聖書では、やもめに対して愛と憐れみをもって対応するようにと、一貫して記されています。ユダヤの社会では、やもめの立場はそれほどに低かったのです。
  「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」と本日の13節に記されます。この聖書の御言葉(みことば)が、この朝わたしどもに語りかけられている聖句です。
  愛する一人息子の死。夫を亡くした女性にとって、これほど悲しいことはありません。彼女にとって、息子は生きる希望であり、自分の命よりも大切な存在であったに違いないのです。その息子の棺を前にして、なぜ「もう泣かなくともよい」とイエスが語ることができたのか。今朝は、そこに焦点を当てて、御言葉(みことば)から聞きます。

●10月1日  週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2023-09-24 17:44:13 (256 ヒット)

礼拝説教「人生の再出発」  ルカによる福音書(Luke) 15:11-24
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週報巻頭言「人生の再出発」

  本日の聖書であるルカによる福音書15章には、福音書のたとえ話の中でも特に有名な「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるイエスのたとえ話が記されています。
  物語の荒筋は次の通りです。そこには、父親と二人の息子が登場します。そのうちの下の弟のほうが、父親からの財産を生前贈与というかたちで自分の相続分を譲り受け、そのまま遠い国へ旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、その財産のすべてを使い果たしてしまうのです。やがて、その地方を飢饉が襲いました。彼は、食べる物にも事欠くようになり、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやり、豚の世話をさせたといいます。豚はユダヤ人にとっては汚れた動物として、食べることはもちろん触れることさえ忌み嫌われた動物でした。下の弟はどん底の生活を経験したのです。
  その状況下で、弟は父のもとに帰ることを決断します。すべてを失い、神の民としての誇り、生きる目標すら失って戻ってきたこの下の弟を、父親は遠いところから見つけ、走り寄って首を抱き、接吻してその帰還を喜び、彼のために宴会まで開くのです。本日は、ここから響くメッセージに耳を傾けます。

●9月24日  週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2023-09-17 16:03:54 (266 ヒット)

礼拝説教「白髪に至るまで」" To your hair becomes gray"  イザヤ書(Isaiah) 46:1-4
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週報巻頭言「白髪に至るまで」

  本日のイザヤ書46章では、冒頭にバビロンの偶像の神々の名前が登場します。「ベル」や「ネボ」と呼ばれたこれらの神々は、戦争の際の守護神として、家畜が引く荷車で運ばれ、担ぎ出される神でありました。もしも、戦争に負けた場合、それらの偶像の神は、敵国(=戦勝国)によって破壊され、あるいは廃棄されました。
  しかし、預言者イザヤは本日の箇所で、捕囚の民に対して「イスラエルの神は、家畜によって運ばれ、担がれるような神ではない!」と語ります。逆に、神ご自身がイスラエルの民の一人一人を、「生れ出た時から白髪に至るまで」持ち運んでくださる神であるというのです。ここには、大いなる逆転と慰めがあります。
  明日は「敬老の日」ですが、高齢であることを、聖書はどのように捉えているのでしょうか。また、「老いる」ということは、聖書の信仰において、どのように理解することができるのでしょうか。本日は、このことを主題として取り上げながら、聖書の信仰において、長寿を全うすることの意味を共に考えてみたいと思います。

●9月17日  週報巻頭言  牧師 木村 一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2023-09-10 17:49:28 (241 ヒット)

礼拝説教「主の鍛錬」" The Lord’s discipline"  ヘブライ人への手紙(Hebrews) 12:4-7
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週報巻頭言「主の鍛錬」

  ヘブライ人への手紙はいわゆる二代目のクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。この手紙の読者たちはキリスト教信仰の初心者ではなく、成長した信徒となることを期待された人たちでした。
  彼らの指導者たちは、過去に立派な業績を残し、殉教者として召され、信仰の戦いを立派に勝ち抜いた人たちでした。13章7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」と書かれています。彼らの指導者たちは殉教の死を遂げていたのです。
  現代は、この手紙が書かれたころ(紀元80年代)のような迫害、すなわち権力による信仰者への弾圧などはない時代です。しかし、信仰に生きることは、いつの時代であれ「戦い」であることは否定できません。この世の誘惑、富や誉れなどわたしたちを揺さぶる力が、働いているからです。
  しかし、たとえ苦難に襲われようと、それを主の鍛錬として受け止めることができる者は幸いです。神さまは、信仰に生きる者を決して見捨てたりはしません。どのような苦難であれ、それをくぐり抜けた者には「平安な義の実」が与えられるのです。

●9月10日 週報巻頭言  牧師 木村 一充



Today's Summary ” The Lord’s discipline ” by Rev. Kazu Kimura

   The letter to the Hebrews was written to so-called second-generation Christians. The readers of this letter were not beginners in the Christian faith, but were expected to become mature believers.
   Their leaders were men who had done admirably in the past, had been called to martyrdom, and had won the battle of faith admirably. In 13:7, it is written, "Remember those leaders who spoke the word of God to you. Look carefully at the end of their lives and imitate their faith." Their leaders had died a martyr's death.
   Today, there is no persecution, or oppression of the faithful by the powers of authority, as there was when this letter was written in the 80s A.D. However, we cannot deny that living the faith is always a "battle," no matter the era. The temptations of the world, wealth, honor, and other forces that tempt us are working against us.
   But blessed are those who can accept hardship as the Lord's discipline, even if it strikes them. God never abandons those who live by faith. Those who go through any hardship will be given "the fruit of peaceful righteousness."


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2023-09-03 17:46:16 (259 ヒット)

礼拝説教「キリストを着る」" Putting on Christ"  フィリピの信徒への手紙(Philippians) 3:5〜9
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週報巻頭言「キリストを着る」

  フィリピの教会は、パウロが開拓者として教会を立ち上げ、その働きを終えて、次の教会に出かけたあと、偽教師と呼ばれる人々が入ってきました。彼らは割礼を受けた者(ユダヤ人教師)であり、「肉」を頼みとする人々でした(3章3節)。具体的に言えば、ユダヤ人としての血筋、割礼を受けていること、律法を厳守していること等を、異邦人が多数集う教会の中で誇ったものと見られます。
  しかし、そのようなことは「肉の頼み」にしか過ぎないとパウロは言います。それは、イエス・キリストを誇るのではなく、自分を誇ることでしかない、そのような誇りです。パウロ自身、イスラエルの民に属し、生れて8日目に割礼を受け、名門のベニヤミン族の出身であり、律法への熱心さでは、ガマリエルの門下生であり、ファリサイ派の一員でありました。
  ところが、イエス・キリストというお方と出会ったその時から、これらの「この世的な」価値や名声は消え去り、ただキリストに捕らえられていることに喜びを見出す者となったのです。「主イエス・キリストを知ることの素晴らしさ」――それが、パウロを伝道者へと駆り立てる原動力になったのです。

●9月3日   週報巻頭言  牧師 木村 一充


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