✣ 喜びなさい 〜イサク誕生 ✣
古い雑誌(世の光2003年10月号)に、『マザーテレサに出会って』という証しがありました。あるご婦人の証しです。彼女は度々インドに出掛けては、「死を待つ人の家」でボランティアをしたそうです。これを読んで、とても励まされました。
『シスターたちの笑顔と、さりげなくやっている労働に…人の心の美しさを学び、何よりも癒されるのです。…マザーが天に召され…笑顔や声がなくなっても、後継者シスター・ニルマラによって脈々と精神は受け継がれ、シスターは増え続けています。マザーはよくおっしゃっていました。「大切なのは、私たちがどれだけ多くのことをするかではなく、行うことの中にどれだけ心を込めたかです。…今日、スープボウルを渡しながら何人に微笑みかけましたか? 手に触れてあげましたか? 短い言葉をかけましたか?」…スープやご飯を渡すことが単なる仕事ではなく、愛なのだと教えてくださいました。…人が一番求めているのは哀れみではなく、愛なのです…。』
神の愛を生きる。その愛は決して一方通行に終わらない。喜びが共有されます。イエスさまに従うとき、人は愛を共有する喜びを体験します。そして、精神的・肉体的・霊的に豊かにされるのです。
●7月27日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 忍耐から希望へ✣
信仰に「決めつけ」は禁物です。神さまのなさることは、人間の目には不思議に 見えるものです。聖書が伝える神さまは、その辺に転がっている山の神々、海の神々とはまったく違う天地の創造主です。創造主のなさることは、私たち人間の「理性の枠」では捕えきれません。それを無理やり分かろうとする、合理的に説明しようとするから、益々混乱して分からなくなるのです。信仰の歩みで大切なことは“発想の転換”です。一般的には、人が神さまをつかむ(神さまにしがみつく)ことが信仰だと思われています。ところが、聖書に登場する信仰者をみると、彼らが神さまをつかむよりも前に、神さま(天地の創造主)が人々を捕えていることに気づかされます。“神さまの絶対恩寵”を知る。これが聖書の伝える信仰です。人生のコペルニクス的転回とでもいうべき“発想の転換”です。人生は、私を中心に動いているように見える。しかし、実際には、天地の創造主が中心で、その周りを、この私だけでなく、あの人も、この人も動いている。“神の摂理(天地創造主の計画)”がある。その中に、この私も存在する。その私を通して“善いもの(恵み)”が人々にあらわされる。ここに希望があるのです。
●7月20日 週報巻頭言 山田 幸男
✣天からの恵み✣
大きくなると自分の自由にできないものが二つあるという。一つはお金。何億円もの大金を銀行に預けた場合、それを現金で動かすとなると、自分のお金であっても簡単には行かないとか。もう一つは子ども。わがままに騒いでも、乳幼児時代なら親があやすか一喝すればおとなしくなる。これが思春期を迎えると簡単ではない。余計なことを言えば、二倍三倍の反撃を受ける。エジプト放浪中、アブラムとロトは神さまの不思議な取計らいによって、羊やろばなど多くの家畜(財産)を得た。しかし、財産が増えたことで新しい問題が生じます。荒れ野には家畜を養うに十分な牧草や水がない。双方のしもべたちの間に餌の争奪戦が始まる。これを解決するためにアブラムとロトは別な土地での生活に入ります。
ロトは潤った地を選びます。一方、アブラムは荒れ地を神さまの御こころと信じて受け入れます。その後、ロトは礼拝を忘れて堕落。争いに巻き込まれ全財産を奪われてしまう。対照的に荒れ地で生活するアブラム。荒れ地には何も無い。神さまにすがる他ない。アブラムは礼拝を忘れない。この素朴な姿勢がカナン先住民の信頼を勝ち取ることにつながる。
先住民の協力を得てロトも財産も取り戻します。
●7月13日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ まっすぐ進め ✣
『アブラムは、主の言葉に従って旅立った。』(創世記12:4)。創世記12章からは族長物語です。1〜11章までの創造神話から内容が変わります。神さまに選ばれた民(イスラエル民族)の起源を伝えるお話です。同時に、四代の族長を通して、聖書信仰の基本(信仰義認)を繰り返し語っています。 アブラム(後にアブラハムと改名)は実在した人物です。私たちと同じように、迫りくる人生の試練に苦悩し、時には神さまを疑い、嘘をついたりもしています。しかし、そんなアブラムに神さまは目をとめました。そして、彼は、神さまからの一方的な恩寵として“大いなる祝福(すべての民の祝福の基となる)”を与えるとの約束を受けました。アブラムは“神さまの約束”を信じました。そのとき契約書が交わされたわけではありません。保証は何もありません。それでも彼は信じたのです。なぜ、アブラムは未だ見ていない世界を信じられたのでしょうか。それは、神さまを神さまとして、すべに勝って神さまを最優先する“信仰の人”であったからです。アブラムの信仰の最初の一歩は、慣れ親しんだ故郷を離れることでした。大胆な決断。現代人へのチャレンジです。
●7月6日 週報巻頭言 山田 幸男
✣神に遠くて近い人、近くて遠い人✣
創世記4章は、最初の人アダムとエバの子どもたちに起きた事件です。聖書が伝え
る「人類最初の殺人事件」は兄が弟を殺す悲劇。兄カインと神さまをつなぐ「縦の線」
が切れたとき、兄カインと弟アベルをつなぐ「横の線」も切れてしまったのです。
神さまは、なぜ、弟アベルの献げ物に目を留め、兄カインの献げ物には目を留めな
かったのでしょう?…聖書の神は肉食系か?…という人もいますが、そういう問題
ではありません。この物語は、人が差し出す献げ物には、神さまに受け入れられる
ものと、受け入れられないものがある、この厳然とした事実を伝えています。
神さまは、献げる人の“心”をみます。カインの献げものは、彼自身の優越感を
満足させる手段の一つでした。良し悪しを決めるのは神さまなのに、最高の献げ物を
したと思い込んでいました。一方、アベル。彼は神の民なら誰もが知る“悔い改めの
献げ物(羊の初子〈ういご〉)”をささげました。アベルは、あるがままの自分を受け
入れてくださる神さまに感謝したのです。『信仰によって、アベルは…優れたいけに
えを神に献げ…』(ヘブライ11:4)。新約聖書の光が疑問の謎を解きます。
●6月29日週報巻頭言 山田 幸男


