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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-07-26 17:42:29 (1358 ヒット)

 【神さまとお話ししましょう】

教会に初めて来た子どもたち、また「くりくりあおぞらくらぶ」で、教会に何度か来たことはあるが、礼拝堂には何となく違和感を覚え、入ったことがないと言う子どもたちに、イエスさまのことを少しでも伝えられたらと思いました。特に、
○イエスさまは、高い空の上から見下ろしている神さまではなく、常にそばに居て見守って下さっていること、
○祈りを通していつでも神さまとお話し出来ること、
○しかも、自分の言葉で「神さま」!!
と呼びかけ、嬉しかったこと、悔しかったこと、何でも心の中にあることを神さまに打ち明けられること、
○すべてを打ち明けることにより、心のわだかまりを、イエスさまは受け止めて下さるお方であることを知って欲しいのです。
これからの長い人生を、イエスさまを通して、神さまと共に語り合いながら歩き、成長して行って欲しいと願うものです。

●7月28日 週報巻頭言 杉野説子
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-07-15 13:47:56 (1424 ヒット)

 【有権者の優越感(?)】

今日は、参議院選挙の投票日です。いつもそうですが、投票日が近づくと各政党と候補者たちは、自分こそ日本の現在と未来を担う適任者だと呼びかけながら必死になって選挙運動を行います。有権者はこのときだけ、民主主義の真の意味−すなわち、民 (たみ )が主 (ぬし)になるような錯覚で、優越感に陥ります。しかしそれも束の間、選挙が終わると元の僕の立場に戻り、またその優越感を味わうには次の選挙まで待たなければなりません。士師時代、王様を立ててくださいというイスラエルの民の要求によってサウル王が立てられ、その結果、様々な問題に苦しんだことが思い出されます。(上サムエル記 8章)結局、正しい王国になるまでには、神様に油注がれたダビデ王の登場を待たなければなりませんでした。つまり、人間の意志で立てられた指導者には、限界があるということです。本来、真の王様は神様だけです。

自分と民を幸せにする政治家は、民と主(しゅ)を恐れます。素晴らしい選挙公約もいいですが、今日、われわれに最も必要なのは、ザアカイのようにイエス様を受け入れ、自分の財産の半分さえ主に献げる信仰を持ち、イエス様に「この人もアブラハムの子」と認められるような政治家ではないでしょうか?
●7月21日 週報巻頭言 文廷翼



投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-07-10 09:56:57 (1901 ヒット)

 【弱さから組み立てられる】

祈っても祈っても、その身から取り去られることのなかったとげ。当時パウロがどのような弱さの中に苦しんでいたのかわかりませんが、今を生きている私たちに対しても、とても乗り越えることができない、とその場にうずくまってしまうような弱さのとげが与えられること・与えられていることがあります。何千、何万回と祈り、長期間にわたって祈り、もう心身がしびれきって、その感覚すらも失ってしまうほどに祈っても、解決されない私の弱さ、苦しみ。「もうどうやって祈ってよいのかわからない」。私のそのような呻きにイエスさまは応えられます。「その弱さの中にこそ、私の居場所がある。そここそ私があなたにあらわされる場所である」と。イエスさまとの出会いによって、私の中の弱さを見つめる視点が少しずつ、けれどもまったく変えられていきました。私が考えていた弱さは、弱さではなかったし、私が願っていた強さは、強さではありませんでした。この栗ヶ沢教会でのバプテスマから30年以上が経ちます。相変わらず私は弱いままです。しかし、そんな私の中心に神さまとつながる場所が与えられています。それが私の強さです。

●7月14日 週報巻頭言 入江恵里子


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-07-01 14:54:59 (1394 ヒット)

【甘いことばをいただきましょう】 
エルサレムの神殿祭司だったエゼキエルは王とともにバビロンに捕囚されたある日、ユーフラテス川支流の川沿いを歩いていると劇的な幻を見ます。 天から指し伸ばされた手には巻物が握られ、それを食べる様に言われます。 すると「それは蜜のように口に甘かった。」 そしてこれをイスラエルの民に語るよう命じられます。 しかし、伝える相手は「恥知らずで、強情な人々」でまったく聞く耳を持たず、結果エルサレムは滅んでしまいます。私たちは、この歴史的教訓から頑なな心を解いてみことばを受け入れる大切さを学びます。
主イエスと私たちの間にはドアが1枚あるとたとえられます。 普通の家のドアには内側と外側にドアノブがあり、どちらからでも開けられます。 しかし、主イエスとの間のドアは私たちの側にしかドアノブがなく、主イエスの側から開けられることはないのです。 
私たちは自分の側からドアを開け、大きな口を開けて甘いみことばをいただきましょう。
●7月7日 週報巻頭言 前野一郎




投稿者 : webmaster 投稿日時: 2013-06-27 16:16:21 (1358 ヒット)

「真の休息とは?」
 日本バプテスト連盟の協力伝道のために、吉高叶先生を常務理事の尊いお働きに送りだされた皆さまの献身に心から敬意を表しております。貴教会のこれからの導きのために祈らせていただきます。 私たちは日常の中で多くの課題を背負っています。「忙しい、忙しい」と心の中でつぶやくことのなんと多いものでしょう。忙しいとは心を亡くすと書きます。だからこそ、そんな私たちに、立ち止まる時、すなわち、礼拝・祈ることへと主は招かれるのです。そして、そんな私たちに、主イエスはこのように語られます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。一体、主イエスが与えられる「休み」とはなんでしょう。このように続きます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」そう語られているのです。「休ませる」と約束しておられるのに、「軛(くびき)を負え」とは矛盾しているようにも思えます。しかし、「主の軛」こそが、主ご自身と私、そして、他者とをしっかりつなぎます。主は、「まるごとのあなた」を神の国の食卓に、他者と生き合う歩みへと、心から招きたいのです。そして、それこそが「真の休息」なのです。 
  ●6月30日 週報巻頭言 柴田良行


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