✣ その言葉には権威があった ✣
    昔、人々は、大地は不動と考えました。地球は宇宙の中心にあり、太陽や月、その他の星は地球の周りをまわっていると思っていました。実際、今でも外へ出て夜空を眺めれば、月や星が地球の周りをまわっているように見えます。しかし、中には夜空を不規則に動く星があります。それは惑星(水星・金星・火星・木星・土星)です。不規則な動きに目をとめたのが、コペルニクスとガリレオです。彼らは注意深く観測を続け、やがて不動と信じられていた地球が、動いていることを発見しました。ガリレオは木星観測から、そこに太陽系のひな形を発見しました。また、彼は土星の輪も発見しました。
    今、天動説を信じて、「地球は宇宙の中心にある」などと言う人はいません。地球が太陽の周りをまわっていたのです。かつて、ガリレオに「異端」の烙印を押したカトリック教会も、数百年を経て過ちを認め、ガリレオの名誉を回復しました。
    では、キリスト教が間違っていたのでしょうか?そうではありません。人が、自分の考えにこだわり、“自己相対化”出来なかったからです。同じ間違いは、今でも起きます。
    キリストの十字架に対する“謙遜”を忘れないようにしましょう。自分を“謙遜”にする方法を知っている人は幸いです。
●1月11日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ あたりまえを整える ✣
    キリストは、力づくで無理やり人を回心させたりはしません。人が回心するのは“御言葉”が心に響いたときです。“御言葉”が心に響くと、その人に祈る心が与えられます。でもその時、祈るか祈らないかを決めるのは、その人自身です。その意味で、信仰における「人間の主体性」は消えません。
    実際に祈ることを選び取った人は、祈ったあと、行動へ促されます。ここでも、行動するか、しないか、どちらを選ぶかは、その人が決断するのです。決断できない場合は、更に祈って、それが間違いなく“天からの促し”であると確信するまで祈るのです。ここでも信仰における「人間の主体性」は消えていません。
    神さまは、“祈り求める者に門を開く”“万事を益とする”と聖書に記されています。しかし、「はい」と素直に従えないのが私たち「罪人の現実」です。私たちが「主体性」をもって決断しなければ何事も先へ進みません。神さまが手とり足とりしてくださる時もありますが、それはまれなことです。信仰とは基本的に“神の絶対恩寵”ですが、「人間の主体的応答」なしには成立しないのです。
    聖書のことばが心に響いたとき、それを心の引き出しにしまい込むのではなく、その感動を誰かに知らせたり、実際に行動してこそ「信仰」です。素晴らしい出来事が起きるのはそういう時です。
●1月4日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ この目で救いを見た ✣
    新約聖書ヤコブの手紙4章6節に、「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」とあります。「高慢」はあらゆるものを破壊します。神さまを信じない人も「高慢」の害は知っています。「高慢」から生まれる「強情」に心を支配されて好機(チャンス)を逃してしまう。「見栄」を張って人間関係に要らぬヒビを入れてしまう。「知ったかぶり」をして、あとで大きな恥をかく…。心当たりはありませんか?
    「高慢」は自分だけでおさまりません。周りにいる人々を巻き込んで迷惑をかけたり、時には取り返しのつかないダメージを残してしまう。誰もが「高慢」の弊害を知っています。しかし、頭では分かっていてもやめられず、同じことを繰り返してしまう。これが私たちの現実です。
    二千年昔、救い主イエスは、にぎやかな大都市ではなく、田舎の寒村に誕生しました。ウルトラマンのように勇ましく登場したのではなく、無力な赤ちゃんとして世に降りました。生まれた場所は馬小屋(家畜小屋)。ひざを折り、腰を曲げ、頭を下げないと、飼い葉おけに眠るイエスさまにお会いできません。これは、よく知られた格言「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を見える形で伝えています。
●12月28日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 恐れるな ✣
    私たちは「自分を認められたい」と常に願っています。これは人間の自然な欲求であり、決して悪いことではありません。もし問題があるとすれば、「他の人よりも上に立つことが神さまの御こころ」であるかのように錯覚してしまうこと、或いは、「成功や勝利だけが神さまの祝福」であるかのような思い違いをしてしまうことです。
    二千年昔、高貴な“神の子キリスト”はベツレヘムの馬小屋(家畜小屋)にお生まれになりました。“神の子”なら、エルサレムの立派な神殿か、豪華な王宮に生まれる方がふさわしいのではないか。なぜ粗末な場所にお生まれになったのでしょうか。
    その理由は、そこは誰でも来られる場所だからです。新約聖書にこうあります。『キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって…十字架の死に至るまで従順でした。』(フィリピ2:6‐8)。
    人は上へ昇ることによって栄光を得ようとします。ところが、“キリスト”は下へ降ることによって栄光を現しました。自ら消耗して、周囲を照らすロウソクの灯のように、静かに輝き続けます。
●12月21日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 光を灯すクリスマス ✣
    “クリスマスの光”はすべての人を照らします。クリスマスの意味を知っている人も、知らない人も、すべてです。神さまに差別はありません。クリスマスには、二つの「愛」の違いが明らかにされます。「人間の愛(新約聖書の言語・ギリシア語でエロス)」と「神の愛(同じくアガペ)」です。
    二つの「愛」には決定的な違いがあります。エロスは見返りを求める「限定的な愛」で、いつかは消えてしまう。一方、アガペは見返りを求めない「無限の愛」、永遠に変わらない「不滅の愛」です。アガペは“キリスト降誕”によって歴史の中に受肉化し、すべての人に啓示されました。実際、今の季節は、お寺の幼稚園もイスラム教徒も、世界中の人々が“神の愛”に思いを馳(は)せています。すべての人がクリスマスを喜んでいる事実があるのです。
    この季節、子どもたちばかりでなく、聖書を知らない大人も、“サンタクロースの伝説”からアガペを体験します。喜びを体験した子どもたちが大人になると、今度は自分の子どもたちに“サンタクロースの伝説”を伝えます。こうしてアガペは未来に継承されます。神の御心は、すべての人がアガペを知り、その“光”に包まれることです。心に“光”を灯しましょう。
●12月14日 週報巻頭言 山田 幸男



 
  教会愛唱歌
教会愛唱歌

 
 