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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-11-13 18:03:59 (1213 ヒット)

✣ 喜びに連なる ✣

    《…わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる》(イザヤ56:7)。この預言の言葉をイエスさまは雑然としたエルサレム神殿に向かって叫びました(マタイ21:13)。《祈りの家》であるはずの神殿(聖所)が商店街(世俗)のようになっていたからです。無理もありません。イエスさまの時代、過越祭には各地から二百万人もの巡礼者がエルサレムに押し寄せていました。
    しかし、何百万人集まろうと、そこは《祈りの家》です。イエスさまは商店街(世俗)を嫌ったのではなく、《祈り》がいい加減にされていることを怒ったのです。そのとき、神殿には三種類の人々がいました。
    「両替人と商人」。巡礼者の献金は聖所のシェケル以外は無効。両替は不可欠。また神への奉納物(山鳩)は認定品以外無効。両替人も商人も、有利な立場を利用して法外な手数料をむさぼった。次は「通行人(巡礼の旅人)」。神殿の外壁を迂回する労力を惜しむ人々は、神殿の庭(祈り場)を近道にして闊歩。祈りを忘れ自由をむさぼった。最後は「宗教家(祭司・律法学者)」。神殿ビジネスで莫大な利益を上げ、私腹を肥やした。《祈りの家》を「強盗の巣」にした張本人。この三種類の人々が、イエスさまを十字架に掛けて殺したのです。

●11月16日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-11-06 17:05:58 (1331 ヒット)

✣ 苦難のしもべによって ✣

    今頃の季節になると綺麗に着飾った子どもたちを見かけます。「七五三」のお宮参りでしょうか。わが子の成長を喜び祝う。日本人に限りません。どこの国でも、どんな親でも、すべての親がわが子の健やかな成長と、その人生の祝福を願っています。
    日本人は物事をはっきりさせるのを好まない民族であるとの批判があります。かくいう私も日本人。確かに私にも「曖昧(あいまい)」なところがあります。灰色の部分を残したまま、事柄を右から左へ流してしまうのです。
    人々は、その意味を考えもせず年中行事のひとつとして「七五三」を神社で行います。また、お彼岸の頃になれば、「みんなが墓参りに行くから…」と、自分の宗教(宗旨)は「曖昧」のまま、信じてもいない世俗の習慣に歩調を合わせる。家庭で、職場で、学校で、あらゆる場所で「曖昧」がまかり通っています。そこには、「なあなあ…まあまあ…」で事柄を済ませている「私」がいるのです。さらに、そんな「私」に対して何の疑問も感じない「私」がいる。それで良いと思っているのです。
    「政治も経済も、教育も福祉も、世の中はみんないい加減だ!」と立派な批判をしながら、ゴミの捨て方はまるでいい加減な「私」がいる。問題の根はどこにあるのでしょう?旧約聖書の預言者が現代を問う。

●11月9日 週報巻頭言 山田 幸男 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-31 11:30:49 (1348 ヒット)

✣ 永遠の故郷とは ✣

    きょうは「召天者記念礼拝」です。講壇の前に“天の御国”へ凱旋した兄姉の写真が並んでいます。誤解のないように申し上げておきます。教会では死者を拝みません。聖書は“天の御国”へ凱旋した兄姉が、「神さま」や「仏さま」になるとは教えていません。
    それなら、なぜ、「召天者記念礼拝」を行うのでしょうか。その理由は、今は亡き兄姉がこの地上にいたときに大切にしていた“精神 (Spirit)”を私たちが受け継ぐためです。傲慢にならないために“謙遜の心”を忘れない、試練に負けないために“天地創造主がいつも共にいてくださる(インマヌエル)”を忘れない、聖書にあるように“主なる神は、神を信じる人々と共に働いて万事を益としてくださる(Rom8:28)…希望”を忘れないためです。
    これらをひとことで言えば、“キリストのいのち”を受け継ぐこと。そこには“ぬくもり(あたたかさ)と成長(完成をめざして変わり続ける)”があります。これと対極にあるのが「死」。「死」の特徴は時間経過と共に「冷たく」なり「硬直化」する。やがて「腐って」「朽ち果てる」。私たちはきょう、在りし日の兄姉を偲び、“キリストのいのち”を受け継ぐために集いました。“キリストのいのち”こそ、“永遠に輝く光”。ここに“永遠の郷里”がある。聖書はそのように教えています。

●11月2日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-23 19:03:39 (1298 ヒット)

✣ 神の力に守られて ✣

    『慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる』(イザヤ40:1)。この預言が語られたのは、今から約2600年昔のこと。バビロン帝国に支配された神の民へ預言者が“苦難からの解放”を伝えました。
    ソロモン王の統治のあと、イスラエル王国は南北に分裂しました。王家に仕えた側近を王様に据えた北王国と、ダビデ王・ソロモン王の直系を王様と仰ぐ南王国です。
    北王国は紀元前720年頃(2700年昔)アッスリア帝国に滅ぼされてしまう。最大の理由は「不信仰」でした。当時の人々は国が繁栄するほど、神ならぬものに心を奪われ礼拝を疎(おろそ)かにした。偶像の神々、それは異教の神々に限らない。この世の地位や名誉、お金や財産も、人を神から遠ざけてしまうなら「偶像」に他なりません。
    北王国の崩壊を目撃した南王国の人々は、礼拝第一、信仰を大切に、と痛感して安息日、断食、献げものに熱心になります。ところが、そこに落とし穴がありました。
    その熱心が信仰を「形骸化」させてしまうのです。人々は自分の熱心を誇り弱い人をさばく。神の御心よりも自分の思いを優先する。前587年、聖都エルサレムはバビロンに破壊され、人々は遠い異国へ連行される。が、預言者は希望を語る。

●10月26日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-17 12:18:59 (1803 ヒット)

✣ この人はできるかぎりのことをした ✣

    ある女性が高価な香油の壺を割ってイエスさまの頭に注ぎました。それを目撃した人々は女性を激しく非難しました。香油を売れば大金を得られるし、そのお金でより多くの人々を助けることができるからです。しかし、女性はイエスさまのためだけにその行為をしたのです。それは、その時、彼女がイエスさまに対してできる精一杯の行為でした。
    この女性と、彼女を非難する人々の姿は、現代人にも見受けられます。それは男性と女性の感覚の違いかもしれません。また、博学な学者先生と浅はかな庶民の違いかもしれません。ある本に、『…いわゆる文化人、評論家と呼ばれる人たちは、女性を非難した人々にそっくりです』とありました。『…評論家をプールサイダーと呼びます。自分は飛び込んで泳ぎもしないのに、プールのそばで泳ぐ人の泳ぎぶりをあれこれ批評する。言葉だけの専門家…この類の人種がかなり多い…』(佐伯晴郎著「明日をめざして」現代説教選集より)。
    ところで、香油を注がれたイエスさまはどんな反応を見せたか。『イエスは言われた。「するままにさせておきななさい…わたしに良いことをしてくれた…この人はできるかぎりのことをした…前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた。」』(マルコ14:6-8)。イエスさまは女性の行為を喜びました。間もなく十字架で死ぬことを自覚していたからです。高価な香油をイエスさまに注ぐ女性。それは行為なき抽象論に勝る。立派な可能性を論じるよりも、素朴な行為を実行する。そこに“神の祝福”がある。

●10月19日 週報巻頭言 山田 幸男


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