「壁を破る力」
復活したイエスさまはガリラヤ湖で漁をしている弟子たちにあらわれました(ヨハネ21:4)。ここで注目したいのは復活したイエスさまが『舟の右側に網を打ちなさい』と言ったとき、弟子たちはそのとおりにしたことです。夜通し働いて何も獲れなかったのに、イエスさまに従うと大漁でした。弟子たちの中にはペトロはじめ、元漁師がいました。彼らは漁のプロです。漁のことなら何でも知っています。プロがやってダメだったわけですから、その日の漁はダメなはずです。復活したとは言え、イエスさまは元大工。漁師にすれば、「大工は黙っていろ!」と言いたいところでしょう。しかし、弟子たちは知ったかぶりせず、謙虚になってイエスさまに従いました。 私たちは“御言葉の力”を頭では分かっています。ところが“御言葉”を実行しないのです。収穫(神の恵み)に与れないのは、神さまが意地悪をしているからではありません。自分の経験、自分の計画、自分のやり方を“御言葉”よりも優先していませんか? イエスさまの言葉に従えば予想もしない素晴らしい出来事が起きる。聖書は繰り返し、そう伝えています。
●5月4日 週報巻頭言 山田 幸男
「新しい人生が始まる」
復活信仰とは“いのちを持つ信仰”です。いざ、ここというときに具体的に力を発揮する信仰です。希望と愛とが泉のように心の底から湧き上ってくる信仰です。“キリストの復活”を無理に信じようとしても、自分の内側から生ける水が流れ出るようにはなりません。 なぜか? 大切なものが欠けているからです。それは“神と和解する体験”です。その最初のステップは“罪の悔い改め”です。自分自身が十字架のキリストの方へ向き直ることです。聖書の言葉を誰かにつきつけて、その人を裁くのではなく、自分自身を吟味するのです。次のステップは“罪を赦された体験”です。現実の自分と向き合う。都合よく神さまを忘れている自分がいる、御言葉を生活の中で生きることを拒否する自分がいる。この自覚です。自分を問うとき、イエスさまの“十字架の愛”が、初めて“高価な恵み”として迫ってきます。「罪」の自覚が増すほど、“神との和解の体験”も深まる。福音の逆説(パラドックス)です。こうして不信仰な人程“キリスト復活”を確信して『新しい人生』を歩み始めるのです。
●4月27日 週報巻頭言 山田 幸男
「取り残されたトマスにも」
イースターを迎えると、こんなつぶやきが聞こえてきます。
「キリストの十字架はわかるが、復活はわからない」「十字架は信じるが、復活は信じない」
キリストの弟子の中にも同じことを言った人がいました。トマスです。彼は物事を理性的に判断する実証的な人でした。彼はわかっていないことをわかったようには言えない。正直な人です。正直であることは大切です。
しかし、それは裏返えせば「頑固」だとも言えます。自分の目で見て、自分の手で触ってみないと「キリストは復活した」と言えない。嘘は言えない。そのトマスも、他の弟子たちより一週間遅れて“キリストの復活”を体験します。トマスが“復活”を体験したきっかけは弟子たちの交わりへ戻ることでした。それは“礼拝”です。そこには復活を疑うトマスを排斥しない仲間がいました。
“復活したキリスト”は素直になれないトマスのかたくなさをものともせず、彼の心に入ります。“復活”はトマスごときが疑って崩れるようなものではありません。
崩れたのは“復活”ではなく、「トマスの罪」でした。その後、トマスは“キリストの足跡”を残しました。
●4月20日週報巻頭言 山田 幸男
『イエスと二人の強盗』
きょうから受難週に入ります。この週の金曜の朝、イエスさまは十字架で贖(あがな)いの死を遂(と)げます。しかし三日の沈黙を経て、日曜日の朝、復活します。 イエスさまが十字架に磔(はりつけ)られたとき、二人の犯罪人がイエスさまと一緒に十字架で処刑されました。この二人の条件はまったく同じです。ところが、一人は変わり(悔い改める…自分の罪を告白)、一人は変わらない(悪態をつく…自分の罪を自覚しない)。同じ境遇にありながら、なぜ、こうした違いが起きるのでしょうか。 条件は同じでも、まったく違う結果が生じるのは、めずらしいことではありません。同じ親から生まれ、同じ環境で育った子どもたちが、まったく違う人生を歩むという話を耳にします。条件は同じなのに、なぜ、結果が違って来るのでしょう。ある人は幸せに、ある人は不幸になるとしたら、どこが違うのでしょうか。 幸せになる人には共通する特徴があります。自分で選べないことよりも選べることに注目する。自分で変えられる所を見つけて、そこを積極的に変える。イエスさまの方へ向き直った犯罪人は楽園(神の祝福)を約束されました。
●4月13日週報巻頭言 山田 幸男
『さあ立て、ここから出かけよう』
私たち日本人は「中道精神」を好みます。白黒をはっきり決めるよりも、「灰色の部分」を残して「あいまい」にしておく方が得策と考えます。
政治、経済、宗教その他、日常生活のあらゆる場面に「灰色の部分」が存在します。ところが昨今、その「灰色」が内部告発によって暴(あば)かれ、政治家や音楽家が次々と失脚しています。「灰色(あいまい)」を良しとしたために、結局、自(みずか)ら滅びを招いてしまったのです。
ところで、私たちの信仰の歩みはどうでしょう。信仰生活に「灰色の部分」はないでしょうか。御言葉に従うことを「あいまい」にしておけば、波風は立ちませんが、たいした喜びもありません。いざというときに信仰は何の役にも立たないでしょう。
イエスさまから“我に従え”と招かれたら、私たちは従うか従わないか、YesかNoか、どちらかを決断しなければなりません。
決断が「あいまい」では祝福をつかみそこねてしまいます。「ゲッセマネで祈る」イエスさまに注目しましょう。十字架に向かう直前、イエスさまでさえ、汗と涙を流して、ひたすら祈っています。
立ち上がるために、私たちも、まず祈ることから始めましょう。
●4月6日週報巻頭言 山田 幸男