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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-06-08 12:44:18 (1182 ヒット)

人として生きるとは 
『神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。こうして人は生きる者となった』(創世記2:7)土から創造された肉のかたまりにすぎな人に対して、神さまは他の被造物にはしなかったことをしました。『命の息』を吹き入れた。もちろん、他の被造物にも『命』は与えましたが、『命の息』を与えたのは人間だけです。聖書はそう伝えていますどういうことでしょう。 
 旧約聖書創世記の『命の息』を新約聖書使徒言行録は『聖霊(Holy Spirit)』と訳しています。イエスさまに従う人々を内側から刷新した、あの『上からの力』です。『聖霊』を受ける前、イエスさまの弟子たちは不安と絶望でぺしゃんこにされていました。空気の抜けたタイヤのような状態です。自転車でも、自動車でも、タイヤがそんな状態では安定した走行は出来ません。無理して走れば危険ですらあります。 
 聖書は読まない、隣人愛さない。祈りはするがご利益祈願に終始こういう人生も危険です。『命の息』魂を満たすことを忘れているからですすべの悲劇の根(罪)はここにあると聖書は語ります魂を潤せ、そうすれば『』がえる。神さまは人をそのように創造されたのです。 
●6月8日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-06-01 09:22:11 (1654 ヒット)

混沌(カオス)から秩序(コスモス)へ

旧約聖書・創世記を読む人は、いきなり神の前に引きずり出されます。神存在の説明もなしに、聖書は、『神は天地を創造された』(1:1)、『神は言われた…光あれ…すると光があった』(1:3)と、神を押しつけて来る。私も、初めて創世記を読んだときにはイヤな書き方をしていると思いました。
ところが、聖書を読みたいという強い思いから、教会の聖書研究会に出席し、牧師さんによる聖書のことばの説き明かしを聞いたとき、「聖書には読み方がある」ことを知りました。聖書は、神を信じる人々が“神の啓示”を受けて書き記したもの。彼らは“創造主と被造物”の間には厳然とした区別があると考えている。信じる、信じないは別として、先ずその視点で読む。これが聖書を読むときの大前提です。「進化論(すべては偶然の産物であり、何の意味もなく誕生し、進化し、何の意味もなく死んで行く)」のインテリ思考は横へ置き、“絶対者なる神”が目的を持ってこの世のすべて(この私も)を創造したのだとの視点で読む。
すると、私の場合は、自分が存在するこの世界がそれまでとは違って見えて来ました。“光”は私の内側にも輝いて、神が分からない私を、混沌から秩序へ、確かに導き始めたのです。    
●6月1日 週報巻頭言 山田 幸男



投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-05-22 16:43:28 (1765 ヒット)

✣行け、汝の信仰、汝を救えり✣

こういう言い方は、あまり好きではないのですが、祈りの世界の素晴らしさは、実際に体験してみないと分かりません。いつの時代も信仰に生きた人は、「祈る生活」を大切にしています。祈ることによって、試練に立ち向かう勇気を与えられる。上からの力に包まれる。素晴らしい“恵み”を実感する。この上向きのスパイラルが、「祈る生活」を豊かにします。こうして祈る人は、更に次の祈りへ促されて行くのです。祈ったら、直面するすべての問題が直ちに解決するというわけではありません。祈っても祈っても、なかなか先へ進めないのが私たちの現実ではないでしょうか。ところが、聖書に登場する人々、特に神さまから祝福される人々は、それでも尚、「祈る生活」をやめない。祈り続けます。私たちは、祈ること、求めることを、なぜ、途中でやめてしまうのか。“神の時”は必ず来ます。イエスさまは盲人バルティマイに『行け、汝の信仰、汝を救えり』と言われました。バルティマイの目が見えるようになったのは、この宣言の直後です。見えるようになった彼は、その後、『なお道を進まれるイエスに従った』(Mk10:52)。その道は“受難と十字架への道”。すべての人が救いに招かれる道です。祈りが聞かれたら、あなたはどの道を行くつもりですか?
●5月25日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-05-16 15:00:19 (1280 ヒット)

✣祝福を呼び込む知恵✣

イエスさまは静まるときを持つために、弟子たちを連れて離れた場所へ退きました。そこへある女性が訪ねて来ました。彼女は異邦人です。当時、ユダヤ民族以外の民は神さまの祝福を受けられないとされていました。彼女には原因不明の病で苦しむ娘がいました。娘を癒して欲しい…わらにもすがる思いで彼女はイエスさまのところへやって来たのです。ところが、イエスさまは必死に願う彼女に何も答えない。このとき、この女性はどうしたか。泣き崩れてあきらめた? 弟子たちに泣きついた? 怒って立去った?すべて違います。彼女は答えてくれないイエスさまに、それでも尚、求めました。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』(マルコ7:28)。大切なパンを分けていただけないなら、食卓から落ちるパン屑で結構ですと言って、イエスさまの前にひれ伏したのです。この物語は、マタイとマルコ、二つの福音書に記されています。マタイ福音書によると、イエスさまは、『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように』(マタイ15:28)と答え、その時、娘の病気は癒されたと記されています。信仰の本気度を問われる思いがします。

●5月18日 週報巻頭言 山田 幸男
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-05-09 12:06:27 (1248 ヒット)

「豊かな報いがある」
きょうは「母の日」です。「母の日」は教会から始まりました。20世紀初頭、米国の田舎の教会に、教会学校教師として奉仕するジャービスという婦人がいました。ある日曜日、彼女は“あなたの父母を敬え”の御言葉から、「お母さんの愛に感謝を表す方法を考えてください」と子供たちに語りました。彼女の娘、アンナもその話を聞いていました。歳月を経て、ジャービス婦人が亡くなったとき、アンナは追悼式で子供の頃に教会学校で聞いた母親のあのメッセ-ジを思い出し、参列者に紹介しました。そして、母親が大好きだったカーネーションをたくさん飾って母親を偲びました。参列者はこの出来事に深く感動したそうです。この話を伝え聞いたクリスチャン実業家ワナメーカーが、彼の経営する百貨店にカーネーションを飾り、「母親に感謝する会」を盛大に催します。1908年5月の第二日曜日のことでした。これが全米に波及。1914年、米国大統領ウイルソンが米国の全国行事として発令します。こうして「母の日」は米国から全世界へ広がりました。教会学校教師の蒔いた種(福音)が、人の思いを超えて、豊かな実を結んだのです。

●5月11日 週報巻頭言 山田 幸男


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