✣ その幸いを問う ✣
「貧しい人々は幸いである」「今飢えている人々は幸いである」「今泣いている人々は幸いである」(ルカ6:20-21)。
非常に挑戦的な宣言です。貧しい人、飢えている人、泣いている人のどこが幸いだというのか。イエスさまは弟子たちに何を教えたのでしょうか。
『福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところにある。ユダヤの国で貧しい人というのは、少なくとも神から祝福された者ではない。…神から遠い存在であり、資格のない者…そういう人たちを慰め…満ちたらせるために、イエスが来られたところに福音がある。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちは幸いなのである。逆に、喜んでいる者…満ち足りている者…笑っている者はなぜわざわいなのか…その人たちのために来てくださったイエスを受け入れず、福音を聞かないから…神の国の恵みにあずかることができない…。』(榎本保郎著・新約聖書一日一章113頁より)。
イエスさまが来たことによって、人の常識を揺さぶる『新しい世界』が始まった。しかし、その代価として、罪のないイエスさまは、罪人のために『十字架』で死んだのです。
●1月25日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ イエスに従う ✣
イエス様は世の中で、唯一罪のない人間であり、同時に人間の罪を、背おって十字架につけられた王であることを知りました。
不思議な気持ちになりました。他人をゆるす心がめぐみだと思いました。前は妹と外へ出るのも恥ずかしかったけれど、それからはホットネットと言うボランティア団体の食事会に仲よく二人で行くようになりました。
イエス様のなさる十字架のみ業によって、大切にしてきた経験も、プライドも、すべて捨てる事になりました。
私の生活はイエス様を真ん中にするものとなりました。
これからもイエス様にしたがっていきたいと思います。
●1月18日 週報巻頭言 小茂田 勉
*当日は、小茂田勉兄、面川正史兄、両名により、証しが語られました。
✣ その言葉には権威があった ✣
昔、人々は、大地は不動と考えました。地球は宇宙の中心にあり、太陽や月、その他の星は地球の周りをまわっていると思っていました。実際、今でも外へ出て夜空を眺めれば、月や星が地球の周りをまわっているように見えます。しかし、中には夜空を不規則に動く星があります。それは惑星(水星・金星・火星・木星・土星)です。不規則な動きに目をとめたのが、コペルニクスとガリレオです。彼らは注意深く観測を続け、やがて不動と信じられていた地球が、動いていることを発見しました。ガリレオは木星観測から、そこに太陽系のひな形を発見しました。また、彼は土星の輪も発見しました。
今、天動説を信じて、「地球は宇宙の中心にある」などと言う人はいません。地球が太陽の周りをまわっていたのです。かつて、ガリレオに「異端」の烙印を押したカトリック教会も、数百年を経て過ちを認め、ガリレオの名誉を回復しました。
では、キリスト教が間違っていたのでしょうか?そうではありません。人が、自分の考えにこだわり、“自己相対化”出来なかったからです。同じ間違いは、今でも起きます。
キリストの十字架に対する“謙遜”を忘れないようにしましょう。自分を“謙遜”にする方法を知っている人は幸いです。
●1月11日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ あたりまえを整える ✣
キリストは、力づくで無理やり人を回心させたりはしません。人が回心するのは“御言葉”が心に響いたときです。“御言葉”が心に響くと、その人に祈る心が与えられます。でもその時、祈るか祈らないかを決めるのは、その人自身です。その意味で、信仰における「人間の主体性」は消えません。
実際に祈ることを選び取った人は、祈ったあと、行動へ促されます。ここでも、行動するか、しないか、どちらを選ぶかは、その人が決断するのです。決断できない場合は、更に祈って、それが間違いなく“天からの促し”であると確信するまで祈るのです。ここでも信仰における「人間の主体性」は消えていません。
神さまは、“祈り求める者に門を開く”“万事を益とする”と聖書に記されています。しかし、「はい」と素直に従えないのが私たち「罪人の現実」です。私たちが「主体性」をもって決断しなければ何事も先へ進みません。神さまが手とり足とりしてくださる時もありますが、それはまれなことです。信仰とは基本的に“神の絶対恩寵”ですが、「人間の主体的応答」なしには成立しないのです。
聖書のことばが心に響いたとき、それを心の引き出しにしまい込むのではなく、その感動を誰かに知らせたり、実際に行動してこそ「信仰」です。素晴らしい出来事が起きるのはそういう時です。
●1月4日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ この目で救いを見た ✣
新約聖書ヤコブの手紙4章6節に、「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」とあります。「高慢」はあらゆるものを破壊します。神さまを信じない人も「高慢」の害は知っています。「高慢」から生まれる「強情」に心を支配されて好機(チャンス)を逃してしまう。「見栄」を張って人間関係に要らぬヒビを入れてしまう。「知ったかぶり」をして、あとで大きな恥をかく…。心当たりはありませんか?
「高慢」は自分だけでおさまりません。周りにいる人々を巻き込んで迷惑をかけたり、時には取り返しのつかないダメージを残してしまう。誰もが「高慢」の弊害を知っています。しかし、頭では分かっていてもやめられず、同じことを繰り返してしまう。これが私たちの現実です。
二千年昔、救い主イエスは、にぎやかな大都市ではなく、田舎の寒村に誕生しました。ウルトラマンのように勇ましく登場したのではなく、無力な赤ちゃんとして世に降りました。生まれた場所は馬小屋(家畜小屋)。ひざを折り、腰を曲げ、頭を下げないと、飼い葉おけに眠るイエスさまにお会いできません。これは、よく知られた格言「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を見える形で伝えています。
●12月28日 週報巻頭言 山田 幸男