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エフェソの教会は、使徒パウロが第2回伝道旅行の最後の訪問先である小アジアの首都エフェソで、開拓伝道によって立てた教会です。パウロは、この地に2年にわたって滞在し、ここでキリストの福音を宣べ伝えました。結果的に、パウロが訪れたギリシャの諸都市のうち、このエフェソでの滞在期間がもっとも長期になりました。この手紙は、パウロがエフェソを離れた後、さまざまな試練にさらされた同教会の信徒たちに書き送った手紙です。
パウロは、この手紙の最後で「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(6章10節)と述べます。神の武具を身に着け、霊の戦い(信仰の戦い)に勝利せよ、というのです。具体的には、真理を帯とし、正義の胸当てを着け、平和の履物、信仰の盾、救いの兜(かぶと)を身に着け、戦いの前線に出て行きなさい、といいます。
わたしたちは、日々の生活で常に罪の誘惑にさらされ、さまざまな「世の力」による脅かしを受けています。そのような誘惑に立ち向かい勝利するために、目を覚まして根気強く祈りつづけるよう、パウロは勧告するのです。
●8月25日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日のマタイによる福音書10章28節以下では、わたしたちが何を恐れているのかということが問題となっています。ある人は、自分自身の体の衰え、病気に対して恐れを抱くのかもしれません。また、他の人は、自分と険悪な関係にある誰かとの対立や争いが起きること、今自分に与えられている富や力、有利な条件を失うことに対して、不安や恐れを抱くのかもしれません。
しかし、イエスは「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな」と語られます。大切なことは、「体」すなわち肉体ではなく「魂」すなわち「救い」の問題だと言われるのです。地上のもの、すなわちこの世の事柄は過ぎ去り、いつかは無くなってゆくものです。しかし、神さまとの関係は、地上を生きる間も召されたその後も、続いてゆくのです。
だとすれば、過ぎ去るものに心を奪われて、心配したりびくびくしたりすることなく、自分にできること、なすべきことを全力で成し遂げ、あとは神さまに委ねましょう。一羽の雀にさえ目をかけてくださる神さまは、ゆるぎなく確かにあなたを守ってくださるのです。
●8月18日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の礼拝は、平和祈念礼拝としてささげます。今年は、1945年に日本が太平洋戦争に敗れ、連合国の提示したポツダム宣言を受諾することを決定した日(8・15)から数えて79年目となります。80年近い年が経過する中で、戦争を体験した人の数も相当に少なくなってきました。そのような中で、本日の礼拝で学童疎開を経験された一人の姉妹の「証し」を聞きます。
本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙12章において、使徒パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と言います。この言葉こそ、まさに聖書が示す平和の倫理を表した言葉です。「目には目を、歯には歯を」という同等報復を規定したハムラビ法典は、当時としてはお手本となった法律でした。しかし、パウロはこの「同等報復」を否定し、悪に対して善をもって応えなさいと説くのです。これは、多くの人にとって非常識な言葉であり「浮世離れ」しているとさえ見られる言葉です。しかし、キリスト者はこの言葉に基づき、「平和を作り出す者」として生きるのです。
●8月11日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 木村一充
新しい月8月を迎え、今年もまた平和を祈念する月がやってきました。今年はあの1945年の8・15(敗戦記念日)の日から数えて79年目となりますが、終戦から約80年の年月を重ねることになります。戦争を体験された方々も高齢となり、「語り部」として、ご自身の経験したことを次世代に伝えることができる人も少なくなっています。過去の歴史から学ばなければ、人間は成長することができません。にもかかわらず、世界では今も悲惨な戦争がおこなわれています。一日も早く和平が実現することを、強く祈りたいと思います。
ナチスの迫害から逃れ、ドイツから米国に移住した物理学者A・アインシュタインは、原子爆弾が広島、長崎に投下されたことを深く悲しみました。あるとき、雑誌のインタビューで、「もし、第3次世界大戦が起きたら、世界はどうなると思うか」と聞かれ、こう答えたそうです。「第3次世界大戦のことはよく分からないが、第4次世界大戦のことなら分かる。その時に使用される武器は間違いなく石と棍棒だ」と。
現代の世界は、ふたたび「バベルの塔」を築こうとしているのでしょうか。平和への祈りは、人間の信仰・良心の働きと深く関わっています。
●8月4日 週報巻頭言 牧師 木村一充
本日のヨシュア記1章の前半で、主なる神はモーセの死後、後継者として選ばれたヨシュアに語りかけています。「強く雄々しくあれ」 幾度となく、主はヨシュアを励ましているのです。
モーセは偉大なる指導者でした。40年にも及んだ荒れ野での生活、その間には主が紅海を二つに分けて通り道を作った有名な出来事もあります。ヨシュアはそのモーセの従者でした。これだけの人物の後を継ぐとは、ヨシュアにはどれほどの圧(プレッシャー)があったことでしょう。今までは、先を歩いてくれるモーセが居ました。しかし、ここから先は自分が先頭に立たなければならないのです。
しかし、主なる神の御言葉(みことば)を受け、ヨシュアはヨルダン川を渡り、約束の地カナンに民を導くこととなります。
ヨシュアという名の持つ意味は「主は救い」、イエス・キリストの名の意味と同じです。モーセのバトンを受け継ぎ、ヨシュアは民を約束の地カナンに救い出しました。私たちを救い出してくださる方こそがイエス・キリストです。イエスの父は、ヨシュアを励ました主なる神であることに感謝しつつ、本日の箇所をともに読みましょう。
●7月28日 週報巻頭言 教会員 K.T.