✣ 譲 歩 〜負けるが勝ち ✣
歴史は繰り返すと言われます。聖書の物語も例外ではありません。創世記26章にはアブラハムの時代をビデオテープで再現するような話が記録されています(26:1-11)。アブラハムの息子イサクが妻を「妹」と偽る事件です。嘘はすぐにばれます。意外なことに、騙された王さまはイサクを処罰せず、すべての民にイサクと妻リベカを守るように命じます(26:11)。こうしてイサクはその場所に定住します。イサクは“神の祝福”を受けて、種を蒔けば“百倍の収穫”を得るようになります(26:12-13)。
ところが現実は厳しい。この“祝福”が民の心に「ねたみ」を起こす。事は“井戸の権利(水の確保は死活問題)”をめぐる争いに発展します。驚いたことに、イサクは自分に権利がある井戸を、攻めて来る者たちに明け渡す。自分の権利を主張しない。井戸を明け渡すと、また次の井戸を掘る。新しい井戸を奪われても、更に次の井戸を掘る。こうして、井戸を奪った者たちは、イサクが本当に“神に祝福された人”だと認めざるを得なくなり、最後は“和平条約”を申し出る(26:28-29)。今から四千年も昔の物語ですが馬鹿げた話でしょうか?
●8月17日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 平和への責任 ✣
8月は『日本バプテスト連盟平和宣言月間』です。1)平和実現を祈る、2)日本が過去に犯した過ち(負の歴史)を直視する、3)次の世代へ平和の尊さを語り継ぐ、この三つを心にとめ、私の責任として実行しましょう。
1945年、今から69年前、広島(8/6)と長崎(8/9)に原子爆弾が投下されました。一発の爆弾で都市が廃墟に…。この現実を目の当たりにした大日本帝国政府は、既に連合国側から提案されていた“ポツダム宣言”を受け入れ、「無条件降伏」をしました。こうして、日本の宣戦布告(1941年12月8日)によって始まった「太平洋戦争」は悲劇の結末で終わりました(8/15)。それは敗戦国・日本だけでなく、戦勝国・連合国側にとっても後味の悪い終わり方でした。「戦争」とは常にそういうものなのです。
歴史には、時間の流れのひとコマになっても良いものと、そうなってはいけないものとがあります。「太平洋戦争」は、まさに私たち日本民族が絶対忘れてはならない負の歴史です。今、私たちの国は正しい方向へ進んでいるのでしょうか。先の悲劇は集団的自衛権という「正義」を振りかざした結末でした。『過去に学ばない者は過去を繰り返す』(ヴァイツゼッカー)。
●8月10日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ アブラハムの決断 ✣
私たちは“聖書のことば”を信じることも出来るし、信じないことも出来ます。どちらも自分で選ぶことができる。族長アブラハムも、私たちと同じ条件のもとにありました。ただし、アブラハムは決断を求められると必ず信じる方を選びとっています。息子イサクとの会話が証ししています。
『…「わたしのお父さん…焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」「…子よ…きっと神が備えてくださる」二人は一緒に歩いて行った。』(創世記22:7)
子は親の背中を見て育つといわれます。子を見れば、その親が判るともいわれます。親の考え方、態度は子の成長に少なからず影響します。イサクをささげる物語では、神さまを信頼する父親アブラハムを、息子イサクが信じています。火と薪はあるが、屠(ほふ)る小羊は見当たらない。それにもかかわらず、神さまを信頼する父親。子はその父を信じる。体を縛られ、薪の上に載せられても、子は父親に身をゆだねる。
ある人が言いました。「私たちの頭で分かる時だけ従うのは信仰とは言わない。それは打算である。」この物語の基本線は“応答する信仰”です。神さまの呼びかけとアブラハムの応答。これを神さまと「私」の関係に重ねてみるのです。
●8月3日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 喜びなさい 〜イサク誕生 ✣
古い雑誌(世の光2003年10月号)に、『マザーテレサに出会って』という証しがありました。あるご婦人の証しです。彼女は度々インドに出掛けては、「死を待つ人の家」でボランティアをしたそうです。これを読んで、とても励まされました。
『シスターたちの笑顔と、さりげなくやっている労働に…人の心の美しさを学び、何よりも癒されるのです。…マザーが天に召され…笑顔や声がなくなっても、後継者シスター・ニルマラによって脈々と精神は受け継がれ、シスターは増え続けています。マザーはよくおっしゃっていました。「大切なのは、私たちがどれだけ多くのことをするかではなく、行うことの中にどれだけ心を込めたかです。…今日、スープボウルを渡しながら何人に微笑みかけましたか? 手に触れてあげましたか? 短い言葉をかけましたか?」…スープやご飯を渡すことが単なる仕事ではなく、愛なのだと教えてくださいました。…人が一番求めているのは哀れみではなく、愛なのです…。』
神の愛を生きる。その愛は決して一方通行に終わらない。喜びが共有されます。イエスさまに従うとき、人は愛を共有する喜びを体験します。そして、精神的・肉体的・霊的に豊かにされるのです。
●7月27日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 忍耐から希望へ✣
信仰に「決めつけ」は禁物です。神さまのなさることは、人間の目には不思議に 見えるものです。聖書が伝える神さまは、その辺に転がっている山の神々、海の神々とはまったく違う天地の創造主です。創造主のなさることは、私たち人間の「理性の枠」では捕えきれません。それを無理やり分かろうとする、合理的に説明しようとするから、益々混乱して分からなくなるのです。信仰の歩みで大切なことは“発想の転換”です。一般的には、人が神さまをつかむ(神さまにしがみつく)ことが信仰だと思われています。ところが、聖書に登場する信仰者をみると、彼らが神さまをつかむよりも前に、神さま(天地の創造主)が人々を捕えていることに気づかされます。“神さまの絶対恩寵”を知る。これが聖書の伝える信仰です。人生のコペルニクス的転回とでもいうべき“発想の転換”です。人生は、私を中心に動いているように見える。しかし、実際には、天地の創造主が中心で、その周りを、この私だけでなく、あの人も、この人も動いている。“神の摂理(天地創造主の計画)”がある。その中に、この私も存在する。その私を通して“善いもの(恵み)”が人々にあらわされる。ここに希望があるのです。
●7月20日 週報巻頭言 山田 幸男