✣ 心燃えるイースター ✣
“Happy Easter”
2015年のイースターを迎えました。きょう、キリストは“復活”しました。悲惨な十字架の出来事は“キリスト復活”によって勝利に変わりました。聖書は、“キリスト復活”を信じる人々には、“永遠のいのち”が与えられると宣言しています。
しかし、そうは言っても世の多くの人々は“キリスト復活”を理解できずにいます。確かに“復活”は、一般常識ではなかなか理解できない出来事です。今は牧師をしている私自身も、かつては“復活”が分からず、「復活はない」と言い張り、否定していました。
ところが、イエスご自身が私に近づいて来て、私に働きかけ、私を内側から造り変え、私をまったく新しくして“キリスト復活”を分かるようにしてくださいました。
“復活”を知る鍵は三つあります。一つはかたくな心を開く(悔い改め)。二つ目はこだわりを捨てる(絶対恩寵を受容する)。三つ目は神を讃美する交わりに身を置く(教会の礼拝に参加する)。これは二千年にわたるキリスト教会の歴史に於いて、“キリスト復活”を信じた人々の共通項です。“復活”は、イエスご自身が近づいて来て、分からせてくださいます。
●4月5日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 十字架上の楽園(パラダイス) ✣
《するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。》(ルカ23:43)。
イエスさまは、十字架に一緒に磔(はりつけ)られた二人の犯罪人の一人に“救い”を宣言しました。このとき二人の犯罪人はイエスさまのすぐ近くにいましたが、その姿勢はまったく違っていました。
一人は、「イエスよ、お前がメシアなら、奇跡を起こして俺を助けろ!」と罵声(ばせい)を浴びせました。彼は、すぐ近くに“救い”があるのに、心を閉ざしたまま、絶望の淵に沈みました。もう一人は暴言をたしなめ、自分のしたことを悔いていました。こちらの犯罪人は、イエスさまが何も悪いことをしていないのに、自分と一緒に“十字架”で苦しんでいることの重大性に気づき、イエスさまを近くに感じていました。
ゴルゴタの十字架は、二人の犯罪人が自分の罪を悔い改める(主イエスへ向き直る)地上での最後のチャンスでした。
ある人は、死ぬ直前であっても悔い改めれば天国へ入れるのだから、自分はそうするといいます。しかし、自分の思い通りに行かないのが人生です。死ぬ直前に、悔い改める機会があるとは限りません。また、機会があっても、いつものように、悔い改めないままかもしれません。
●3月29日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 最後の晩餐でのイエスの教え ✣
1999年2月、聖地旅行に参加して多くの恵みに与りました。特に印象深かったのはイエスさまが十字架を担って処刑場まで歩いた道(ビア・ドロローサ:「悲しみの道」と呼ばれている)を体験したことです。聖地旅行の定番コースです。その日、エルサレムはあいにく雨降りで、少し寒い「雨のビア・ドロローサ」でした。欲張りな私は、ガイドさんに無理にお願いして、旅行最終日にもう一度、エルサレムへ立ち寄り、ビア・ドロローサを歩けるように予定を変更してもらいました。最終日は快晴でした。「晴天のビア・ドロローサ」を歩きました。
雨天と晴天の二回、“十字架への道”を自分の足で歩いたことで、時が良くても悪くてもイエスさまは共にいてくださることを実感しました。貴重な体験でした。
福音書によると、イエスさまは“十字架への道”を行く前夜、“最後の晩餐”の席で的外れな議論に熱中する弟子たちに、ご自身の“愛”を説きました。更に師であるイエスさま自ら、弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い、仕えるように戒めました。
そのあと、弟子たちを連れて、“ゲッセマネの園”ヘ向かいます。祈るためです。イエスさまでさえ、祈り無しに“十字架”へ向かえなかったのです。弟子たちはそれに気づかない…。ひょっとして現代の弟子たちも“レント”は他人事?
●3月22日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 今日、救いが訪れた ✣
イエスさまは、木にのぼった徴税人ザアカイに目をとめて言葉をかけました。
「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ19:5)。
この言葉が彼の人生を変えました。自分のような嫌われ者に目をとめて、必要としてくださる…。ザアカイは急いで木から降りて、喜んでイエスさまを自分の家に迎えました。家に迎える、それは心の中にイエスさまを迎えたことを象徴しています。これがイエス流“悔い改めへの招き”です。
「あなたの罪はこれだ」とズバリ指摘してみても、人は簡単に悔い改めるものではありません。逆に、「そう言うあなたはどうなのか!」と切り返されて言葉を失うのが関の山です。
そこでイエスさまに学ぶのです。イエスさまは、徴税人ザアカイを、まず、あるがまま受け入れます。次にザアカイが必要だと率直に伝えます。このとき、ザアカイの冷え切った魂は、“イエスさまの愛”に触れ、そして、彼は癒されたのです。
神を無視して、人を騙し、お金のことしか考えない男が、神と人を信じる心、愛する心を与えられ、“神の愛”をあらわす人に。“新しい歩み”を始めた彼は、“キリストの弟子ザアカイ”です。
●3月15日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 神の視点を知る ✣
ある日、車を運転していると、前方を走行中の車の窓から、突然、小袋が投げ捨てられました。たばこの吸殻を投げ捨てるドライバーは時々見かけますが、小袋を投げ捨てるのを見たのは初めてでした。驚いてバックミラーを覗くと、小袋は破け、ゴミが路上に散乱、遠方へ散って行きました。
その車は立派な高級乗用車でした。「グレイド」の高い車を運転する人は、それに相応しい品位を備えているはずなのに…?そうと思うと余計に腹が立ちました。運転していたのは、ただの見栄っぱりで、その車には不釣り合いな人物であったのかもしれません。いずれにせよ、ドライバーの心ない行為によって、立派な高級車は「グレイド」を落としたのです。少なくとも私にとっては、その車を見る度にゴミ袋の件を思い出すことになってしまったわけです。
今はモラル崩壊の時代ともいわれます。無責任時代と呼ぶ人もいます。どう呼ぼうと自由ですが、自分自身に関しては、そのようなことがないように気をつけたいと思いました。私は牧師。牧師が品位を落とせば、笑われるのはキリスト教であり、この教会に集う人々です。レント(受難節)の悔い改めの祈りへ導かれました。
●3月8日 週報巻頭言 山田 幸男