✣ シャローム(神の平和) ✣
平和を考える季節です。テレビや新聞は戦争体験者の証言や、原爆のつめ痕、そして平和の尊さを伝えています。理由はどうあれ、一度戦争状態になってしまえば、悲しく痛ましい出来事が次々と起こり、多くの人々が尊い命を落とすことになります。だから平和を壊してはいけないのです。
平和が大切であることは誰もが分かっています。しかし、それにもかかわらず、今も世界のどこかで戦争状態が続いています。悲しい現実です。なぜ、同じ過(あやま)ちが繰り返されるのでしょうか。
イエスさまは弟子たちに、【剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。】(マタイ26:52)と教えました。イエスさまがこの教えを語ったのは、弟子たちと肉鍋を囲んでリラックスしている時ではなかった。ゲッセマネの園で祈っていた時、イエスさまを裏切った弟子ユダとイエスさまを憎む宗教指導者ら、加えて剣や棒をもってやって来た大勢の群集に囲まれてしまった。この危機的状況下で、弟子ペトロはイエスさまを守ろうとして剣を抜きました。その時のお言葉です(ヨハネ18:10-11)。
今、時代は混沌としています。私たちはどうすれば良いのか。『平和』、それは私たちの実存を問う重い課題です。
●8月9日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 天からのパンと人の罪 ✣
エジプトから脱出して二か月後、イスラエルの民は荒れ野での生活に不満を抱き、リーダーのモーセとアロンに不満をぶつけます。「エジプトでは、肉もパンも、お腹いっぱい食べられたのに、今は荒れ野で飢え死にしそうだ…。」(出エジプト16:3)。
人々は、そもそも、羊や牛など多数の家畜を連れてエジプトを出発しました(12:38参照)。肉が食べたければ家畜をほふって食べることも出来ました。また、彼らは過去を美化し過ぎています。エジプトでの過酷な奴隷生活の最中に、肉鍋を囲む余裕など無かった。惨めな生活に耐えられないから、脱出したのではありませんか。
モーセとアロンに投げつけた不平不満は、八方塞がりのとき紅海に道を開き、渇いたときに水を備えて体も心も癒してくれた神(ヤハウエ)に対するつぶやきでした。こうした不遜な態度に、神は必ず怒りを向けます。
ところが、このとき神は怒らない。忍耐強く、恵み深いのです。ここから読み取れる『信仰のメッセージ』は“神の慈しみ”です。人々は目先の試練に心奪われ、混乱する。このままでは神に感謝出来ません。これが「忘恩の罪」です。我々も例外ではない。が、新約聖書ではこの「罪」が“キリストの十字架”で裁かれます。
●8月2日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 海の中の道を行く ✣
エジプト王ファラオは、モーセの嘆願を受け入れ、イスラエルの民のエジプト脱出を認めます。が、直後に心変わりします。優秀な奴隷(貴重な労働力)を失う経済的損失を考えたのでしょうか? 軍勢を率いてイスラエルの民を追跡します。このとき、“紅海の奇跡”が起きました。逃げる民の行く先に広がる海が二つに分かれ、そこに道が出来た。この道を進むことによって、民は絶体絶命の危機から救われたのです。
私たちは、この物語の読み方を間違えないようにしたい。海が分かれた奇跡(特別な現象)に興味をひかれますが、出エジプト記は信仰を語り伝える書物です。信仰のメッセージを読み取ることが出来なければ“紅海の奇跡”を議論しても無意味です。物語の要点の一つは、モーセと神の対話です。【主はモーセに言われた。「…人々に命じて出発させなさい。」】出エジプト14:15
これは、祈りから行動へ“決断”を促す信仰メッセージです。“出発せよ”といわれても、前は海、後ろには敵軍が迫る。無理です。ところが、神の命令は“Go!”
民はどうしたか? 海がまだ分かれていない状態で出発した。海が分かれてからなら信仰は不要。今ここで一歩踏み出す。民はこうして奇跡を体験しました。
●7月26日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 荒れ野を行く ✣
旧約聖書・出エジプト記には、今からおよそ3300年昔に起きたイスラエル民族のエジプト脱出の様子が記されています。これは神を信じる人々の間で親から子へ、子から孫へ、何世代も語り伝えられた“口伝”が、後世の人々によって一つの物語にまとめられたものです。この書が伝える教えの一つは、信仰が体験となり、その体験が新たな信仰を生む“霊的覚醒の継承”です。
エジプト王ファラオは、イスラエルの民がエジプトから出ることをついに許可しました。民族大移動が始まります。エジプトから神の約束の地カナンへ至る最短コースは“ペリシテ街道(海の道)”を北上するルートです。この街道はエジプトとメソポタミアを結ぶ重要な国際交通路でした。十日程で目的地に到着します。ところが神はこの道を行かせず、“荒れ野の道に迂回”させました(13:18)。なぜ、まわり道なのか?
街道にはエジプトの砦があり、ペリシテ人の都市国家も点在し、直進すればエジプト軍、ペリシテ軍との衝突を避けられません。神が共にいれば戦争に負けることはないでしょう。しかし、神が望むのは戦争に勝って傲慢な民族になることではなく、常に神の被造物であることを忘れない“謙遜な神の民”になることでした。
●7月19日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 約束の地へ ✣
神の民イスラエルが、約束の地(乳と密の流れる地)“カナン”へ移り住むには、肉の国「エジプト」を脱出しなければならなかった。しかし、400年以上も暮らした土地を離れるのは簡単ではありません。エジプト王の拒否のみならず、神の民のエジプトへの愛着(未練)もありました。聖書には、“主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた”、“主が力強い御手をもって導き出された”(出エ12:42、13:3)とあります。奇跡の旅“出エジプト”は、神の慈愛とその全能の力によって実現した“神の出来事”でした。
ある人が、「信仰とは私たちにとって“出エジプト”である」と言いました。信仰生活とは、古い自分や過ぎゆくこの世から、日々脱出することだと言うのです。「そんなことは私に出来ません」と言う人もいます。無理もありません。実際、出エジプト記には、人々がエジプトに留まれば遭遇しなかった数々の試練に苦しんだ記述があります。誰だって試練は受けたくありません。が、信仰を生きる人々は、そうした試練を通して天地の創造主(神)が“私と共に在(あ)る”ことを実感する。私たちの日々の“出エジプト”も、「人の力」ではなく“神の力”で成し遂げられるのです。
●7月12日 週報巻頭言 山田 幸男


