✣ 苦しみながらも ✣
先週行われた「秋の特別伝道礼拝」では、講師・播磨聡先生(広島教会牧師)ご自身の体験から、“神の力”は、今、私たちが生活しているこの場所にも“豊かに現われる”ことを教えられ、誠に感謝でした。
さて、今週から、再び旧約聖書エレミヤ書の学びに戻ります。今からおよそ2600年昔の中東世界に起きた“神の出来事”です。
預言者エレミヤは、偶像礼拝に心を奪われてしまったユダ王国の人々(神の選民)に神さまのメッセージを伝えます。古代イスラエル(旧約聖書の世界)では、預言者は“神の言葉”を取り次ぐだけでなく、その内容を象徴的に演じてみせることがありました。エレミヤは多くの人々が見ている前で陶器師が作った壺を砕きます。「神さまは、心をかたくなにしているあなたがたをこのように裁く」と伝えます(エレミヤ19章)。
ところが、人々(神の選民)はエレミヤの預言を受け入れません。エレミヤは神の御心に反することを語っていると非難され、逮捕、拘留されてしまう。神の言葉を語れば迫害される。それなら、何も語らず黙っていようとすれば、心の内から“熱い御言葉”が溢れて来る。預言者は混乱します。ついに、「わたしは疲れ果てました」(20:9)と、苦悩を神に告白します。
●10月25日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 破れ口に立って ✣
「自分は生きていて良いのだろうか」。絶望状況に押しつぶされた18歳の少年がつぶやいた呻き。不安や不信にさいなまれ、自信を失い、「生きていたい」という気持ちさえ分からなくなる。いったい、何を支えとしたら良いのか。本当に、生きるだけの価値が私にあるのか。この世は生きるだけの意味があるのか。
聖書には、「破れ口に立つ」という言葉がある。「破れ口」。この言葉はもともと、城壁に関する言葉である。敵が、町の城壁を取り囲み、攻めてきた時に、一番に突破されやすい城壁の弱い部分。そこを攻撃されると、城がすぐにも陥落してしまう守りの弱い部分。それを「破れ口」と呼んでいる。人間に例えれば、私にとって言い訳が出来ないような弱さや傷、そして罪のことである。一人ひとり、少し胸に手を当てれば、自分の「破れ口」がたくさんあることに気づく。誰かがその「破れ口」を突いてくると、もう何も言えなくなるようなそんな私たちの最も弱い部分、人間存在が破綻するところ。
私のその「破れ口」に立って、守って下さる方がいる。聖書が繰り返し語り続けているメッセージである。
●10月18日 週報より
秋の特別伝道礼拝講師 播磨 聡(日本バプテスト広島キリスト教会牧師)
✣ 思い違いをしていませんか ✣
預言者エレミヤが活動した時代は、紀元前600年前後(今から2600年昔)です。出エジプト後、神さまの約束どおりカナンに定着したイスラエルの民は、士師記の時代を経て王国を設立し、ついに栄華を極めます。
ところが、世界中の人々から羨(うらや)まれる生活をするようになると、神の民は見事に堕落してしまう。ソロモン王の不信仰からイスラエル王国は南北に分裂(前928年、列王記上11-12章参照)。その後、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ(前722年)、南王国もバビロン帝国にエルサレム神殿を破壊され、陥落。バビロン捕囚へ(前587年)。
神の民が堕落するのは、試練の時よりも、むしろ順風満帆の時だと聖書は教えます。旧約聖書はイスラエル(神の民)の「栄枯盛衰の歴史」を通して、豊かな時代を生きる現代人へ大切なメッセージを伝えています。
今、私たちは“キリストの光”のもとで「エレミヤ書」を読んでいます。旧約聖書の信仰(十戒・律法主義…人は行いによって救われる)の限界を、この書は明らかにしています。一方、新約聖書の信仰(福音・信仰義認…神の愛を信じて救われる)に立つ私たちは、立場が違うと言いながら、「世」に心奪われ、ご利益主義化していませんか。“十字架の愛”は見えていますか。
●10月11日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 若者に過ぎないと言ってはならない ✣
聖書教育誌のカリキュラムに合わせて、今日から旧約聖書・エレミヤ書を学びます。学びの総合主題は『光に向かって』です。
私たち栗ヶ沢教会の今年度主題は、「御言葉に聞く〜信仰の基本に立つ」、年間聖句は詩編119:105【あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯】(讃美歌は新生131)です。…どうぞお忘れなく!2015年度の歩みを半分終えた今、改めて、この主題に立ち返りたいと思います。
キリスト者にとっての“光”。それは“御言葉(聖書のことば)”です。信仰の基本に立つには、聖書のことばを心にしっかり蓄えることが必要です。聖書教育誌の主題の『光』を“御言葉”と読みかえて、激動の時代(前600年頃の中東世界)のただ中で、“神のことば(御言葉)”に立ち、預言者であり続けたエレミヤの生涯に学びましょう。
素晴らしい働きをしたエレミヤも、神の呼びかけを初めて聞いたときには、「わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1:7)と言って神の招きを断ろうとしました。これに対して神は、「若者にすぎないと言ってはならない」「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」(1:7-8)と答え、エレミヤ青年を戦乱のるつぼへ容赦なく投げ込みます。彼は受けなくてもよい試練まで受けて、後に「涙の預言者」と呼ばれます。しかし、この預言者の働き無しに、“神のことば(光)”が人々に届くことはなかったのです。
●10月4日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 喜びの幕屋 ✣
エジプトを脱出してから1年が過ぎようとしています。この間イスラエルの民は神様に導かれ養われながらも、繰り返し不平を口にし、不信仰をあらわにして、偶像の神・金の子牛を作りました。民が不信仰に陥った理由の一つは、導き手でおられる神様が目に見えないことへの不安によるものでした。具体的な形が見えない時、それが約束にせよ、先の見通しにせよ、私たちは不安になり、具体的に見える偶像に逃げたくなります。旧約の民、出エジプトの民の姿は、まさに現代を生きる私たちの姿なのです。
そして今、神様は幕屋建設をお命じになりました。目に見えなかった神様の場が具体的な形をとって現れようとしたとき、民は今までとは異なり、自ら進んで献げ物を手にしてやって来ました。民の喜びが溢れ出たのです。
新約の救いは、目に見えない抽象的なものではありません。イエス・キリストの「十字架」と「復活」という歴史的な出来事を通して、「罪の赦し」と「永遠の救い」が具体的な形で示されたのです。神の御子は、十字架によって幕屋の垂れ幕を引き裂き、私たちを神様の御前に立たせてくださいました。そして復活を通して、栄光の体、永遠の御国の継承を約束してくださいました。いま私たちは、この具体的な恵みの中を歩む特権を与えられています。私たちに求められているのはただ一つ。この恵みを感謝のうちに素直に受けることだけなのです。
●9月27日 週報巻頭言 教会員A


