✣ 挫折から栄光へ ✣
私たちが暮らす現代の日本では、キリスト者は人口比1%と言われています。日本人百人中に、クリスチャンは1人しかいないということです。厳しい現実です。
きょうの聖書箇所(使徒17章)に記された使徒パウロの“アテネ伝道”は、伝道の行きづまりに悩む私たちに、二千年の時を超えて貴重なヒントを与えています。
アテネ(現代のギリシア)は、当時の芸術、建築技術、哲学思想の中心地であり、荘厳なパルテノン神殿にはギリシア神話の神々が祭られていました。アテネは、古代ローマ時代には知識人のあこがれの町でした。
このアテネに使徒パウロが到着します。彼は偶像の神々を信じる人々や、哲学者、気難しい理屈屋を前にして、“イエスの十字架と復活”を宣べ伝えます。しかし、「奇妙なことを言っている」「いずれまた聞かせてもらおう」と軽く一蹴されてしまう。“福音”をあざ笑って去って行く人もいました。
かつて、どの町でも大きな伝道成果を上げてきたパウロが初めて味わう屈辱です。しかし、彼の目は曇らなかった。信仰に入った者も、何人かいた(使徒17:34)のです。使徒パウロは、苦しい時こそ絶望のただ中に立つ“十字架”と、人の思いを超えた“復活の栄光”を見ていたのです。
●5月10日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 相手の「大切」を理解する ✣
私たちは人とかかわるときに、自分の考えや自己流のやり方を、つい押しつけてしまうことがあるのではないでしょうか。「あなたはこうしなさい」「こうあるべきだ」と言って、時には、きつい言葉で隣人を責めてしまうのです。なぜ、そんなことになるのでしょうか。
理由は明らかです。私たちの心が“豊かさ”を失っているからです。心が何かに縛られているのです。それは、自分が描く理想、勝手な思い込み、優れた人との比較による劣等感かもしれません。隣人に対して「こうすべきだ」「こうあるべきだ」と注文をつけるだけでは、相手を苦しめるばかりでなく、自分も嫌な思いをして、二重の苦しみを背負うことになります。こうした心の縛りを自分の力で解決するのは容易ではありません。それではどうすれば良いのでしょうか。
きょうの聖書『エルサレムの使徒会議(使徒15章)』は、初代教会の人々も現代人と同じように、理想や自己流を振りかざしては衝突し、葛藤した様子を伝えています。
これを解決したのは、“喜びの種をまく人々”でした。“豊かさ”を失わないために、“キリストの十字架”へ向き直る人々、“イエスの教え(御言葉)”に聞く人々です。“聖霊”が働くと、現代人も、悔いる心は癒され、立ち上がる力が与えられます。
●5月3日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 決断する ✣
ヨーロッパ精神文化の基盤はキリスト教にある。これは誰もが認めるところです。しかし、今から二千年昔、使徒言行録の時代は違いました。政治的にはローマ帝国が絶対的権威をもって人々を支配し、市民生活ではギリシア神話の神々をはじめ、山の神、海の神、さまざまな神々を人々は信じていました。理屈抜きに守らなければならない昔からのしきたりや言い伝えもありました。“福音の光”は、そのような所へ切り込んだのです。活躍したのは使徒パウロだけではありません。聖書に名前を記されていないキリスト者たちが、汗を流し、涙を流し、時には血を流して命を捧げ、“神の栄光”を勝ち取ったのです。ヨーロッパの優れた精神文化は、かつてのキリスト者たちの“祈りと犠牲”の上にあるのです。
私たちがここを見落として「欧米はいいなあ…キリスト教が根づいているから…」と羨(うらや)んでいるだけでは、この国に“福音”は広がりません。確かに、日本には天皇制、八百万(やおよろず)の神々、家の宗教やしきたり、古い伝統が“福音”の前に壁をつくっています。しかし、視点を変えれば、私たち日本人キリスト者は、今、まさに、“21世紀の使徒言行録”を生きているのです。
●4月26日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 喜び・自由・刷新 ✣
初代教会は、外には過激なユダヤ教徒らの迫害を、内にはヘブライ語を話すグループとギリシア語を話すグループの不一致という問題を抱えていました。ステファノの殉教(使徒7:54以下)をきっかけとして教会は分裂します。ギリシア語を話す人々が各地へ散らされて行きました。彼らは逃げるときでさえ“福音”を伝えていました(8:4)。
しかし、そんな彼らも従来の固定観念から抜け出せずにいました。最初はユダヤ人以外には“御言葉”を伝えていなかった(11:19)。わかってくれそうな人たちを選んで伝道していたのです。そんな中、まったく知らない人々へも“福音”を告げ知らせる者たちが現れました。キプロス島やエジプトの向こうにあるキレネの出身者です。彼らは、ペトロらイエスの12弟子が中心となって活動する「主流派エルサレム教会」とはまったく無関係な信徒たちでした。
時代の閉塞状況を打ち破るのは、いつの時代も「若者」「よそ者」「馬鹿者」であると言われます。今から二千年昔の初代教会も例外ではありません。非主流派の働きによってイエスを信じる人々が増えました。聖書知識は不十分、伝道の特別訓練を受けたわけでもない。この彼らが初めて“クリスチャン”と呼ばれたのです。
●4月19日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ あなたのなすべきこと ✣
きょうのメッセージは、『サウロの回心』です。当時の全世界(地中海を囲む地域)に“キリストの福音”を宣べ伝えた使徒パウロの登場です。パウロは、最初は熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教会は大嫌いな迫害者でした。彼は、教会を撲滅するためにダマスコの町へ向かう途中、“天からの光(使徒9:3)”に撃たれて回心します。この回心が、使徒パウロの“復活のキリスト”に出会う体験でした。
神さまは、ご自身の御こころを実現するために、さまざまな人物を“器”として用います。ペトロもパウロも、その中の一人です。神さまは、その人の内側に秘められた“賜物”に目をとめて、最も相応しい場所で、その“器”を用います。まったく違う“賜物”が、神さまの導きによって見事に調和して、“神の出来事”になるのです。
しかし、喜んでばかりもいられません。大きな賜物を備えた人は、油断すると「傲慢」という罪をむき出しにします。一方、小さな賜物を備えた人も、「ねたみ」や「ひがみ」という罪をあらわすことがあります。神さまに選ばれた人であっても、キリストから目を離せば簡単に「罪」に堕ちてしまう。キリストが主(御言葉に聞く)、十字架に跪き(祈る)、賜物を捧げる(調和…共に神を讃美する)を忘れないようにしましょう。
●4月12日 週報巻頭言 山田 幸男