✣ あたりまえを整える ✣
キリストは、力づくで無理やり人を回心させたりはしません。人が回心するのは“御言葉”が心に響いたときです。“御言葉”が心に響くと、その人に祈る心が与えられます。でもその時、祈るか祈らないかを決めるのは、その人自身です。その意味で、信仰における「人間の主体性」は消えません。
実際に祈ることを選び取った人は、祈ったあと、行動へ促されます。ここでも、行動するか、しないか、どちらを選ぶかは、その人が決断するのです。決断できない場合は、更に祈って、それが間違いなく“天からの促し”であると確信するまで祈るのです。ここでも信仰における「人間の主体性」は消えていません。
神さまは、“祈り求める者に門を開く”“万事を益とする”と聖書に記されています。しかし、「はい」と素直に従えないのが私たち「罪人の現実」です。私たちが「主体性」をもって決断しなければ何事も先へ進みません。神さまが手とり足とりしてくださる時もありますが、それはまれなことです。信仰とは基本的に“神の絶対恩寵”ですが、「人間の主体的応答」なしには成立しないのです。
聖書のことばが心に響いたとき、それを心の引き出しにしまい込むのではなく、その感動を誰かに知らせたり、実際に行動してこそ「信仰」です。素晴らしい出来事が起きるのはそういう時です。
●1月4日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ この目で救いを見た ✣
新約聖書ヤコブの手紙4章6節に、「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」とあります。「高慢」はあらゆるものを破壊します。神さまを信じない人も「高慢」の害は知っています。「高慢」から生まれる「強情」に心を支配されて好機(チャンス)を逃してしまう。「見栄」を張って人間関係に要らぬヒビを入れてしまう。「知ったかぶり」をして、あとで大きな恥をかく…。心当たりはありませんか?
「高慢」は自分だけでおさまりません。周りにいる人々を巻き込んで迷惑をかけたり、時には取り返しのつかないダメージを残してしまう。誰もが「高慢」の弊害を知っています。しかし、頭では分かっていてもやめられず、同じことを繰り返してしまう。これが私たちの現実です。
二千年昔、救い主イエスは、にぎやかな大都市ではなく、田舎の寒村に誕生しました。ウルトラマンのように勇ましく登場したのではなく、無力な赤ちゃんとして世に降りました。生まれた場所は馬小屋(家畜小屋)。ひざを折り、腰を曲げ、頭を下げないと、飼い葉おけに眠るイエスさまにお会いできません。これは、よく知られた格言「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」を見える形で伝えています。
●12月28日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 恐れるな ✣
私たちは「自分を認められたい」と常に願っています。これは人間の自然な欲求であり、決して悪いことではありません。もし問題があるとすれば、「他の人よりも上に立つことが神さまの御こころ」であるかのように錯覚してしまうこと、或いは、「成功や勝利だけが神さまの祝福」であるかのような思い違いをしてしまうことです。
二千年昔、高貴な“神の子キリスト”はベツレヘムの馬小屋(家畜小屋)にお生まれになりました。“神の子”なら、エルサレムの立派な神殿か、豪華な王宮に生まれる方がふさわしいのではないか。なぜ粗末な場所にお生まれになったのでしょうか。
その理由は、そこは誰でも来られる場所だからです。新約聖書にこうあります。『キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって…十字架の死に至るまで従順でした。』(フィリピ2:6‐8)。
人は上へ昇ることによって栄光を得ようとします。ところが、“キリスト”は下へ降ることによって栄光を現しました。自ら消耗して、周囲を照らすロウソクの灯のように、静かに輝き続けます。
●12月21日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 光を灯すクリスマス ✣
“クリスマスの光”はすべての人を照らします。クリスマスの意味を知っている人も、知らない人も、すべてです。神さまに差別はありません。クリスマスには、二つの「愛」の違いが明らかにされます。「人間の愛(新約聖書の言語・ギリシア語でエロス)」と「神の愛(同じくアガペ)」です。
二つの「愛」には決定的な違いがあります。エロスは見返りを求める「限定的な愛」で、いつかは消えてしまう。一方、アガペは見返りを求めない「無限の愛」、永遠に変わらない「不滅の愛」です。アガペは“キリスト降誕”によって歴史の中に受肉化し、すべての人に啓示されました。実際、今の季節は、お寺の幼稚園もイスラム教徒も、世界中の人々が“神の愛”に思いを馳(は)せています。すべての人がクリスマスを喜んでいる事実があるのです。
この季節、子どもたちばかりでなく、聖書を知らない大人も、“サンタクロースの伝説”からアガペを体験します。喜びを体験した子どもたちが大人になると、今度は自分の子どもたちに“サンタクロースの伝説”を伝えます。こうしてアガペは未来に継承されます。神の御心は、すべての人がアガペを知り、その“光”に包まれることです。心に“光”を灯しましょう。
●12月14日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 恐れから喜びへ ✣
神殿で務めをしていた祭司ザカリアの前に天使があらわれました。驚き戸惑う祭司に、天使は「恐れるな」と語ります。
「恐れるな」。この言葉は新約聖書のキリスト降誕物語に関わる記事に必ず出て来ます。マタイ福音書ではヨセフに、ルカ福音書ではマリヤに、羊飼いたちにも天使が「恐れるな」と告げています。神さまの出来事は、人の知恵や力を超えた所から来るので、居合わせた人々は圧倒され、どうしても恐れてしまうのです。
ザカリアは、「あなたの妻は男の子を生む」との天使の宣言を信じることができず、口が利けなくなってしまいます。しかし、天の声を信じなかった彼を非難できるでしょうか。彼の妻エリサべトは、「不妊の女で…既に年をとっていた」(ルカ1:7)とあります。そうした現実を無視して、天使は大真面目に祭司ザカリアに告げるのです。
私たちは、この話の結末を知っています。そこに“神の計画”がありました。洗礼者ヨハネの誕生です。生まれて来る男の子には特別な使命がありました。その子は老夫婦の所有物ではありません。その子は、人々を神に立ち帰らせるために“神の計画”で世へ派遣されました。「恐れるな」の声は“神の祝福”が始まる合図でした。
●12月7日 週報巻頭言 山田 幸男