✣ 死で終わらない ✣
イエスさまは、ベタニヤで病死したラザロを復活させました。ヨハネ福音書に記された第七番目の“しるし(奇跡)”です。エルサレム入場(受難週)直前の出来事であり、伝統的解釈によると、これは“イエスのメシア性を証明する奇跡”とされています。
病死したラザロが墓の中から出て来た(ヨハネ11:44)、これを《目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた》(11:45)とあります。イエスさまが“しるし(奇跡)”を行うと、目撃した人々の間に二つの反応が起きました。信じる人と信じない人があらわれたのです。
当時、民衆は宗教指導者から、「復活はメシアだけが行える奇跡である」と教えられていました。そういうわけで、ラザロ復活の目撃者の多くは、イエスさまこそ旧約聖書に預言された“メシア(救い主)”であると素直に認め、信じたのです。
一方、イエスさまをメシアと認めないユダヤ人もいました。信じない人々はエルサレムにいる宗教指導者たちの所へ行き、一部始終を報告しました。彼らの内面には、邪悪な心、反抗心、傲慢な思いなど、心の歪(ゆが)みがありました。これが信じる心を妨げていたのです。それは心の入り口に「墓石」が置かれた状態にたとえることが出来ます。「石」がある間、神の言葉は“光”を放てません。
聖書は、人々が「石」を取りのけるとイエスさまの言葉が“力”を発揮し、死人が復活したと伝えています(11:38‐44)。
●2月7日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 見えなかったが、今は見える ✣
旧約聖書イザヤ書のメシア預言には、《見ることの出来ない目を開き》(イザヤ42:7)とあります。イエスさまは目の見えない多くの人々の目を開き、見えるようにしました。《わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ》(ヨハネ8:12)と語ったイエスさまこそ、旧約聖書のメシア預言を成就したお方であるとヨハネ福音書は告げています。
きょうは、ある盲人がイエスさまに癒された話です(ヨハネ9:1-12)。当時、目の見えない人は他者の憐れみに頼る他に生きる道はなかった。物乞いする人にとって、神殿に近い場所は、最も収入を得られる場所のようでした。弟子たちは盲人を見て、「この人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか」とイエスさまに尋ねました。当時の人々は病や苦難の原因は罪にあると考えていたからです。この問にイエスさまは、「本人が罪を犯したのでも両親でもない。神のわざがこの人に現われるためである」と答えた。
誤解しないでください。特定の病や試練が罪の結果でないのは勿論のことですが、生まれつき盲人であることが神の栄光だという訳でもありません。病も試練も喜びも、すべては神の御手にあるという意味です。
イエスさまの言葉を信じて従う。ここに神のわざが現れるのです。
●1月31日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 青年がつくる礼拝 ✣
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
(新共同訳聖書 マタイによる福音書 7:7-8)
●1月24日の礼拝は、「青年がつくる礼拝」です。
青年たちの証しと特別賛美を中心に礼拝をささげます。
✣ もう一つの奇跡 ✣
「喜びの聖人」と呼ばれたアッシジのフランシスコ(1181-1226)が、『完全な喜び』を弟子に教えたそうです。
「もしあなたが人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせたとしても、それは『完全な喜び』ではない。あなたがあらゆる知識を習得して、天使のように人々に話しかけることが出来たとしても、それは『完全な喜び』ではない。あなたが、神を信じないすべての人をキリスト信仰へ導いても、それが『完全な喜び』ではない。」
これを聞いた弟子は怒って問い返した。
「では、『完全な喜び』とは何ですか?」
フランシスコは静かに答えた。
「雨降る寒い日に、あなたはびしょぬれになって修道院に来たとする。扉をたたくと、応対した修道士に『あなたは誰ですか』と言われる。『兄弟(ブラザー)です』と答えると、『あなたは怠け者だ、出て行け』と冷たくされる。あなたが文句も言わずに耐え忍ぶなら『完全な喜び』だ。あなたが再び扉をたたくと、彼は更にひどい言葉を浴びせる。あなたが涙を流して扉をたたき続けると、彼は出て来てあなたを泥水の中へ投げ倒す。この苦しみをイエスのように受け入れるなら、これが『完全な喜び』である。」
この話、どう思いますか?
●1月17日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ いのちの水 ✣
ユダヤ滞在を終えたイエスさまは、弟子たちと共に故郷ガリラヤへ向かいます。ユダヤの指導者たちとの衝突を避けるために“サマリア”を通るルートを選びました。
当時のユダヤの人々は、サマリア山地を通過するルートは敬遠し、遠回りを承知でヨルダン川沿いを行くのが普通でした。
なぜなら、ユダヤ人とサマリア人の間には根深い対立があったからです。
ヤコブの井戸の近くで、弟子たちはイエスさまを一人残し、食物調達のために町へ向かいます。しばらくするとサマリア人の女性が「井戸の水」を汲みに来ました。イエスさまは、その女性に、「水を飲ませてください」と声をかけます。女性は驚きます。彼女はある事情を抱えていたので人目を避けて水を汲みに来たのです。加えてユダヤ人がサマリア人に親しく語りかけるのは、当時の常識では考えられないことでした。
ここで注目したいのはイエスさまの個人伝道の方法です。ユダヤ人はサマリア人とは《交際しない(「同じ器を使わない」の意味)》(ヨハネ4:9)とされた習慣を破り、軽蔑の対象である女性に、自ら「水を飲ませて欲しい」と求めます。真理を啓示するお方は、わけありの女性を上から目線で見下すようなことはしません。謙虚に接します。直後に二人の立場が逆転します。そして彼女に“いのちの水”が流れました。
●1月10日 週報巻頭言 山田 幸男


