✣ 栄光の始まり ✣
2016年が始まりました。聖書に『古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて…』(エフェソ4:22-23)とあります。新しくなって前進しましょう。信仰の歩みは前進です。でも歯をくいしばって一人で頑張るのではありません。イエスさまと共に前進するのです。
新年最初の主日礼拝は、ヨハネ福音書『カナの婚礼』から学びます。イエスさまが公生涯に入って最初に行った“しるし(奇跡)”です。婚礼の席で、イエスさまは水をぶどう酒に変えた、それも最高級のぶどう酒に変えたという話。何が起きたのでしょう?
聖書は、水がどんなふうにぶどう酒に変化したかについては何も記していません。そこで、私たちは出来事の意味に注目したいのです。ここでの「ぶどう酒」は、「私たちを喜ばせること」の象徴です。健康、財産、地位や名誉など、それが満たされると嬉しくなる、楽しくなることです。それは別な言い方をすれば、不足したときには不安になる、心配になる事柄です。
イエスさまの母マリアは、ぶどう酒が無いと婚礼は楽しくないと考え、不安になりました。母の心配に息子イエスは、「わたしとどんな関わりがあるか、時ではない…」と冷たい言葉で答えました。ところが、この直後にマリアは、「イエスの言う通りにしなさい」と召し使いらに命じます。すると“神の栄光”が顕れたのです。
●1月3日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 砕かれる幸い ✣
イエスさまから弟子になるように招きを受けたフィリポは、友人ナタナエルに待望の救い主(メシア)に出会ったと伝えました。「ナザレ人イエスがメシアだ!」と嬉しそうに語るフィリポ。しかし、ナタナエルはその喜びを見事に否定します。
「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)。こう考えるナタナエルには、偉大なメシアとナザレ人イエスが結びつきません。では、否定されたフィリポはどうしたか。疑心暗鬼のナタナエルに、「来て、見なさい」(1:46)と言ってイエスさまの所へ連れて行きました。ここに見落とせない“伝道の知恵”があります。イエスさまに直接引き合わせる。どんな説明や議論よりも説得力のある伝道です。フィリポは自分でジタバタしない。彼は“賢い人”でした。
彼らはイエスさまに会うために、イエスさまがいる所へ向かいます。一方、イエスさまも近づいて来る二人に目をとめます。ここでお互いが向き合う。向き合うとき、出会いが生じます。ナタナエルはイエスさまのことを何も知りません。しかしイエスさまはナタナエルを見ると、昔から知っているかのように親しく言葉をかけました。
彼らはどんな対話をしたのでしょうか? この直後にナタナエルは、「あなたは神の子です」と、素直に告白します。
●12月27日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 希望の光を灯す ✣
講壇横に立てられたアドベント・キャンドル(四本)すべてに“明かり(光)”が灯りました。今週金曜日は“キリスト降誕日”です。もし私たちの心に“明かり(光)”が灯らなければ、どんなに立派なクリスマスの飾りつけをしても虚しいだけです。四本のキャンドルの“光”は小さな明かりに過ぎませんが、これには意味があります。
私はこの“小さな光”を新約聖書の言葉(1コリント13:13)に重ねて、“信仰の光(信じる心)・希望の光(諦めない心)・愛の光(受けるより与える心)”と見立て、更に馬小屋に生まれた“救い主(イエスさまの光)”を加えて、クリスマスを迎える“準備の光”に位置づけています。“光”は不思議です。どんなに小さくても、闇が深い程、周囲を明るく照らします。“光”の大小は問題ではありません。“光”は見えない世界を見えるようにします。“イエスさまの光”は私たちに“神の視点”を与えてくれます。
ところで、あなたの“心の光”は、今、輝いていますか? よく分からないと言う人に“心の光”を灯す方法を伝授します。
二千年前、ベツレヘムの馬小屋に生まれたイエスさまを、あなたの心に受け入れるのです。イエスさまの輝きがあなたの“心の光”を灯してくれます。イエスさまの愛があなたの心を明るくします。
●12月20日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 見よ、神の小羊だ ✣
洗礼者ヨハネの前にイエスさまがあらわれました。ヨハネは自分の方へ向かって来るイエスさまを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と叫びました。
ヨハネ福音書によると、洗礼者ヨハネは、“すべての人を照らすまことの光”であるイエスさまが来ることを、人々へ知らせるために神さまから遣わされた人だと紹介されています(1:6-8)。洗礼者ヨハネは、自分が主役(救い主)ではないことをわきまえていました。イエスさま登場のとき、このように良い働きをした脇役がいたのです。
来週は教会行事の中で最大のイベント『クリスマス(降誕祭)』です。『クリスマス』は、クリスチャンだけのお祭りではありません。世界中のすべての人に与えられた“喜び”です。この季節、商店街はクリスマス・セールでにぎわっています。この光景に、まじめなクリスチャンは、「本当の意味がわかっていない」「名ばかりのクリスマスだ」と、正論を盾にして目をつりあげます。でも、クリスチャンが恐い顔をしていたら、教会には誰も来なくなってしまいます。むしろ洗礼者ヨハネのように、クリスチャンは商店街へ入って行き、『クリスマス』の“本当の意味”を知らせるのです。
神さまはすべての人を“喜びの宴”へ招いています。喜ぶ人は“微笑み”ます。“微笑み”が神の力を発揮します。
●12月13日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 言(ことば)と命と光 ✣
世界で最初のクリスマスをお祝いしたのは、マリアとヨセフ、野宿していた羊飼いたち、そして東の方から来た占星術の学者たちでした。彼らは天からのメッセージを“信じた”という点で共通していました。
マリアは天使による“受胎告知”を信じました。ヨセフは夢の中で天使が告知した“恐れるな”というメッセージを信じました。羊飼いたちは徹夜で羊の群れの番をしているとき、天使が近づいて来て宣言した“今日ダビデの町に救い主がお生まれになった”というメッセージを信じました。羊飼いたちは仕事を中断してベツレヘムへ向かいました。一方、占星術の学者たちは、夜空に輝く星(天上の不思議な光)に導かれ、遠い旅路を経て、粗末な家畜小屋で探していた救い主に出会いました。
マリアとヨセフ、羊飼いはイスラエル民族(神の選民)です。天からのメッセージを“神のご計画”と信じるのは当然です。しかし、占星術の学者たちは異邦人(ペルシャ人で偶像礼拝の民)なのに信じた。当時、選民と異邦人の間に深い溝がありました。
ところが、世界で一番初めにお祝いされたクリスマスでは選民と異邦人が一緒に喜んでいたのです。あれから二千年、キリスト降誕物語は現代社会へ問いかけます。“光”はすべての人を包む…
●12月6日 週報巻頭言 山田 幸男


