✣ 自己流正義の限界 ✣
ある日の新聞に、『腐ったと誤解 蜜入りリンゴ』という投稿記事がありました。笑ったあとで、少し考えさせられました。内容を要約して紹介します。
『二十数年前、長野県に住む兄夫妻から木箱に入ったリンゴが届いた。三人の子供が見守る中、一個を半分に割った。「だめだ。腐っている」。子供たちの期待はため息に変わり、届いたばかりのリンゴは生ゴミに…。兄夫妻にリンゴが腐っていたと言えず、「ありがとう」とだけ伝えた。
翌年、またリンゴが届いた。友人に見せると、「すごいリンゴだなあ。本場の高級リンゴだ」と言った。私はリンゴの皮をむくと中は真っ白と信じていたが、「腐っている」と思い込んでいたのはリンゴの蜜だったのだ。友人に教わらなかったら、二十数年間、毎年贈られて来たリンゴをためらいもなく捨てていたと思う。友人は、長野の兄さんが腐ったリンゴを贈ると発想するお前の脳の方が腐っている、と笑った。』(2008年7月9日朝日新聞「声」より)
「知ってるつもり」「決めつけ」「思い込み」がとんでもない「的外れ」の結末を招きます。十字架の光は「私の的外れ」に気づかせてくれます。他人ごとのように笑っているあなたは大丈夫ですか?
●2月8日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ あなたの罪は赦された ✣
「あなたに言いたいことがある」(ルカ7:40)。イエスさまは信仰熱心な人シモンに対して、「あなたは“神の愛(アガペー;無償の愛)”を本当に知っているのか」と厳しく告げました。
それは、シモンの家でイエスさまを囲む食事の席でのことでした。ある女性が加わったとき雰囲気が激変します。彼女は突然、イエスさまの足を自分の涙でぬらし、髪でぬぐって香油を塗りました。主催者シモンは、イエスさまがこの女の罪を見抜き、戒めると期待しました。神の教え(律法)には、汚れた者に触れるな、あなたが汚れるからとあるからです。罪に汚れた女は排斥するべし、この女にイエスさまと交わる資格はない、シモンはそう思ったのです。
ところが、イエスさまは罪深い女を受入れ、しかも彼女はイエスさまがメシア(救い主)だと知っているが、信仰熱心なシモンは知らない、と語りました。居合わせた人々は、皆、驚きました。
聖書はこの女性が抱える罪について沈黙します。大切なことは、過去ときっぱり決別して未来へ向かう、この視点です。イエスさまの宣言「あなたの罪は赦された」は“神の愛(アガペー)”です。彼女の新しい人生は“イエスの十字架”が保証します。
●2月1日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ その幸いを問う ✣
「貧しい人々は幸いである」「今飢えている人々は幸いである」「今泣いている人々は幸いである」(ルカ6:20-21)。
非常に挑戦的な宣言です。貧しい人、飢えている人、泣いている人のどこが幸いだというのか。イエスさまは弟子たちに何を教えたのでしょうか。
『福音の喜びは、資格のない者が資格のある者とされるところにある。ユダヤの国で貧しい人というのは、少なくとも神から祝福された者ではない。…神から遠い存在であり、資格のない者…そういう人たちを慰め…満ちたらせるために、イエスが来られたところに福音がある。神が資格のない者を救うために、イエス・キリストをこの世に送ってくださったがゆえに、貧しい人たちは幸いなのである。逆に、喜んでいる者…満ち足りている者…笑っている者はなぜわざわいなのか…その人たちのために来てくださったイエスを受け入れず、福音を聞かないから…神の国の恵みにあずかることができない…。』(榎本保郎著・新約聖書一日一章113頁より)。
イエスさまが来たことによって、人の常識を揺さぶる『新しい世界』が始まった。しかし、その代価として、罪のないイエスさまは、罪人のために『十字架』で死んだのです。
●1月25日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ イエスに従う ✣
イエス様は世の中で、唯一罪のない人間であり、同時に人間の罪を、背おって十字架につけられた王であることを知りました。
不思議な気持ちになりました。他人をゆるす心がめぐみだと思いました。前は妹と外へ出るのも恥ずかしかったけれど、それからはホットネットと言うボランティア団体の食事会に仲よく二人で行くようになりました。
イエス様のなさる十字架のみ業によって、大切にしてきた経験も、プライドも、すべて捨てる事になりました。
私の生活はイエス様を真ん中にするものとなりました。
これからもイエス様にしたがっていきたいと思います。
●1月18日 週報巻頭言 小茂田 勉
*当日は、小茂田勉兄、面川正史兄、両名により、証しが語られました。
✣ その言葉には権威があった ✣
昔、人々は、大地は不動と考えました。地球は宇宙の中心にあり、太陽や月、その他の星は地球の周りをまわっていると思っていました。実際、今でも外へ出て夜空を眺めれば、月や星が地球の周りをまわっているように見えます。しかし、中には夜空を不規則に動く星があります。それは惑星(水星・金星・火星・木星・土星)です。不規則な動きに目をとめたのが、コペルニクスとガリレオです。彼らは注意深く観測を続け、やがて不動と信じられていた地球が、動いていることを発見しました。ガリレオは木星観測から、そこに太陽系のひな形を発見しました。また、彼は土星の輪も発見しました。
今、天動説を信じて、「地球は宇宙の中心にある」などと言う人はいません。地球が太陽の周りをまわっていたのです。かつて、ガリレオに「異端」の烙印を押したカトリック教会も、数百年を経て過ちを認め、ガリレオの名誉を回復しました。
では、キリスト教が間違っていたのでしょうか?そうではありません。人が、自分の考えにこだわり、“自己相対化”出来なかったからです。同じ間違いは、今でも起きます。
キリストの十字架に対する“謙遜”を忘れないようにしましょう。自分を“謙遜”にする方法を知っている人は幸いです。
●1月11日 週報巻頭言 山田 幸男