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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-03-03 19:15:16 (1092 ヒット)

✣ 勇気を出しなさい ✣

    「神さまは人に口を一つ、耳を二つ与えました。しゃべる二倍聞け、ということです」…これはユダヤのジョークです。
    ヘソ曲がりの私は、このジョークを違う角度から考えてみました。神さまが二つ与えたものは耳だけではありません。目と鼻の穴、手も足も二つです。内臓に至っては心臓は一つですが、肺、腎臓は二つ、男性は睾丸を二つ、女性は卵巣が二つあります。
    体の働きの重要性を考えると、口が一つだけというのは、むしろ不思議です。口は人が生きるために不可欠な働きを、少なくとも二つ担っています。食べること、話すことです。もし私に口が二つあったら、大好きな「どら焼き」を食べながら、同時に「聖書の話」が出来ます。食事と伝道が今よりもっと楽しくなるでしょう。
    しかし、弊害もあります。二つの口で、どら焼きとカレーを同時に食し、食べ過ぎてしまうかも…。また違う聖書の話を同時に話して、うるさいと嫌われるかも…。一つでも持て余しているのに二つの口を管理するのは私には無理。へ理屈を思いめぐらせた結果、口は一つで十分と分かりました。
    沈黙すれば“イエスの言葉”が聞こえて来ます。《勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている》(ヨハネ16:33)。

●3月6日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-02-25 20:04:18 (1144 ヒット)

✣ イエスの愛にとどまる ✣

    聖書は、神さまを信じてまっすぐ歩めば豊かに実を結ぶと告げています。しかし、私たちの現実は、そう甘くはありません。神さまを信じていても苦労や悩みは絶えません。信仰があるばかりに、普通の人なら気にしないことで悩んだりもします。どうすれば豊かな実を結べるのでしょうか?
    イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちに「ぶどうの木の譬え」から教えました。翌日、イエスさまは十字架で殺される定めになっていました。限られた時間の中で、イエスさまは、弟子たちがこの先、どのように歩めばよいかを丁寧に諭しました。
    《わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。》(ヨハネ15:4)。
    イエスさまの弟子にとって一番大切なことは、嬉しいときばかりでなく、悲しいときも、苦しいときも、いつもイエスさまにつがなっていることです。
    ところが、その大切なつながりを、自ら断ち切った弟子がいました。ユダです。ユダの裏切りについては、多くの憶測があります。他の弟子たちも裏切って逃げました。しかし、他の弟子たちはイエスの十字架を見て、戻って来たのです。 

●2月28日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-02-18 18:57:27 (1416 ヒット)

✣ 弟子の足を洗う ✣

    イエス様が十字架にはりつけにされて殺される前の晩の夕食時のことです。イエス様は突然食卓を立たれ、弟子たちの足を洗い始めました。当時、人の足を洗うのは奴隷の仕事であり、誇り高いユダヤの民が最も忌み嫌う仕事でした。弟子たちは大いに驚き、その筆頭であるペテロは「私の足など、永遠に、決して洗わないで下さい」と叫びました。それほど衝撃的な出来事だったのです。
    イエス様のこの行為が、単に謙遜と友愛を倫理的・道徳的に教えるだけのものなら、ペテロのこの発言をもって、弟子たちにその意図は十分に伝わったはずです。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる」とおっしゃいました。そして、ペテロの足を洗い、すべての弟子の足を洗われたのです。
    この物語には、イエス様が私たち一人一人と向き合い、一人一人のために最も低いところまで降られるという、十字架に向かわれる御子にしかおできにならない、大切な意味が込められています。イエス様は、私たち一人一人と向き合い、重荷を負い、罪を贖い、私たち一人一人を永遠のいのちへと導いてくださるのです。その御恵みをヨハネ福音書からじっくりと味わって参りましょう。

●2月21日 週報巻頭言 教会員A


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-02-11 19:27:13 (1250 ヒット)

✣ 一粒の麦イエス ✣

    教会暦によると今年のレント(受難節)は2/10(水)-3/26(土)です。イースター(復活祭)は3/27(日)。教会暦を採用する教派では、イースター前6週間(日曜日を除く40日)を“悔い改め”をあらわす時としています。
    クリスマス(キリスト降誕祭)はクリスチャンが少ない日本でも定着していますが、イースターは定着しているとはいえません。クリスマス前のアドベント(待降節)の期間がクリスマスの雰囲気を盛り上げるように、レント(受難節)の意味を人々に理解してもらい、雰囲気を盛り上げることが出来たらイースターも日本に定着するのでは…と私は考えています。そこで期待されるのはクリスチャンの働きです。イースターの本家クリスチャンがレントを何となく過ごしているようでは論外です。今年のイースターを「普通の日曜日」にしないために、レントの過ごし方を工夫して欲しいのです。
    レントのテーマは“悔い改め”です。それは『魂の調律』をすることです。ピアノもギターも、正しい音を奏(かな)でるには調律が不可欠です。オーケストラは演奏前に必ず“音合わせ”をします。
    私たちは、このレントの季節に聖書の“キリスト受難物語”を読み直して、『魂の調律』をするのです。楽器が絶対音階によって調律されるように、私たちも『一粒の麦イエス(神の絶対恩寵)』に触れることによって、心も体も魂も癒されるのです。

●2月14日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-02-04 22:48:09 (1081 ヒット)

✣ 死で終わらない ✣

    イエスさまは、ベタニヤで病死したラザロを復活させました。ヨハネ福音書に記された第七番目の“しるし(奇跡)”です。エルサレム入場(受難週)直前の出来事であり、伝統的解釈によると、これは“イエスのメシア性を証明する奇跡”とされています。
    病死したラザロが墓の中から出て来た(ヨハネ11:44)、これを《目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた》(11:45)とあります。イエスさまが“しるし(奇跡)”を行うと、目撃した人々の間に二つの反応が起きました。信じる人と信じない人があらわれたのです。
    当時、民衆は宗教指導者から、「復活はメシアだけが行える奇跡である」と教えられていました。そういうわけで、ラザロ復活の目撃者の多くは、イエスさまこそ旧約聖書に預言された“メシア(救い主)”であると素直に認め、信じたのです。
    一方、イエスさまをメシアと認めないユダヤ人もいました。信じない人々はエルサレムにいる宗教指導者たちの所へ行き、一部始終を報告しました。彼らの内面には、邪悪な心、反抗心、傲慢な思いなど、心の歪(ゆが)みがありました。これが信じる心を妨げていたのです。それは心の入り口に「墓石」が置かれた状態にたとえることが出来ます。「石」がある間、神の言葉は“光”を放てません。
    聖書は、人々が「石」を取りのけるとイエスさまの言葉が“力”を発揮し、死人が復活したと伝えています(11:38‐44)。

●2月7日 週報巻頭言 山田 幸男


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