✣ 喜び・自由・刷新 ✣
初代教会は、外には過激なユダヤ教徒らの迫害を、内にはヘブライ語を話すグループとギリシア語を話すグループの不一致という問題を抱えていました。ステファノの殉教(使徒7:54以下)をきっかけとして教会は分裂します。ギリシア語を話す人々が各地へ散らされて行きました。彼らは逃げるときでさえ“福音”を伝えていました(8:4)。
しかし、そんな彼らも従来の固定観念から抜け出せずにいました。最初はユダヤ人以外には“御言葉”を伝えていなかった(11:19)。わかってくれそうな人たちを選んで伝道していたのです。そんな中、まったく知らない人々へも“福音”を告げ知らせる者たちが現れました。キプロス島やエジプトの向こうにあるキレネの出身者です。彼らは、ペトロらイエスの12弟子が中心となって活動する「主流派エルサレム教会」とはまったく無関係な信徒たちでした。
時代の閉塞状況を打ち破るのは、いつの時代も「若者」「よそ者」「馬鹿者」であると言われます。今から二千年昔の初代教会も例外ではありません。非主流派の働きによってイエスを信じる人々が増えました。聖書知識は不十分、伝道の特別訓練を受けたわけでもない。この彼らが初めて“クリスチャン”と呼ばれたのです。
●4月19日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ あなたのなすべきこと ✣
きょうのメッセージは、『サウロの回心』です。当時の全世界(地中海を囲む地域)に“キリストの福音”を宣べ伝えた使徒パウロの登場です。パウロは、最初は熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教会は大嫌いな迫害者でした。彼は、教会を撲滅するためにダマスコの町へ向かう途中、“天からの光(使徒9:3)”に撃たれて回心します。この回心が、使徒パウロの“復活のキリスト”に出会う体験でした。
神さまは、ご自身の御こころを実現するために、さまざまな人物を“器”として用います。ペトロもパウロも、その中の一人です。神さまは、その人の内側に秘められた“賜物”に目をとめて、最も相応しい場所で、その“器”を用います。まったく違う“賜物”が、神さまの導きによって見事に調和して、“神の出来事”になるのです。
しかし、喜んでばかりもいられません。大きな賜物を備えた人は、油断すると「傲慢」という罪をむき出しにします。一方、小さな賜物を備えた人も、「ねたみ」や「ひがみ」という罪をあらわすことがあります。神さまに選ばれた人であっても、キリストから目を離せば簡単に「罪」に堕ちてしまう。キリストが主(御言葉に聞く)、十字架に跪き(祈る)、賜物を捧げる(調和…共に神を讃美する)を忘れないようにしましょう。
●4月12日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 心燃えるイースター ✣
“Happy Easter”
2015年のイースターを迎えました。きょう、キリストは“復活”しました。悲惨な十字架の出来事は“キリスト復活”によって勝利に変わりました。聖書は、“キリスト復活”を信じる人々には、“永遠のいのち”が与えられると宣言しています。
しかし、そうは言っても世の多くの人々は“キリスト復活”を理解できずにいます。確かに“復活”は、一般常識ではなかなか理解できない出来事です。今は牧師をしている私自身も、かつては“復活”が分からず、「復活はない」と言い張り、否定していました。
ところが、イエスご自身が私に近づいて来て、私に働きかけ、私を内側から造り変え、私をまったく新しくして“キリスト復活”を分かるようにしてくださいました。
“復活”を知る鍵は三つあります。一つはかたくな心を開く(悔い改め)。二つ目はこだわりを捨てる(絶対恩寵を受容する)。三つ目は神を讃美する交わりに身を置く(教会の礼拝に参加する)。これは二千年にわたるキリスト教会の歴史に於いて、“キリスト復活”を信じた人々の共通項です。“復活”は、イエスご自身が近づいて来て、分からせてくださいます。
●4月5日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 十字架上の楽園(パラダイス) ✣
《するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。》(ルカ23:43)。
イエスさまは、十字架に一緒に磔(はりつけ)られた二人の犯罪人の一人に“救い”を宣言しました。このとき二人の犯罪人はイエスさまのすぐ近くにいましたが、その姿勢はまったく違っていました。
一人は、「イエスよ、お前がメシアなら、奇跡を起こして俺を助けろ!」と罵声(ばせい)を浴びせました。彼は、すぐ近くに“救い”があるのに、心を閉ざしたまま、絶望の淵に沈みました。もう一人は暴言をたしなめ、自分のしたことを悔いていました。こちらの犯罪人は、イエスさまが何も悪いことをしていないのに、自分と一緒に“十字架”で苦しんでいることの重大性に気づき、イエスさまを近くに感じていました。
ゴルゴタの十字架は、二人の犯罪人が自分の罪を悔い改める(主イエスへ向き直る)地上での最後のチャンスでした。
ある人は、死ぬ直前であっても悔い改めれば天国へ入れるのだから、自分はそうするといいます。しかし、自分の思い通りに行かないのが人生です。死ぬ直前に、悔い改める機会があるとは限りません。また、機会があっても、いつものように、悔い改めないままかもしれません。
●3月29日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 最後の晩餐でのイエスの教え ✣
1999年2月、聖地旅行に参加して多くの恵みに与りました。特に印象深かったのはイエスさまが十字架を担って処刑場まで歩いた道(ビア・ドロローサ:「悲しみの道」と呼ばれている)を体験したことです。聖地旅行の定番コースです。その日、エルサレムはあいにく雨降りで、少し寒い「雨のビア・ドロローサ」でした。欲張りな私は、ガイドさんに無理にお願いして、旅行最終日にもう一度、エルサレムへ立ち寄り、ビア・ドロローサを歩けるように予定を変更してもらいました。最終日は快晴でした。「晴天のビア・ドロローサ」を歩きました。
雨天と晴天の二回、“十字架への道”を自分の足で歩いたことで、時が良くても悪くてもイエスさまは共にいてくださることを実感しました。貴重な体験でした。
福音書によると、イエスさまは“十字架への道”を行く前夜、“最後の晩餐”の席で的外れな議論に熱中する弟子たちに、ご自身の“愛”を説きました。更に師であるイエスさま自ら、弟子たちの足を洗い、互いに愛し合い、仕えるように戒めました。
そのあと、弟子たちを連れて、“ゲッセマネの園”ヘ向かいます。祈るためです。イエスさまでさえ、祈り無しに“十字架”へ向かえなかったのです。弟子たちはそれに気づかない…。ひょっとして現代の弟子たちも“レント”は他人事?
●3月22日 週報巻頭言 山田 幸男