✣ 神の時を待つ ✣
「神の計画」が実現するまでには時間が必要です。私たちは、神さまが為さることだから、すぐに実現すると考えますが、そうではありません。神さまは、ご自身に背く者を敢えて選び、声をかけ、悔い改めへ導きます。そして、その人を罪の縄目から解放し、新生させ、神の子どもとして養い育て、手間ひまかけて「神の計画」を実現します。「神の計画」が、いつ、どのように実現するかは、神ご自身が定めています。
そこで、神の子どもとされた者にとって大切なのは、自分勝手に先走らないこと。謙虚な心で「神の時」を待つのです。待つと言っても、何もしないで、ただノンビリしていればよいのではありません。神さまから示された「小さな御心(神の導き)」に忠実であること、面倒くさいことや、馬鹿馬鹿しいと感じるようなことにも、神さまに仕えるように、真剣に取り組むのです。
神さまは、「小さな御心」を見落とす僕(しもべ)に、「重大な仕事」を任せません。
ダビデは、自分を殺そうとするサウル王に対して、《わたしの主君》《主が油を注がれた方である》から殺してはならないと語りました。ダビデはこの時、置かれた状況にも、人の声にも、自分の感情にも振り回されることなく、ただ神さまを一心に見つめています。これこそが、神の子とされた者の「神の時」を待つ姿です。
●6月26日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ ザアカイ―自由にされた者 ✣
「『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て喜んでイエスを迎えた」(ルカ19:5〜6)。一見とても不思議な物語である。ザアカイは、この時までイエスに対して、一言たりとも言葉も発していない。しかし、初めて聞くイエス様からの声に対して、自分自身を全く明け渡してしまった。「ザアカイ!」との呼びかけが、彼の心の一番深い所にストライクの直球で命中したのだろう。
ザアカイは決して特別な人間ではない。背が低いと言う劣等感からの反動なのか、努力もし、権力も富も手に入れたが、それで幸福になれたのではない。孤独であっただろう。恐らく権力や富は、自分で自分を支えなければならない「恐れ」の裏返しであった。しかし、ただイエスの招きが、彼をそんな「木の上」から降したのである。
私も木に上り、ため息をつきながら、傍観的に「救いなどこの世にあるものか」とどこかで思っていたのだと思う。しかし、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と、この私目がけて救い主イエスの方から私の方に来て下さったのである。「あなたもアブラハムの子(神の祝福の子)だ」と宣言下さるこの主が、私に、神のものとされて生きる自由と幸いを与えて下さった。
●6月19日 週報巻頭言 神学生 丸山 勉(大泉バプテスト教会)
✣ 賛美と祈り〜福音の道を歩こう ✣
古代社会では農作物を収穫したとき、喜びの「祭儀」を行いました。また、愛する人の死に直面したときは「葬儀」を行い、人々は悲しみを天に向けて祈りました。
もし理性で宗教を定義するなら、「宗教とはある特定の人々に共通する思想や感情から発生したところの教義に促される行動の形態である」と言えるでしょうか。どんな宗教にも、それを選び取る人々の“信仰心”や“祈りの対象”が存在します。そして、“芸術(音楽や美術)”も、古来、宗教と深い関係があり、密接に結びついているのは不思議な現実です。現代人によく知られている“芸術作品”の多くは、実際、作者の“信仰心”を反映しています。それを理解出来れば音楽や美術作品の“真髄”に触れることが出来るでしょう。
例えば作曲家バッハは、数々のカンタータ(声楽曲)を残しました。それはキリスト者としてのバッハの“信仰告白”です。キリストを信じる幸いを世に伝えると共に、バッハのキリストへの思いが表現されています。
キリスト教の礼拝では“聖書(御言葉)・祈り・讃美歌”が一体となっています。人々は礼拝に参加することによって“キリストに触れる体験”をします。キリストに触れた人々は、賛美と祈りにより、あらゆる違いを超えて一つとされ、聖書が約束する“天国”を見える形であらわします。礼拝は、堅苦しい宗教の儀式ではなく、人間が持つ霊性と理性が調和する至福のときなのです。
●6月12日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 神に選ばれた人 ✣
旧約聖書には、新約聖書に無い面白さがあります。その一つは単純素朴な信仰です。あまりにも単純すぎて聡明な人には物足りないかもしれません。しかし、単純で素朴な信仰の物語こそが、私たち現代人が忘れれている“何か”を思い起こさせてくれるのです。
きょうの聖書(サムエル上16章)は預言者サムエルが少年ダビデに“油”を注いだ物語です。“油”を注がれるのは、旧約聖書の世界では神に選ばれた“しるし”です。ダビデには7人の兄がいました。なぜ、神さまは立派に成長した兄たちではなく、未熟な末っ子のダビデに目をとめたのでしょうか?
聖書の中に答えがあります。
【…主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな…人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」】(16:7)。
【心によって見る】とは、神さまに対して、心底へりくだり、本当に従順になれるのか、そこを見るというのです。
先代のサウル王は、神さまの命令で王位から退けられました。彼は当初、神さまに従順でしたが、次第に傲慢になり、自分を誇り、勝手に振る舞う人になっていました。一方、若くて未熟なダビデは神さまに聞かなければ何も出来ません。ダビデの信仰姿勢は生涯を通して一貫していました。良い時も悪い時も、御言葉に聞く。
●6月5日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 真実の言葉 ✣
ついに聖書66巻の最終章に入りました。この世の苦しみは過ぎ去りました。もはや死はなく、悲しみも嘆きも苦しみもありません。創世記に始まった罪の歴史はここに終わりました。この世の王、罪の王、死の王サタンは永久の業火に投げ込まれ、神様の新天新地が現れました。神様は私たちと共に住まわれ、御自ら私たちの涙をぬぐい去ってくださいます。
神様は、「これらの言葉 は、『真実』であり、『信頼できる』(黙示録22章6節)」と約束されていますが、黙示録の中で、この『真実(ἀληθινός)』という言葉は10回、『信頼できる・真実の(πιστός)』という言葉は8回も使われています。また黙示録1章3節に「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いてその中に書かれていることを守る人々は『幸い』である」とあります。この『幸い(μακάριος)』という言葉は7回も繰り返されています。
いま、神様は「真実であり信頼できる御言葉」をもって御国の成就を示し、「その幸い」にあずかるための門を私たちに開いてくださいました。神様のひとり子イエス・キリストは真実であり信頼できる御言葉をもって、こう宣言されます。「わたしは門である(ヨハネによる福音書10章9節)」さあ、今こそこの門をくぐり、恵みの御国に入ろうではありませんか。
●5月29日 週報巻頭言 教会員A


