★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日は、主イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝をささげる日曜日です。十字架につけられ、絶叫して息を引き取っられた主イエスは、アリマタヤのヨセフの園に葬られました。墓穴は彫ったばかりの新しいものだったといいます(マタイ27章)。その日は金曜日でした。
翌日の安息日が終わり、週の始めの日曜日の明け方、マグダラのマリアがイエスの墓に向かいました。主イエスの葬りを丁重に行うために、マリアは包帯や香料(=腐敗防止薬)を買い揃えて墓に向かったと思われます。ところが、墓の中を見るとそこは空っぽで、イエスの遺体がなくなっていたのです。
呆然として、そこで泣き尽くすマリアの傍らに復活の主が姿を現わされました。マリアは、園の番人だと思って「あなたが主の遺体を運び去ったのですか」と問います。しかし、その人が復活のイエスだったのです。イエスはマリアに「わたしにさわってはいけない」と言われました。復活の体は、手で触れることができないものだったのです。本日はこの事実から、御言葉(みことば)に耳を傾けます。
●3月31日 イースター礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日より受難週が始まります。主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入城したのは日曜日のことでした。これを見たエルサレムの人々は、歓呼して主イエスの一行を迎え、棕櫚の枝を振りながらこれを迎えたとヨハネ福音書にあります。これにより、この日が「棕櫚の日曜日」と呼ばれるようになりました。
本日の聖書箇所は、それから五日が過ぎた金曜日の出来事が記されているところです。エルサレム郊外のゴルゴタ(「されこうべ」の意)の丘に、イエスは他の二人の犯罪人と一緒に十字架につけられました。人々はイエスをののしって言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。…今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」
しかし、イエスはこれに対して無言のまま、ただ十字架上で苦しまれるだけでした。嵐を静め、盲人の目を開き、ラザロを死人の中から復活させることがお出来になった方が、この場面ではなすすべもなくうなだれておられる。それはなぜか。本日はイエスの最後の場面から御言葉(みことば)に耳を傾けます。
●3月24日 棕櫚の主日礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
受難節の最中を過ごしております。本日の聖書箇所は、ルカによる福音書23章ですが、ここはローマ総督ピラトによる裁判の結果、ローマへの反逆者として処刑されることになったイエスが、処刑場までの道を、十字架を背負って歩む場面が描かれています。この道は、通常ラテン語で「ヴィア・ドロローサ」(「悲しみの道」の意)と呼ばれますが、石畳の多いおよそ500メートルの行程になります。しかし、この500メートルのあいだにイエスが語られた言葉が大変重い意味を持っています。それはエルサレムの娘たちに向かって語りかけた言葉でした。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」イエスの後をついて行ったこの婦人たちは、このような場面で泣くことを仕事として請け負っていたプロの「泣き女」と呼ばれる集団だったのではないかと言われます。彼女たちは、悲しみを演出するために神殿当局から雇われた婦人たちでありました。しかし、本当に悲しむべきはイエスのことではなく、自分と、その子どもたちだとイエスは言われたのです。
●3月17日 主日礼拝 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の手紙の宛先であるコロサイという町は、アジア州のフルギアという地方にある町で、エフェソから東方に通じる幹線沿いにある町でした。パウロの時代には比較 的小さな町で、近くのヒエラポリスやラオディキアのほうが大きく、活気があったとされています。
この教会を建てたのはパウロではなく、弟子の「愛するエパフロス」と呼ばれている人物だとされます。ヘレニズム文化の影響下にあったこの町の教会の信徒たちに、正しい教えと偽りの教えを見分ける力をつけさせることを目的として、このコロサイの信徒への手紙が書かれました。
「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように気をつけなさい」(2:8) パウロはこう述べて、ヘレニズム混交主義のもとで、信仰と哲学、神話などが入り混じったこの時代の宗教社会のなかで、正しいキリスト教信仰を伝えようとしました。グノーシスなどの思想が広く浸透、受容されていたこの時代にあって、パウロは「哲学」ではなく「福音」を語り、教会を異端の危険から守ろう としたのです。
●3月10日 週報巻頭言 牧師 木村 一充
★この説教の文字原稿と動画の掲載は終了しました。
本日の礼拝後に、定期総会がおこなわれますが、そこで提起される2024年度の教会の活動基本方針を「賛美と喜びに満ちた教会」としました。教会は、そこに集う人々にとって「魂が休む場所」にならねばなりません。そのためにも、主の日ごとにささげられる「礼拝」に、つねに新たな命が吹き込まれなければならないと、強く感じさせられております。
本日の詩編118編は、宗教改革者マルティン・ルターが特に愛した詩編だと言われます。もともと、この詩編は「賛美の歌」と呼ばれ、113編から118編までの一連の詩編が、礼拝のなかで「賛美の歌」として歌われました。ちなみに、主イエスが十字架におかかりになる前夜、弟子たちとともに、最後の晩餐の席で歌った詩編が、この「賛美の歌」であったと言われています(マタイ26:30)。主イエスご自身が、受難週の木曜日に、弟子たちと最後に歌った賛美が、本日の詩編118編であっ たというのです。本日は、この詩編の後半部分をテキストにして、神の言葉に耳を傾けます。
●3月3日 週報巻頭言 牧師 木村 一充