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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2024-10-13 16:13:22 (83 ヒット)

礼拝説教「優しさと愛の律法」  レビ記(Leviticus)  19:9-14
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週報巻頭言「優しさと愛の律法」

  新約聖書の中に、一人の律法学者がイエスの前に進み出て、「あらゆる掟の中で、どれがもっとも大事ですか」と尋ねる箇所があります。イエスの時代に、ファリサイ人たちは、律法の規定を600余りに要約し、これを忠実に守ることで、神の前に義となろうとしました。
  これを聞いて、イエスは二つの掟を示されました。第一は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)です。 第二は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という掟です(レビ記19:18)。この二つが、律法の総まとめだと言われたのです。すなわち、「神への愛」と「隣人への愛」です。この垂直方向と水平方向への愛を実践して生きることが律法の教えのすべてであると、イエスは語られました。
  本日の聖書であるレビ記19章は、この水平方向への愛を、指し示す箇所です。これらの戒めを通して分かることは、ユダヤの律法は、貧しい人や弱い立場にある人に、とても優しい掟になっているということです。ここから聖書のメッセージに耳を傾けます。

●10月13日  週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2024-10-06 18:44:11 (97 ヒット)

礼拝説教「毒麦とは何か」  マタイによる福音書(Matthew)  13:24-30
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週報巻頭言「毒麦とは何か」

  本日のマタイによる福音書13章のたとえ話は、パレスチナに住む農夫にはなじみの深い情景であり、実際に彼らが目で見ることができるものでした。毒麦は、農夫にとって最大の悩みの種であり、これを取り除くのに、彼らはたいへん苦労したといいます。
  ここで「毒麦」と呼ばれている麦は「細麦(ほそむぎ)」と呼ばれる一種の雑草を指しており、苗の間はふつうの麦とほとんど見分けがつかず、穂が出て初めてその相違がはっきり分かるというものでした。しかも、そのころには、麦と毒麦の根が複雑にからみあっていて、毒麦を抜き取ると、よい麦まで一緒に抜いてしまうことになったのです。
 細麦(ほそむぎ)の穀粒は、軽度ではあるものの、確かに有毒で、めまい、吐き気、しびれを起こし、かつ、麦の粉に少しでも毒麦が入ると、苦くて嫌な味がしたといいます。このような毒麦を除くため、打穀して製粉する前には女たちが雇われ、その手で選り分けられたということです。
  この毒麦のたとえを通して、イエスは何を語ろうとされたのか、本日はこの箇所から、聖書のメッセージを聞いてゆきます。

●10月6日  週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2024-09-29 17:18:40 (131 ヒット)

礼拝説教「いつも喜んでいなさい」  テサロニケの信徒への手紙一(1 Thessalonians) 5:12-22
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週報巻頭言「いつも喜んでいなさい」

  本日の聖書であるテサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中でもっとも古い文書、すなわち最初期に書かれた使徒パウロの直筆の手紙です。AD50〜51年ごろに書かれたと見られています。
  パウロは、その5章で「主の日は盗人のようにあなた方を襲うことはない」と言います。それは、わたしたちが目を覚ましていることができるからだというのです。そこで、結論としてパウロは言います。「キリストがわたしたちのために死なれたのは、わたしたちが目覚めていても、眠っていても主と共に生きるようになるため」であると。
  その次に、語られている言葉が有名な次の言葉です「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(口語訳聖書)
  パウロの時代を生きた初代の信徒たちはユダヤ教とギリシャ・ローマの偶像の神という二つの大きな勢力のはざまで生きてきました。その中で、皇帝の権力に抵抗し、自らの信仰を貫くことは決してたやすいことではありませんでした。しかし、パウロは、それでもキリスト者の生が喜び、感謝、祈りの生であることを訴えるのです。

●9月29日  週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2024-09-22 15:41:26 (133 ヒット)

礼拝説教「預言者とその故郷」  マルコによる福音書(Marc) 6:1-6
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週報巻頭言「預言者と故郷」

  本日の箇所の前の章、マルコによる福音書5章で、カファルナウムの会堂長ヤイロの娘を癒された主イエスは、そのあと故郷のナザレにお帰りになりました。そこで、安息日をむかえ、会堂で、御言葉(みことば)を教えられ始めます。すると、多くの人々は「この人はこのようなことをどこから得たのだろう。…この人は、大工ではないか。」と言って、イエスの教えに耳を傾けようとしなかったばかりか、むしろイエスにつまずいたといいます。「つまずく」と訳される原語には、英語のスキャンダルの語源になっている動詞が使われています。その行為によって、多くの人を失望させ、或いはその信用を失ってしまうような行為をしたということです。
  この事を、私たちはどう考えればよいでしょうか。イエスの華々しいカファルナウムでのデビューぶり、またその名声や預言者としての評判が、イエスの故郷、ナザレではそれほどよくなかったということを、私たちはどう捉えればよいのか。今朝は、ここに焦点をあてて、なぜイエスは故郷ナザレで人々に受け入れられなかったのかという理由について考えます。 そこから響いてくるメッセージに耳を傾けてゆきます。

●9月22日  週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2024-09-15 17:09:31 (155 ヒット)

礼拝説教「燃えさかる炉でも」  ダニエル書(Daniel) 3:19-27
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週報巻頭言「燃えさかる炉でも」

  本日の聖書であるダニエル書は、イスラエル南王国がバビロニア王ネブカドネツァルによって滅ぼされた後、バビロンに連れ去られたユダヤ人の中から、王の側近として仕えたダニエルに関する物語です。
  ダニエルは、王の夢を解き明かすことによって高い地位を与えられました。そこで、彼は王に願って3人の者(シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ)を、バビロン州の行政官に任命してもらいます。しかし、彼らは王宮に仕える何人かのカルデア人(バビロニア人のこと)より、妬みゆえに、中傷を受けることになりました。すなわち、彼らが王の命令を無視して王の神々に仕えることをせず、また金の像を拝むことを拒んでいるというのです。「わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」(ダニエル書3:15) しかし、彼ら3人の行政官たちは、ネブカドネツァル王のこの脅しに対して、敢然と次のように答えます。「わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」 本日はここから神の言葉に耳を傾けます。

●9月15日  週報巻頭言  牧師 木村一充


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