メインメニュー
インフォメーション
リンク
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-07-27 18:18:01 (107 ヒット)

礼拝説教「神に喜ばれるささげもの」  ペトロの手紙 一(1 Peter )  2: 1-5
週報巻頭言「神に喜ばれるささげもの」

  だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」ペトロは、そのように小アジアの各地に離散して暮らすキリスト者たちに、勧告の言葉を語ります。彼らは、ローマ皇帝による迫害やユダヤ人による迫害に苦しんでいた人たちでした。そのような彼らを支えたのは、イエス・キリストと再び会うという希望でした。この終わりの日への希望によって彼らは、きびしい迫害の中でも希望を持って生きることができたのです。
  本日の箇所で、ペトロは「あなたがた自身が聖なる祭司となり、神に喜ばれる霊的ないけにえをささげなさい」と述べます。祭司の仕事の第一は、礼拝をつかさどり、祈りとささげものをもって人々の罪の赦しを神に求める、いわゆる「とりなし」のわざを行うことです。そのためには、自らも神の前に身を律し、み言葉に親しみ、絶えず祈らなければなりません。
  本日は、このような霊の人とも言える祭司となるための要件を考えながら、ささげることの意味を考えます。

●7月27日   週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-07-20 18:07:50 (97 ヒット)

礼拝説教「祈りの精神」  ルカによる福音書(Luke)  11: 3-9
週報巻頭言「祈りの精神」

  主イエスがあるところで祈っておられると、弟子の一人がその祈りが終わるのを待ちかねていたかのように、次のように求めました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」
  ヨハネとは、バプテスマのヨハネのことです。洗礼者ヨハネは、悔い改めと水による洗礼(バプテスマ)を民衆に説きましたが、そのために祈ることも弟子たちに教えていました。イエスは、ヨハネほど祈りの手ほどきをしなかったようです。
  この弟子の求めに応えて教えられた祈りが「主の祈り」と呼ばれる祈りです。主の祈りは、神に向かって垂直方向に祈る祈りと、日常生活の中で起きる問題に対して自分と隣人のために祈る水平方向の祈りによって構成されています。この二つの祈りがあって祈りの生活は前進するのです。この二つのうち、どちらが欠けても不十分です。自転車が二つの車輪によって前に進むのと同じです。
  しかし、なぜ信仰者に祈りが必要なのでしょうか。また、祈りとはいったい何なのでしょうか。本日はルカによる福音書11章から、この「祈り」という行為について思いを巡らせます。

●7月20日   週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-07-13 16:29:42 (109 ヒット)

礼拝説教「主を賛美せよ」  詩編(Psalms)  117:1-2
週報巻頭言「2025年音楽礼拝」

  本日は、「2025年音楽礼拝」をささげる日曜日です。演奏者として、大井バプテスト教会元音楽主事、ハンドベル演奏者でもある菊地るみ子さんをお招きしています。菊地さんは、西川口キリスト教会でバプテスマを受け、都内の音楽大学を卒業されたのち、米国の教会で教会音楽の学びを重ねてこられたお方です。
  帰国後は、西川口キリスト教会、大井バプテスト教会で音楽主事として働かれる一方、東京バプテスト神学校の教会音楽科講師としても力を発揮されました。連盟の新生讃美歌にも菊地さんの訳詞や作曲された讃美歌(320,370,569番他)が収められていますが、とくにハンドベル演奏者として、これまで多くの教会、学校等で演奏されてきました。本日、わたしたちの教会に来てくださったことを心から嬉しく思います。ちなみに、菊地さんが当教会の主日礼拝に出席するのは今回が初めてということです。
  講師をお招きしての音楽礼拝は、当教会としては2年ぶりになります。礼拝における音楽の果たす役割の大切さ、その素晴らしさを、体で実感することができることでしょう。音楽を通して主のみ名をほめたたえ、神さまを礼拝することのできる幸いを喜びましょう。

●7月13日  2025年音楽礼拝  週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-07-06 16:48:58 (70 ヒット)

礼拝説教「人を裁くな」  マタイによる福音書(Matthew)  7:1-6
・文字原稿(スマホ & PC閲覧用) ← クリックしてご覧ください。
週報巻頭言「人を裁くな」

  本日の聖書箇所であるマタイ福音書7章は、主イエスの山上の説教の途中のところであります。ここで、イエスは「人を裁くな」という教えを説いておられます。裁くとは、人を評価し、白黒の判定をするということです。しかし、わたしたちはどれほどしばしば人を見誤ることでしょうか。この人は信用できると思っていたのに裏切られた。逆に、この人は頼りにならないと思っていた人が、自分にはない素晴らしい能力や品性を備えていることが分かり驚かされるのです。
  ユダヤ人は、この世と来るべき世にあって、人に名誉を与える行為が六つあると考えました。それらは、順に勉学、病人の訪問、来客の接待、祈祷への精進、子供の教育、そして他人の最善を願うことの六つでした。その意味で、愛情をもって人を判断することは、聖なる義務であると考えていたのです。
  わたしたちは、相手のことを100%知っているのではありません。それなのに、相手のことを正しく評価することなど、なかなかできるものではありません。人を裁くなと言われることの意味を、この朝はともに分かち合いたいと思います。

●7月6日   週報巻頭言  牧師 木村一充


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2025-06-29 16:13:45 (101 ヒット)

礼拝説教「律法の役割」  ガラテヤの信徒への手紙(Galatians)  3:21-25
・文字原稿(スマホ & PC閲覧用) ← クリックしてご覧ください。
週報巻頭言「律法の役割」

  ガラテヤの信徒への手紙は「信仰による義」を説き明かす書簡として、ローマの信徒への手紙と並んで知られる書簡です。本日の箇所で、使徒パウロは「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下(もと)で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました」と述べています。(3:23)
  ここでいう「律法の下で監視される」とはどういうことなのか。また、これに続く「閉じ込められている」とはどういう状態を指すのかを考える必要があります。その前に、「律法」がユダヤ教においてどのようなものだったかを理解しておく必要があります。ひと言で言えば、それは神の民と呼ばれるにふさわしい生き方を規定する「生活の規範、信仰生活を送るためのルール」でした。しかし、イエスの時代には、それが「律法主義」の名のもとに清いものと清くないもの、選民と罪人を峻別するための道具になっていました。律法の行いによって、信仰が測られ、評価され、目に見える「しるし」が幅をきかせるようになっていたのです。それが、キリストの到来によってどう変わったのか、本日はそのことを共に考えます。

●6月29日   週報巻頭言  牧師 木村一充


« 1 (2) 3 4 5 ... 164 »

日本バプテスト連盟   栗ヶ沢バプテスト教会

  〒270-0021 千葉県松戸市小金原2-1-12 TEL.047-341-9459


 栗ヶ沢バプテスト教会 Copyright© 2009-