✣ 本気の悔い改めとは ✣
人は良い状況が続くと“神の恩寵(めぐみ)”を忘れて、自分の力で何でも出来るかのような「錯覚」に陥ります。この「錯覚」は、やがて自分を絶対化し、自分を「神」とします。これを聖書は「罪」と呼び、警告しています。「罪」に心を奪われると、どんな人も、例外なく「堕落」します。
ダビデは信仰の人でした。国王になってからも謙虚な心で神に従いました。熱心に礼拝をささげました。それだけでなく、貧しい人々や苦しむ人々に目をとめ、すべての国民が「生きていて良かった」と思えるようにと、国づくりに励んでいました。
ところが、ここにも「罪」の落とし穴がありました。ダビデが行った人口調査を神は悪とみなした(歴代上21:7)。人口調査は、かつてモーセも行っています(民数記1章)。
なぜ、ダビデの人口調査は「罪」なのか? 理由は明らかです。モーセは“神の命令”を受けて行いました。しかし、ダビデは“神の命令”を受けないまま、自分勝手にしたからです。聖書は、「ダビデはサタンに誘われた」と記しています(歴代上21:1)。
さて、ここに現代人への問いかけがあります。その行動の“動機”は何か? “神の言葉”を忘れた時、信仰の人でさえ時代の波に翻弄されてしまうのです。
●7月31日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 放置された歴史の清算 ✣
ダビデ王の治世のある時期に「飢饉」が3年続きました。現代なら気象条件等からその理由を合理的に説明できますが、これは三千年昔の世界の話です。当時の人々は、「飢餓(国家の災い)」は神の怒りの発露と考えました。ダビデ王が「飢饉」の理由を神に尋ねると、「先代サウル王の犯した罪が未解決」との答えがありました(サムエル下21:1)。
ダビデの時代から200年程昔、モーセの後継者ヨシュアは、カナン地方統治に際し、先住民(ギブオン人)との間に“和親条約”を結びました(ヨシュア記9章)。先代サウル王はこの約束を破り、命を守るべき人々を傷つけ、危害を加えたのです。これが「神への背信行為(罪)」とみなされました。「罪」を解決するには“償い”が必要です。それでサウル王家の生き残り7人が、先祖の「罪」の代償として処刑された、というのです。
この話は現代人には不可解です。しかし旧約聖書の世界では、「失われた命は、命で償う」のが正義とされたので、ダビデ王は罪解決のため、当時の正義を貫徹したのです。
それならキリスト教も同じか、と質問されそうです。…No ! 新約聖書は、“十字架で死んだキリスト”を信ぜよ、そうすればすべての「罪」が赦されて、“新しい世界が始まる”と教えています。
●7月24日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 王子の反逆 ✣
ダビデ王の子どもたちの間に、とんでもない事件が起きました。長男アムノンが異母妹タマルを辱(はずかし)めたため、彼女の実兄・三男アブサロムは、長男を憎み、羊の毛を刈る祝いの席で部下に命じて兄を殺害した。この事態に父ダビデは怒りました。
しかし、子どもたちの「罪」を断つ手立てをしなかった。ダビデ王家は“罪の悔い改め”を強制しない教育(子育て)を選んだようです。親が信仰の人なら、子どもは悔い改めるだろう…。王子なら、自然に信仰を持つものだ…。父ダビデも側近も、誰もが、期待しました。でも、それは幻想でした。
信仰は遺伝しない。親は意識して伝えるべきことを伝えないと、子どもたちは信仰を持つようにはなりません。旧約聖書に記された“信仰の民”の歴史を探ると、次世代への“信仰継承”を怠った時には国家的危機に直面しています。現代も例外ではありません。「罪」は小さいうちに解決しないと、必ず大きな「悲劇」を招きます。
王子アブサロムは“悔い改め”のないまま、父ダビデの温情に便乗する。自分が王になる準備を密かに進め、ついに謀反(クーデター)を実行します。こうして、王子が抱えていた「未解決の罪」は、すべての国民を巻き込む「悲劇」へ発展します。
●7月17日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ ダビデ王の背信 ✣
イスラエルの王となったダビデは、部下の妻と不適切な関係を持ちます。彼女の妊娠を知ると、証拠隠滅を謀り、彼女の夫を戦争の最前線へ派遣して戦死させました。
この行為に神さまは怒ります。預言者が“神の言葉”をダビデに告げました。
「貧しい人が大切にしていた羊を、金持ちが取り上げて食べてしまった。王様、あなたは、これをどう思いますか?」
ダビデ王は怒りました。
「私は無慈悲を赦さない。死刑にせよ!」
預言者はズバリ指摘します。
「あなたがその人です。」
この指摘でダビデは自分の罪に気づき、涙を流して悔い改めます(詩編51参照)。
この話をすると、必ず反論されます。「牧師さん、悔い改めれば何をしても赦されるとは、都合の良い話ですね。」 しかし、私は「そうです。赦されます。」と答えます。駆け出し牧師の頃は、言い切る自信はなかったのですが、教誨師の働きを通して確信しました。刑務所や少年院で受刑者が本気で悔い改めると、人が変わります。むしろ、普通の人は罪意識が希薄なためか、悔い改めが中途半端。悔い改めたつもりになるが何も変わらない。だから「都合の良い話」で終わる。あなたへの問です。
●7月10日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 神との絆 ✣
私たちが「ダビデの生涯」から学びたいことの一つは、“先立つ神の恵み”です。神を信じて従う人に、神は必ず祝福を備えています。もう一つは“罪人と聖なる神との絆”です。罪を抱える人間は、どのように神から罪を赦され、どんなふうに神と強く結びつくのか、そのプロセスです。
世の中には聖書を読まなくても、信仰を持たなくても、稀(まれ)に素晴らしい生き方をしている人もいます。そういう人から見れば、罪丸出しの「ダビデの生涯」など、とても受け入れられないかもしれません。
ところが、そんなダビデが、神に選ばれ、神が愛してやまない人物であると、旧約聖書サムエル記は一貫して語っています。
聖書を読んでいても、信仰があっても、立派というには程遠い者にとって、「ダビデの生涯」は大きな慰めであり、希望です。
ダビデの生き方に、“神との絆”を深めるヒントがあります。
1) 雑音に振り回されない
…どんな時も、神の導きを求め、神の声(Go! Stop! Wait!)に必ず従う。
2) 他者を責めない
…自分の罪を悔い改めて、自分が日々新しくなるように祈る。
3) 礼拝を忘れない
…嬉しい時も、悲しい時も、神を賛美して生活する。
●7月3日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男


