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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-02 19:08:09 (1272 ヒット)

✣ 神に選ばれた人 ✣

    旧約聖書には、新約聖書に無い面白さがあります。その一つは単純素朴な信仰です。あまりにも単純すぎて聡明な人には物足りないかもしれません。しかし、単純で素朴な信仰の物語こそが、私たち現代人が忘れれている“何か”を思い起こさせてくれるのです。
    きょうの聖書(サムエル上16章)は預言者サムエルが少年ダビデに“油”を注いだ物語です。“油”を注がれるのは、旧約聖書の世界では神に選ばれた“しるし”です。ダビデには7人の兄がいました。なぜ、神さまは立派に成長した兄たちではなく、未熟な末っ子のダビデに目をとめたのでしょうか?
    聖書の中に答えがあります。
    【…主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな…人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」】(16:7)。
    【心によって見る】とは、神さまに対して、心底へりくだり、本当に従順になれるのか、そこを見るというのです。
    先代のサウル王は、神さまの命令で王位から退けられました。彼は当初、神さまに従順でしたが、次第に傲慢になり、自分を誇り、勝手に振る舞う人になっていました。一方、若くて未熟なダビデは神さまに聞かなければ何も出来ません。ダビデの信仰姿勢は生涯を通して一貫していました。良い時も悪い時も、御言葉に聞く。

●6月5日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-26 20:04:38 (1198 ヒット)

✣ 真実の言葉 ✣

    ついに聖書66巻の最終章に入りました。この世の苦しみは過ぎ去りました。もはや死はなく、悲しみも嘆きも苦しみもありません。創世記に始まった罪の歴史はここに終わりました。この世の王、罪の王、死の王サタンは永久の業火に投げ込まれ、神様の新天新地が現れました。神様は私たちと共に住まわれ、御自ら私たちの涙をぬぐい去ってくださいます。
    神様は、「これらの言葉 は、『真実』であり、『信頼できる』(黙示録22章6節)」と約束されていますが、黙示録の中で、この『真実(ἀληθινός)』という言葉は10回、『信頼できる・真実の(πιστός)』という言葉は8回も使われています。また黙示録1章3節に「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いてその中に書かれていることを守る人々は『幸い』である」とあります。この『幸い(μακάριος)』という言葉は7回も繰り返されています。
    いま、神様は「真実であり信頼できる御言葉」をもって御国の成就を示し、「その幸い」にあずかるための門を私たちに開いてくださいました。神様のひとり子イエス・キリストは真実であり信頼できる御言葉をもって、こう宣言されます。「わたしは門である(ヨハネによる福音書10章9節)」さあ、今こそこの門をくぐり、恵みの御国に入ろうではありませんか。 

●5月29日 週報巻頭言 教会員A


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-19 19:08:12 (1092 ヒット)

✣ すると天から火が下った ✣

    『ヨハネの黙示録』はアジア地方(現在のトルコ西部)にある「七つの教会」宛に送られたものです。各教会で朗読するように意図されました。今から二千年昔、ローマ帝国によるキリスト教徒迫害の渦中にあった人々は、謎めいた象徴的物語から、どんな“福音(喜びの知らせ)”を読み取ったのでしょうか。
    黙示録20章は、いわゆる「千年王国」と「最後の審判」を伝えています。天使は、人々を苦しめた「悪魔」を底なしの淵へ閉じ込め、【千年が終わるまで…諸国の民を惑わさないようにした】(1-3節)。そのとき、イエスに従った殉教者たちは、復活して神の祭司となり、千年の間、イエスと共に統治する(4-5節)。そして、千年が満ちたとき「悪魔」は再び暴れるが、ついに神の「最後の審判」が実行されて、「悪魔」と「死者たち」は、【彼らの行いに応じて裁かれ…火の池に投げ込まれた】(11-15節)。最後の描写は凄惨です。
    一体、この話のどこに“福音(喜びの知らせ)”を聞いたのでしょう? 「七つの教会」の人々は確かに神のメッセージを受け取っていました。…今は、まだ夜が明けていないが、既に夜明けの星(キリスト)は輝いている。今こそ、神の勝利を先取りして試練に立ち向かうのだ…。彼らは、【すると、天から…】(9節)を聞き逃さなかった。ここに“光”を見たのです。

●5月22日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-12 20:02:10 (1106 ヒット)

✣ 霊性と理性とによって ✣

    信仰があるからといって、祈っておけばすべてが上手く行くわけではありません。信仰があっても、冬になれば寒さに震えるし、夏は暑さに閉口します。人から何か言われれば腹も立つ。褒められたら嬉しい。信仰があっても、怒るときは怒るし、泣くときは泣きます。でも信仰があれば、それだけに囚われることはありません。信仰があると、“天の知恵(神の計画)”に気づくことが出来ます。
    『ヨハネの黙示録』は、今から二千年昔、ローマ帝国下で激しい迫害の渦中にあったキリスト者に対して書かれたものです。彼らは試練の中で『黙示録』を読みました。謎めいた文書から“主は再び来る(キリスト再臨)”を読み取り、勝利が約束されていることを知り、心を励まされたのです。彼らは今の試練が神の勝利へつながっていると受けとめました。「この試練は勝利の前兆」と考えたのです。これが“天の知恵”です。
    『キリスト教信仰は、主の再臨に焦点を合わせていくものであって、今どういうふうに生きていくかは、結果として生まれて来るものである。結果と目的を間違えてはならない。…問題が起きたときに、なお、そこで神を賛美できるところに、キリスト信者の信仰の力、証しがあると思う。』(榎本保郎著「新約聖書一日一章」574頁)【神を礼拝せよ】(黙19:10)

●5月15日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-05 19:19:13 (1144 ヒット)

✣ ローマ帝国崩壊の預言 ✣

    『ヨハネの黙示録』が書かれた時代は、ローマ帝国の最盛期でした。「すべての道はローマに通ず」と言われ、皇帝は絶大な権力を握り、ローマは世界の中心であり、帝国はいつまでも安泰だと誰もが思っていました。ところが、その帝国の終焉(しゅうえん)をヨハネは幻で見たのです。その様子を『黙示録18章』が伝えています。
    《天使は力強い声で叫んだ。「倒れた。大バビロンが倒れた》(黙18:2)。
    《大バビロン》とは、かつてイスラエルの民を支配したバビロン帝国のことですが、ここでは「ローマ帝国」を指しています。バビロンもローマも、神の前では《大淫婦》(黙17:1)であり、その不貞行為は神に裁かれます。ヨハネはそれを見たのです。
    確かに「ローマ帝国」は滅びました。今はありません。ではなぜ「ローマ帝国」は滅びた(神に裁かれた)のか。理由は明白です。“神の御心”に反することを続けていたから。“神の怒り”を招く行為をやめなかったからです。国家繁栄は悪ではありません。しかし、その繁栄が、「むさぼり」「上から目線の優越感」「自分の腹を神とする」等、《さもしい精神》が土台なら衰退は必然です。実際、洋の東西を問わず、歴史が証言している通りです。『黙示録』が伝える“神の裁き”は、繁栄を謳歌する現代社会も、決して他人事ではありません。

●5月8日 週報巻頭言 山田 幸男


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