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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-03-17 19:54:50 (1119 ヒット)

✣ 十字架と愛 ✣

    きょうから“受難週(Passion Week)”に入ります。「キリスト教国」ではない私たちの国、日本には“受難週”が何のことか分からない人がたくさんいます。クリスマスやバレンタインデーには強くこだわるも、“受難週”は知らない。今度の日曜日が“イースター(復活祭)”であることにも無関心です。欧米先進国では、この季節はクリスマス同様、国民の休日(イースター休暇)です。キリスト教信仰の土台ともいうべき“イースター(復活祭)”。これを無視して、包装紙だけ欧米先進国を真似る私たちの国の「いびつな現実」に気づいて欲しいのです。
    これは今始まったことではありません。明治の文明開化以来、この状態が長く続いているのは、この国でキリストを信じた私たちにも責任がないとは言えません。鎖国時代のような踏絵や、命にかかわる迫害があるわけでもないのに、「みんなと違うと浮き上がる」と言って、何かに怯える現代のキリストの弟子(私)がいます。
    “イースター(復活祭)”を迎えても“神の力(愛)”を確信出来ないとしたら、それは、現代の弟子(私)が“受難週”を他人事のように過ごしているからではないでしょうか。
    今週は“受難週”です。キリストへ向き直る生活(悔い改め)を最優先しましょう。“受難週”を通らなければ“イースター(復活祭)”はありません。

●3月20日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-03-10 20:26:49 (1004 ヒット)

✣ あなたも弟子ではないか ✣

    イエスさまは弟子ユダの裏切りによって、ゲッセマネの園で逮捕、連行されます。そのとき、ペトロも他の弟子たちも、皆、逃げ去りました。《主よ、ご一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております》(ルカ22:33)と、自信満々にペトロが言ったのは、わずか数時間前のことでした。イエスさまは、なぜ、もっと意志が強くて立派な人々を弟子にしなかったのでしょうか。
    答え。人々が“神を崇めるため”です。
    人々が、弟子たちの才能や功績に感心するのではなく、神の力を認め、純粋に“神を誉め讃える”ためです。イエスさまは、ペトロの弱さを十分承知の上で弟子にしました。ヤコブもヨハネも、他の弟子たちも、そして裏切ったユダも、です。あるがままの彼らを、まるごとすべて受け入れて弟子にしたのです。
    主の招きは今も同じです。連行されるイエスさまのあとをこっそりついて行くペトロ。大祭司の屋敷の庭で、思いがけずプライドを木端微塵に砕かれます。《「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言う」…イエスの言葉を思い出し…激しく泣いた》(マタイ26:75)。こうしてペトロは、自力で頑張る「我流の弟子」から、キリストに従う“神と人に喜ばれる弟子”に変えられて行きます。

●3月13日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-03-03 19:15:16 (1063 ヒット)

✣ 勇気を出しなさい ✣

    「神さまは人に口を一つ、耳を二つ与えました。しゃべる二倍聞け、ということです」…これはユダヤのジョークです。
    ヘソ曲がりの私は、このジョークを違う角度から考えてみました。神さまが二つ与えたものは耳だけではありません。目と鼻の穴、手も足も二つです。内臓に至っては心臓は一つですが、肺、腎臓は二つ、男性は睾丸を二つ、女性は卵巣が二つあります。
    体の働きの重要性を考えると、口が一つだけというのは、むしろ不思議です。口は人が生きるために不可欠な働きを、少なくとも二つ担っています。食べること、話すことです。もし私に口が二つあったら、大好きな「どら焼き」を食べながら、同時に「聖書の話」が出来ます。食事と伝道が今よりもっと楽しくなるでしょう。
    しかし、弊害もあります。二つの口で、どら焼きとカレーを同時に食し、食べ過ぎてしまうかも…。また違う聖書の話を同時に話して、うるさいと嫌われるかも…。一つでも持て余しているのに二つの口を管理するのは私には無理。へ理屈を思いめぐらせた結果、口は一つで十分と分かりました。
    沈黙すれば“イエスの言葉”が聞こえて来ます。《勇気を出しなさい。わたしは世に勝っている》(ヨハネ16:33)。

●3月6日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-02-25 20:04:18 (1110 ヒット)

✣ イエスの愛にとどまる ✣

    聖書は、神さまを信じてまっすぐ歩めば豊かに実を結ぶと告げています。しかし、私たちの現実は、そう甘くはありません。神さまを信じていても苦労や悩みは絶えません。信仰があるばかりに、普通の人なら気にしないことで悩んだりもします。どうすれば豊かな実を結べるのでしょうか?
    イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちに「ぶどうの木の譬え」から教えました。翌日、イエスさまは十字架で殺される定めになっていました。限られた時間の中で、イエスさまは、弟子たちがこの先、どのように歩めばよいかを丁寧に諭しました。
    《わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。》(ヨハネ15:4)。
    イエスさまの弟子にとって一番大切なことは、嬉しいときばかりでなく、悲しいときも、苦しいときも、いつもイエスさまにつがなっていることです。
    ところが、その大切なつながりを、自ら断ち切った弟子がいました。ユダです。ユダの裏切りについては、多くの憶測があります。他の弟子たちも裏切って逃げました。しかし、他の弟子たちはイエスの十字架を見て、戻って来たのです。 

●2月28日 週報巻頭言 山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-02-18 18:57:27 (1339 ヒット)

✣ 弟子の足を洗う ✣

    イエス様が十字架にはりつけにされて殺される前の晩の夕食時のことです。イエス様は突然食卓を立たれ、弟子たちの足を洗い始めました。当時、人の足を洗うのは奴隷の仕事であり、誇り高いユダヤの民が最も忌み嫌う仕事でした。弟子たちは大いに驚き、その筆頭であるペテロは「私の足など、永遠に、決して洗わないで下さい」と叫びました。それほど衝撃的な出来事だったのです。
    イエス様のこの行為が、単に謙遜と友愛を倫理的・道徳的に教えるだけのものなら、ペテロのこの発言をもって、弟子たちにその意図は十分に伝わったはずです。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる」とおっしゃいました。そして、ペテロの足を洗い、すべての弟子の足を洗われたのです。
    この物語には、イエス様が私たち一人一人と向き合い、一人一人のために最も低いところまで降られるという、十字架に向かわれる御子にしかおできにならない、大切な意味が込められています。イエス様は、私たち一人一人と向き合い、重荷を負い、罪を贖い、私たち一人一人を永遠のいのちへと導いてくださるのです。その御恵みをヨハネ福音書からじっくりと味わって参りましょう。

●2月21日 週報巻頭言 教会員A


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