✣ 神を怒らせた出来事 ✣
モーセは、神さまから“十の言葉”を記した石の板(十戒)を授かるために、シナイ山に登り、四十日四十夜、山に留まります(出エジプト24:12以下)。麓(ふもと)でモーセの帰りを待つ人々は、モーセがなかなか戻らないためしびれを切らせ、彼らの心は神さまから離れてしまいます。“神の時”を待てないのです。
民はモーセの助け手であるアロンを説得し、「若い雄牛の鋳像」を造らせ、それを拝み始めます。かつて暮らしたエジプトでは、「雄牛」は、力と権威、豊穣と多産を象徴する「偶像神」でした。イスラエルの民は、神さまから“十戒(信仰者の行動基準)”を授かった直後に、「エジプト時代は良かった…」と、後ろを振り向いて偶像礼拝に走り、神さまに背を向けてしまったのです。
困ったときに自分の力で問題解決の努力をすることが「罪」なのではありません。ここでの神の民の問題点は、“出エジプトの旅”は、良い時も悪い時も、神の御手(慈愛)の内にあることを忘れて“神の時”を待てないことです。
モーセをリーダーに選び立てたのは神さまです。モーセは必ず戻ります。が、待てない。神さまとイスラエルの民は“契約関係”にありました。ところが、民は約束を守らない。神さまは激怒する。この怒りを神に選ばれた人モーセが必死に執り成します。
●9月6日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 十戒と十字架 ✣
モーセはシナイ山で神さまから“十戒”を授かります。この出来事は民族宗教としてのユダヤ教成立の起点を伝えています。
私たちキリスト者は、“モーセの十戒”を窮屈な戒めと感じ、どちらかというと、あまり聞きたくない御言葉に分類してしまうのではないでしょうか。「〜ねばならない」「べきだ」と押しつけがましく命じる戒めを、“喜びの福音”として受けとめられる人がいたら、牧師の私も、ぜひ弟子入りさせて欲しいものです。“十戒(シナイ契約)”は何を教えているのか? 諸説あるところですが、答えの一つは旧約聖書時代に生きた「信仰者の行動基準」を教えるものだということです(不信仰はシナイ…だからシナイ契約?)。白髭のおじいさんが子や孫たち(次世代のイスラエルの民)に、神さまに従う生き方の基本(十戒…契約)を教えます。
これを正しく理解する鍵は、出エジプト記19章にあります。出エジプトを体験した人々を、神さまが祝福する三つのキーワードに注目してください。【あなたたちは…わたしの宝となる…祭司の王国、聖なる国民となる(19:5-6)】。“十戒”を実践することは旧約時代の人々の信仰表現でした。では現代のキリスト者の信仰表現とは…? キリストに向き直り、神と人とを愛することです。“十戒”は“聖霊の力”で今も実現されます。
●8月30日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ あなたのやり方は良くない ✣
モーセは人々の相談を受けるために、朝から晩まで忙しく働いていました。エトロ(妻の父親)が訪ねて来たのに、ゆっくり話をする間もありません。見かねたエトロが語りました。【あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう…。】(出エジプト記18:17)。
モーセが一人で頑張っていた理由。それはエジプトの統治体制の真似をしていたとも言われています。モーセは若い頃、エジプト王室で王子としての教育を受けました。エジプト王国の統治はファラオによる専制政治でした。エジプトの遺跡からは、ハムラビ法典のような法体系は発見されていません。すべての事案をエジプト王ファラオが決裁し、命令を受けた者によって実行されていたのです。
エトロはモーセに、預言者と管理者の役割を分離するように助言します。神を畏れ、不正を嫌い、誠実に仕える人々を民の上に立て、管理者の責任を委ねるよう提案したのです。エトロはミディアン人(異邦人)の祭司でした。妻の父親とはいえ、異教徒です。しかし、モーセはこの助言に耳を傾け、受け入れます。この先、モーセは管理者の務めを解放され、預言者の働きに専念します。良い助言者を持つ人は幸いです。キリスト者には最高の助言者“イエスさま”がおられます。
●8月23日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 渇きを潤す水 ✣
イスラエルの民の「荒れ野の旅」は続きます。レフィディム(「平原」の意味、シナイ山北西約20km)と呼ばれる所に来ました。そこには水がありません。民はモーセに向かって再び「不平」を言い始めます。「水を与えよ!」
彼らは“紅海の奇跡”を体験した直後にも同じ不平をモーセにぶつけました(出エジプト15:24)。その後、シュルの荒れ野では“甘い水”を十分飲ませてもらいました。また、シンの荒れ野に入った時には“天からのパン(マナ)”と“うずら(肉)”を与えられ空腹を満たしました。あの時のこと、素晴らしい体験を、民は忘れてしまったのでしょうか。
これまでの間、神はモーセに命じて民の必要に誠実に答えて来ました。それなら、これから先も、神は必要に応じて備えてくださるに違いない、そう信じるのが“信仰”です。神が民に求めているのは“信仰”なのです。
この時モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」(17:2)と人々に語り、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。わたしを石で打ち殺そうとしています」(17:4)と、神に向かって本音で叫びます。モーセは、時が良くても悪くても、常に神の方を向いています。神の民でも「罪」を内包しています。特徴は、人間が裁判官の座に着き、神を被告席に座らせることです。
●8月16日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ シャローム(神の平和) ✣
平和を考える季節です。テレビや新聞は戦争体験者の証言や、原爆のつめ痕、そして平和の尊さを伝えています。理由はどうあれ、一度戦争状態になってしまえば、悲しく痛ましい出来事が次々と起こり、多くの人々が尊い命を落とすことになります。だから平和を壊してはいけないのです。
平和が大切であることは誰もが分かっています。しかし、それにもかかわらず、今も世界のどこかで戦争状態が続いています。悲しい現実です。なぜ、同じ過(あやま)ちが繰り返されるのでしょうか。
イエスさまは弟子たちに、【剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。】(マタイ26:52)と教えました。イエスさまがこの教えを語ったのは、弟子たちと肉鍋を囲んでリラックスしている時ではなかった。ゲッセマネの園で祈っていた時、イエスさまを裏切った弟子ユダとイエスさまを憎む宗教指導者ら、加えて剣や棒をもってやって来た大勢の群集に囲まれてしまった。この危機的状況下で、弟子ペトロはイエスさまを守ろうとして剣を抜きました。その時のお言葉です(ヨハネ18:10-11)。
今、時代は混沌としています。私たちはどうすれば良いのか。『平和』、それは私たちの実存を問う重い課題です。
●8月9日 週報巻頭言 山田 幸男