✣ 見えなかったが、今は見える ✣
旧約聖書イザヤ書のメシア預言には、《見ることの出来ない目を開き》(イザヤ42:7)とあります。イエスさまは目の見えない多くの人々の目を開き、見えるようにしました。《わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ》(ヨハネ8:12)と語ったイエスさまこそ、旧約聖書のメシア預言を成就したお方であるとヨハネ福音書は告げています。
きょうは、ある盲人がイエスさまに癒された話です(ヨハネ9:1-12)。当時、目の見えない人は他者の憐れみに頼る他に生きる道はなかった。物乞いする人にとって、神殿に近い場所は、最も収入を得られる場所のようでした。弟子たちは盲人を見て、「この人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか」とイエスさまに尋ねました。当時の人々は病や苦難の原因は罪にあると考えていたからです。この問にイエスさまは、「本人が罪を犯したのでも両親でもない。神のわざがこの人に現われるためである」と答えた。
誤解しないでください。特定の病や試練が罪の結果でないのは勿論のことですが、生まれつき盲人であることが神の栄光だという訳でもありません。病も試練も喜びも、すべては神の御手にあるという意味です。
イエスさまの言葉を信じて従う。ここに神のわざが現れるのです。
●1月31日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 青年がつくる礼拝 ✣
求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
(新共同訳聖書 マタイによる福音書 7:7-8)
●1月24日の礼拝は、「青年がつくる礼拝」です。
青年たちの証しと特別賛美を中心に礼拝をささげます。
✣ もう一つの奇跡 ✣
「喜びの聖人」と呼ばれたアッシジのフランシスコ(1181-1226)が、『完全な喜び』を弟子に教えたそうです。
「もしあなたが人々の病を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせたとしても、それは『完全な喜び』ではない。あなたがあらゆる知識を習得して、天使のように人々に話しかけることが出来たとしても、それは『完全な喜び』ではない。あなたが、神を信じないすべての人をキリスト信仰へ導いても、それが『完全な喜び』ではない。」
これを聞いた弟子は怒って問い返した。
「では、『完全な喜び』とは何ですか?」
フランシスコは静かに答えた。
「雨降る寒い日に、あなたはびしょぬれになって修道院に来たとする。扉をたたくと、応対した修道士に『あなたは誰ですか』と言われる。『兄弟(ブラザー)です』と答えると、『あなたは怠け者だ、出て行け』と冷たくされる。あなたが文句も言わずに耐え忍ぶなら『完全な喜び』だ。あなたが再び扉をたたくと、彼は更にひどい言葉を浴びせる。あなたが涙を流して扉をたたき続けると、彼は出て来てあなたを泥水の中へ投げ倒す。この苦しみをイエスのように受け入れるなら、これが『完全な喜び』である。」
この話、どう思いますか?
●1月17日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ いのちの水 ✣
ユダヤ滞在を終えたイエスさまは、弟子たちと共に故郷ガリラヤへ向かいます。ユダヤの指導者たちとの衝突を避けるために“サマリア”を通るルートを選びました。
当時のユダヤの人々は、サマリア山地を通過するルートは敬遠し、遠回りを承知でヨルダン川沿いを行くのが普通でした。
なぜなら、ユダヤ人とサマリア人の間には根深い対立があったからです。
ヤコブの井戸の近くで、弟子たちはイエスさまを一人残し、食物調達のために町へ向かいます。しばらくするとサマリア人の女性が「井戸の水」を汲みに来ました。イエスさまは、その女性に、「水を飲ませてください」と声をかけます。女性は驚きます。彼女はある事情を抱えていたので人目を避けて水を汲みに来たのです。加えてユダヤ人がサマリア人に親しく語りかけるのは、当時の常識では考えられないことでした。
ここで注目したいのはイエスさまの個人伝道の方法です。ユダヤ人はサマリア人とは《交際しない(「同じ器を使わない」の意味)》(ヨハネ4:9)とされた習慣を破り、軽蔑の対象である女性に、自ら「水を飲ませて欲しい」と求めます。真理を啓示するお方は、わけありの女性を上から目線で見下すようなことはしません。謙虚に接します。直後に二人の立場が逆転します。そして彼女に“いのちの水”が流れました。
●1月10日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 栄光の始まり ✣
2016年が始まりました。聖書に『古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて…』(エフェソ4:22-23)とあります。新しくなって前進しましょう。信仰の歩みは前進です。でも歯をくいしばって一人で頑張るのではありません。イエスさまと共に前進するのです。
新年最初の主日礼拝は、ヨハネ福音書『カナの婚礼』から学びます。イエスさまが公生涯に入って最初に行った“しるし(奇跡)”です。婚礼の席で、イエスさまは水をぶどう酒に変えた、それも最高級のぶどう酒に変えたという話。何が起きたのでしょう?
聖書は、水がどんなふうにぶどう酒に変化したかについては何も記していません。そこで、私たちは出来事の意味に注目したいのです。ここでの「ぶどう酒」は、「私たちを喜ばせること」の象徴です。健康、財産、地位や名誉など、それが満たされると嬉しくなる、楽しくなることです。それは別な言い方をすれば、不足したときには不安になる、心配になる事柄です。
イエスさまの母マリアは、ぶどう酒が無いと婚礼は楽しくないと考え、不安になりました。母の心配に息子イエスは、「わたしとどんな関わりがあるか、時ではない…」と冷たい言葉で答えました。ところが、この直後にマリアは、「イエスの言う通りにしなさい」と召し使いらに命じます。すると“神の栄光”が顕れたのです。
●1月3日 週報巻頭言 山田 幸男