✣ 思い違いをしていませんか ✣
預言者エレミヤが活動した時代は、紀元前600年前後(今から2600年昔)です。出エジプト後、神さまの約束どおりカナンに定着したイスラエルの民は、士師記の時代を経て王国を設立し、ついに栄華を極めます。
ところが、世界中の人々から羨(うらや)まれる生活をするようになると、神の民は見事に堕落してしまう。ソロモン王の不信仰からイスラエル王国は南北に分裂(前928年、列王記上11-12章参照)。その後、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ(前722年)、南王国もバビロン帝国にエルサレム神殿を破壊され、陥落。バビロン捕囚へ(前587年)。
神の民が堕落するのは、試練の時よりも、むしろ順風満帆の時だと聖書は教えます。旧約聖書はイスラエル(神の民)の「栄枯盛衰の歴史」を通して、豊かな時代を生きる現代人へ大切なメッセージを伝えています。
今、私たちは“キリストの光”のもとで「エレミヤ書」を読んでいます。旧約聖書の信仰(十戒・律法主義…人は行いによって救われる)の限界を、この書は明らかにしています。一方、新約聖書の信仰(福音・信仰義認…神の愛を信じて救われる)に立つ私たちは、立場が違うと言いながら、「世」に心奪われ、ご利益主義化していませんか。“十字架の愛”は見えていますか。
●10月11日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 若者に過ぎないと言ってはならない ✣
聖書教育誌のカリキュラムに合わせて、今日から旧約聖書・エレミヤ書を学びます。学びの総合主題は『光に向かって』です。
私たち栗ヶ沢教会の今年度主題は、「御言葉に聞く〜信仰の基本に立つ」、年間聖句は詩編119:105【あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯】(讃美歌は新生131)です。…どうぞお忘れなく!2015年度の歩みを半分終えた今、改めて、この主題に立ち返りたいと思います。
キリスト者にとっての“光”。それは“御言葉(聖書のことば)”です。信仰の基本に立つには、聖書のことばを心にしっかり蓄えることが必要です。聖書教育誌の主題の『光』を“御言葉”と読みかえて、激動の時代(前600年頃の中東世界)のただ中で、“神のことば(御言葉)”に立ち、預言者であり続けたエレミヤの生涯に学びましょう。
素晴らしい働きをしたエレミヤも、神の呼びかけを初めて聞いたときには、「わたしは若者にすぎませんから」(エレミヤ1:7)と言って神の招きを断ろうとしました。これに対して神は、「若者にすぎないと言ってはならない」「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」(1:7-8)と答え、エレミヤ青年を戦乱のるつぼへ容赦なく投げ込みます。彼は受けなくてもよい試練まで受けて、後に「涙の預言者」と呼ばれます。しかし、この預言者の働き無しに、“神のことば(光)”が人々に届くことはなかったのです。
●10月4日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 喜びの幕屋 ✣
エジプトを脱出してから1年が過ぎようとしています。この間イスラエルの民は神様に導かれ養われながらも、繰り返し不平を口にし、不信仰をあらわにして、偶像の神・金の子牛を作りました。民が不信仰に陥った理由の一つは、導き手でおられる神様が目に見えないことへの不安によるものでした。具体的な形が見えない時、それが約束にせよ、先の見通しにせよ、私たちは不安になり、具体的に見える偶像に逃げたくなります。旧約の民、出エジプトの民の姿は、まさに現代を生きる私たちの姿なのです。
そして今、神様は幕屋建設をお命じになりました。目に見えなかった神様の場が具体的な形をとって現れようとしたとき、民は今までとは異なり、自ら進んで献げ物を手にしてやって来ました。民の喜びが溢れ出たのです。
新約の救いは、目に見えない抽象的なものではありません。イエス・キリストの「十字架」と「復活」という歴史的な出来事を通して、「罪の赦し」と「永遠の救い」が具体的な形で示されたのです。神の御子は、十字架によって幕屋の垂れ幕を引き裂き、私たちを神様の御前に立たせてくださいました。そして復活を通して、栄光の体、永遠の御国の継承を約束してくださいました。いま私たちは、この具体的な恵みの中を歩む特権を与えられています。私たちに求められているのはただ一つ。この恵みを感謝のうちに素直に受けることだけなのです。
●9月27日 週報巻頭言 教会員A
✣ 十戒再授与 ✣
イスラエルの民の背信行為(金の子牛事件)によって、“シナイ契約(十戒…モーセをとおして民に与えられた信仰者の行動基準)”は破棄されました。しかし、モーセの懸命な執り成しによって、神さまは民に災いを下すことを思い直し、これからも民と共に出エジプトの旅を続けてくださることになりました。そして、一度破棄した“契約”を再び結ぶとモーセに告げます(出エジプト記34:1)。
ここで注目したいのは、モーセの従順です。彼は、二枚の石板を切り取り、翌朝、神さまに命じられたとおりシナイ山に登りました。シナイの荒れ野に来てから四回目の登山です(19:3、19:20、24:12、34:2)。【モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった】(民数記12:3)とあるように、旧約聖書・出エジプトの物語の中で、モーセは特別な存在として描かれています。イスラエルの民にとって、“モーセ”は偉大な預言者、立派な指導者として、次世代へ語り継がれたのです。“モーセの祈り”だから、神さまは聞き入れ、“モーセが従順”だから、神さまは“シナイ契約(十戒)”を再び授与されたのです。
神さまは愛だから、お願いすれば何でも叶えてくれると考えるのは間違いです。現代人の祈りは“キリストの名(十字架)”によって神さまに受け入れられるのです。
●9月20日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 神に食い下がるモーセ ✣
モーセの冷静で適切な交渉(執り成しの祈り)によって、神さまはイスラエルの民を滅ぼし尽くすことを思い直されました。神さまはかつて民の先祖(族長・アブラハム、イサク、ヤコブ)に約束したとおり、カナンの地を与えるとモーセに告げます。先祖と神さまが交わした“アブラハム契約(土地を与える、子孫を増やす、民は祝福の礎となる)”は、神さまが無条件で与えたものです。途中で破棄されることはありません。
シナイ山でモーセが授かった“十戒(信仰者の行動基準)…シナイ契約”は、本来、神の民の祝福を保証するものでした。しかし、彼らの不信仰(約束を守らない)によって、無条件で与えられた“アブラハム契約”は雲がかってしまいます。神さまはモーセに、「民を約束の地へ導け。しかし、裁きの日に彼らをその罪のゆえに罰する」(出エジプト記32:34)「民がかたくななので、旅の途中で彼らを滅ぼしてしまうかもしれない。だから、民と一緒にいかない」(33:3)と告げます。一方、民には、「直ちに、身につけている飾りを取り去りなさい」(33:5)と悔い改めを強く求めます。民は飾りをはずして悔い改めを表します(33:6)。この後、神の人モーセは、神さまが民と共に行くように交渉。執り成しを成立させます。
●9月13日 週報巻頭言 山田 幸男