✣ 神の約束を信じる ✣
聖書が伝える“希望”。それは“キリストと共に生きる人生”です。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きる。それは理想に過ぎないと言う人もいます。それなら、現実に振り回されるだけの人生に満足できるのでしょうか。それで良いと言う人には、これ以上お話することはありません。しかし、“希望”を持ちたい人は、引き続き、牧師の話を聞いてください。
聖書が教える“豊かな人生”。それは、理想だけでも現実だけでもありません。理想と現実の両方を含みます。理想は理想として、現実は現実として、それぞれを見極める“知恵”を持つのです。そのために、聖書を繰り返し読み、聖書時代の人々が歴史に残した足跡を吟味して、そこに自分を重ねてみる。気づいた点があれば、それに学び、“知恵”を得て新しい歩みを始める。
謙遜に人の意見を聞く人は“解決”を得るといわれます。それなら、聖書(神の言葉)を謙虚に聞く人が“希望”を見出さない訳がありません。神の言葉に従って不幸になったという話は聖書にはありません。
聖書は、神に従う人が“祝福”される姿を伝えています。嬉しいことに、聖書は先に天へ召された方々との“再会の時”を約束しています。“再会”の鍵は、イエス・キリストを心に信じ、自分の口で公に「イエスは主なり」と告白すること。ここに、“本当の喜び”と“真実の希望”があります。
●11月6日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 勝利の幻を見た ✣
預言者エゼキエルは、バビロン帝国によって破壊されたエルサレム神殿が新設される幻を見ました(エゼ40:1-44:3)。彼は人々の不信仰(神に背を向けた歩み、偶像礼拝、不品行)のために神殿から離れた“神の栄光”が、将来再建される神殿へ、再び戻って来ると預言しました。
“神の栄光”とは、旧約聖書を理解する大切な概念です。旧約の世界では、神は自然現象(嵐、雷、火山噴火、恐るべき声)と関連して人々に接しています。モーセの時代、“神の栄光”は「威厳と力と祝福、聖別の恵み」によって“幕屋”を満たしました。
王国時代初期には、モーセの十戒を刻んだ石板を収納した“神の箱”の置かれた場所に“神の栄光”があるとされました。
ソロモン王の時代にエルサレム神殿が献堂されると、“神の箱”が奉納され、“神殿”が“神の栄光”の場所とされました。更に“神殿”で行われる“儀式”が“神の栄光”に結びつき、“神の栄光”と“礼拝(神の臨在)”は密接な関係を持つようになりました。
バビロン捕囚時代、預言者エゼキエルは“神の意志”を可視的幻として受け、捕囚下の人々に破壊された神殿が再建されること、必ずエルサレムへ帰還することを告げました。
ところが、エルサレム崩壊を嘆く当時の捕囚民にとって、預言者が語るメッセージは夢物語でしかなかった。現実に心を奪われて礼拝の恵みを忘れていたのです。
●10月30日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 主と共に生きる ✣
使徒パウロは、晩年、ローマ帝国に拘束されました。しかし、彼の内面は自由であり、伝道精神に満ち溢れていました。パウロは危機的状況にありながら、諸教会や個人へ手紙を書きました。「エフェソの信徒への手紙」「フィリピの信徒への手紙」「コロサイの信徒への手紙」「フィレモンへの手紙」は、その代表的なもので“獄中書簡”と呼ばれています。これらの手紙には、当時の人々が直面する諸問題への助言と励ましが記されています。
パウロの“獄中書簡”はキリストの体なる教会が正しく成長するための“処方箋”ともいわれています。そこには、今から二千年昔の初代教会にとどまらず、いつの時代にも共通する「教会の課題」が取り上げられており、この書簡を読む人々に、今も勇気を与えています。
きょう示された「フィリピの信徒への手紙」は、ヨーロッパに生まれた最初の教会へ宛てられた書簡です(使徒16章参照)。この手紙でパウロは何度も【喜びなさい】と語ります。喜べない状況が起きていたからです。その原因をパウロは、《あなた方がキリストへの【従順】と【救いの達成】(フィリピ2:12-13)をおろそかにしているからだ》と指摘します。「信仰の喜び」を取り戻すために、【キリストを模範とせよ(キリストに倣え)】と厳しく戒めます。キリストの愛、それは単なるセンチメンタルでも、安っぽいヒューマニズムでもない。それは人間の知識、感情、意志を超えた“神の深い憐れみ”です。“キリストの十字架”が、この“愛”を雄弁に語ります。
●10月23日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ イエスの眼差しをもって ✣
ドイツの哲学者のニーチェは、「あると思えば見える」という寸鉄人を刺す警句を残しました。物事の捉え方はすべての人に一律ではなく、それぞれの見方や固定観念に左右されるという意味です。それゆえにある人には見えるものが、ある人には見えないことがあるのです。要するに、私たちはどのような観点を持って生きているかが問われていると思われます。
聖書は、背の低いザアカイは大勢の人々に遮られ、イエスの姿を見ることができなかったため、窮余の一策としていちじく桑の木に登ることになったと言います。そして大勢の人々が彼の存在に気づいていない中、イエスは目を上げて「ザアカイ、降りてきてください」と彼を招かれたというのです。イエスと大勢の群衆との違いは何だったのでしょうか。
ザアカイは、お金持ちで徴税人の頭であっても、ユダヤの社会の中では「存在する非存在」でした。つまりザアカイはその社会に生きていても、周りの人々は彼を存在していないかのように扱っていたのです。しかしイエスは「存在する非存在」であるザアカイの存在をありのまま受け止めて、彼を招かれたのです。
「イエスの眼差しをもって」自分の周りを見渡すとき、これまで見えてこなかった「存在する非存在」がどれほど見えてくるのか、試してみてはいかがでしょうか。
●10月16日 週報巻頭言
秋の特別伝道礼拝 講師
✣ 神の怒りと憐れみ ✣
預言者エゼキエルは不思議な幻を見ました(エゼキエル書8章)。彼は突然、バビロンからエルサレムへ移されて、“神(ヤハウェ)の民”があらゆる場所で「偶像礼拝」を行う光景を目撃します。
神は幻のうちにエゼキエルに語りました。
【…人の子よ、見たか。ユダの家がここで数々の忌まわしいことを行っているのは些細なことであろうか。彼らはこの地を不法で満たした…慈しみの目を注ぐことも、憐みをかけることもしない。…わたしは彼らに聞きはしない。】(エゼキエル8:17-18)。
エルサレム神殿の北門に祭られた【激怒を招く像】(8:5)とは、カナン地方の「女神アシェラ(カナンの主神エルの妻で海の神。カナンの神々は自然の力を人格化したもの)の像」であったと言われています。【タンムズ神(乾季になると死んでしまう豊作の神)】(8:14)の死を嘆き、その甦りを、涙を流して祈る女たちは“神の民”。エルサレム神殿に仕える祭司らも、本来の務めを忘れ、【聖所を背にし…太陽を拝ん】(8:16)でエジプト帝国の支援に期待していました。
ここには「裁きを受ける神の民(バビロン帝国に抵抗する人々)」と「憐れみを受ける神の民(捕囚の屈辱に身を委ねた人々)」の対比が描かれています。後に、神の時が満ちてエルサレムへ帰還したのは捕囚の民。神の憐れみは絶望の中にあったのです。
●10月9日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男


