✣ 新しくなるために ✣
預言者エレミヤの時代(今から約2600年前)、南ユダ王国の人々(神の民)は、自分たちとは異なる宗教の「腐敗した儀式(我が子を焼いて奉献他)」(エレミヤ書19章参照)を受け入れ、本来の礼拝形態を変質させてしまいました。異なる宗教や思想を寛容に受けとめ、理解を示すことは大切です。が、当時の神の民は、安易な妥協によってミイラ取りがミイラになってしまったのです。
現代の私たちに、そのようなことはないでしょうか?
バビロン帝国の脅威に怯える南ユダ王国の人々は、希望の言葉を聞きたかったのに、エレミヤが伝えた預言は謎だらけでした。
「我々神の民は、神の審判(裁き)を受ける。その苦しみ(バビロン捕囚)によって“神の恵み(真の救い)”を見出すのだ。それから神と人との新しい関係が再創造される…。」
この預言はバビロン捕囚のあと、70年後に実現します(エレミヤ書29:10、歴代誌下36:20-23参照)。エルサレムへ帰還した人々は、神殿を再建、新しい国造りに励みます。解放された人々は、帰還直後は良かったのですが、時間経過と共に再び律法主義信仰(形骸化)へ戻ってしまう。神を第一にすると言いながら、心の中に古いもの(敵意、不和、利己心)を握っていたからです。
●11月15日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ それは偽りだ ✣
エレミヤが語る預言に対して、まったく逆の預言を語る者があらわれました。預言者ハナンヤです。彼はバビロン帝国のユダ王国支配に抵抗する勢力に加担して、「私たちの神ヤハウェは、圧倒的な力でバビロンへ連行された人々を2年以内に連れ戻す!」と、力強く預言しました。これを聞いたゼデキヤ王、神殿の祭司たち、民衆は大いに喜びました。しかし、神の言葉をまっすぐ伝える預言者エレミヤは異議を唱えます。
「ハナンヤよ、あなたの言う通りになればどんなに良いか。そうなって欲しいと私も思う。しかし、それは偽りだ!」
二人の預言者は人々の前で正反対の内容を語ります。ハナンヤは、バビロン捕囚の象徴としてエレミヤが首につけていた軛(くびき)を砕き、「神はこのようにバビロンを倒すのだ」と勇ましく語ります。自信に満ちた預言者に人々は拍手喝采します。
一方、神の人エレミヤはカリスマ預言者の前に語る言葉を失い、逃げるようにその場を立ち去りました。この預言者対決決着をつけたのは神ヤハウェご自身でした。悔い改めを忘れ、「安易な楽観主義」に浮かれた神の民を、神は厳しく断罪します。その後、エルサレム神殿は陥落、南王国は崩壊したと歴史は伝えています。
●11月8日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 死んだ骨の復活 ✣
きょうは「召天者記念礼拝」です。昨年もこの欄に記しましたが、教会では死者を「神さま」「仏さま」とみなして拝(おが)むことはありません。講壇の横に天の御国へ凱旋された方々の写真を並べてありますが、誤解のないようにお願いします。
では何故、「召天者記念礼拝」を行うか。理由は単純明快です。私たちよりも一足先に神さまのもとへ召された方々が、地上にいたときに大切にした“精神(Spirit)”を、ここで確認して、それを私たちが受け継ぐためです。それは、“信仰・希望・愛”です。
1)信仰 … 天地創造の主(神さま)がいつも共にいてくださることを
信じる心を持つ。
2)希望 … 神さまは私たちと共に働いて万事を益としてくださる
約束を忘れない。
3)愛 …… いつも喜び、常に祈り、感謝を忘れず、キリストのように
人を愛すること。
「死」には大きな特徴があります。時間経過と共に冷たくなり、硬直化する。やがて腐敗し、朽ち果てる。一方、「命(いのち)」の特徴は、時間経過と共に成長(変化)することです。「命(いのち)」のあるところには、必ず、ぬくもり(あたたかさ)があります。
私たちは、愛する人々を偲ぶだけでなく、彼らが大切にした“Spirit(信仰・希望・愛)”を受け継ぎたいのです。そして、「現実の世」を雄々しく強く生き抜くために、この礼拝で“復活の力”に与るのです。
●11月1日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 苦しみながらも ✣
先週行われた「秋の特別伝道礼拝」では、講師・播磨聡先生(広島教会牧師)ご自身の体験から、“神の力”は、今、私たちが生活しているこの場所にも“豊かに現われる”ことを教えられ、誠に感謝でした。
さて、今週から、再び旧約聖書エレミヤ書の学びに戻ります。今からおよそ2600年昔の中東世界に起きた“神の出来事”です。
預言者エレミヤは、偶像礼拝に心を奪われてしまったユダ王国の人々(神の選民)に神さまのメッセージを伝えます。古代イスラエル(旧約聖書の世界)では、預言者は“神の言葉”を取り次ぐだけでなく、その内容を象徴的に演じてみせることがありました。エレミヤは多くの人々が見ている前で陶器師が作った壺を砕きます。「神さまは、心をかたくなにしているあなたがたをこのように裁く」と伝えます(エレミヤ19章)。
ところが、人々(神の選民)はエレミヤの預言を受け入れません。エレミヤは神の御心に反することを語っていると非難され、逮捕、拘留されてしまう。神の言葉を語れば迫害される。それなら、何も語らず黙っていようとすれば、心の内から“熱い御言葉”が溢れて来る。預言者は混乱します。ついに、「わたしは疲れ果てました」(20:9)と、苦悩を神に告白します。
●10月25日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 破れ口に立って ✣
「自分は生きていて良いのだろうか」。絶望状況に押しつぶされた18歳の少年がつぶやいた呻き。不安や不信にさいなまれ、自信を失い、「生きていたい」という気持ちさえ分からなくなる。いったい、何を支えとしたら良いのか。本当に、生きるだけの価値が私にあるのか。この世は生きるだけの意味があるのか。
聖書には、「破れ口に立つ」という言葉がある。「破れ口」。この言葉はもともと、城壁に関する言葉である。敵が、町の城壁を取り囲み、攻めてきた時に、一番に突破されやすい城壁の弱い部分。そこを攻撃されると、城がすぐにも陥落してしまう守りの弱い部分。それを「破れ口」と呼んでいる。人間に例えれば、私にとって言い訳が出来ないような弱さや傷、そして罪のことである。一人ひとり、少し胸に手を当てれば、自分の「破れ口」がたくさんあることに気づく。誰かがその「破れ口」を突いてくると、もう何も言えなくなるようなそんな私たちの最も弱い部分、人間存在が破綻するところ。
私のその「破れ口」に立って、守って下さる方がいる。聖書が繰り返し語り続けているメッセージである。
●10月18日 週報より
秋の特別伝道礼拝講師 播磨 聡(日本バプテスト広島キリスト教会牧師)