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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-19 16:26:05 (927 ヒット)

✣ 御国への招待 ✣

    イエス様は、貧乏人や病人など律法を守れない弱者に福音を宣べ伝えておられました。そのため当時の指導者層から敵視されていたのです。ところがある時、驚くべき事件が発生しました。イエス様を敵視しているはずの指導者の一人が突然イエス様の前にひれ伏し、懇願して言ったのです。「私の娘がたった今死にました。しかしおいでになって、娘の上にあなたの手をおいてください。そうすれば娘は生きるでしょう。」この人は社会的地位も名誉も恥も外聞もかなぐり捨てて、愛娘のためにイエス様の御前に身を投げ出したのです。
    イエス様がその懇願に応えて歩みを進めている最中、またしても事件が発生しました。12年もの間、出血がとまらず、その汚れのため神殿で祈ることも許されず、病気治療のために全財産を使い果たしてしまった女性が、後ろから、そっとイエス様の衣に触れたのです。
    汚れた者が聖なる方に触れるなど、大変な冒涜でした。一方は高い権威と社会的な重責を負い、人々の尊敬を集める指導者。もう一方は社会的にも宗教的にも抹殺された女性。当時の常識からは大きく逸脱した二つの事件が一連の出来事としてまとめられるという、聖書の中でも特異な箇所です。
    しかもこの異常な出来事は、マタイ・マルコ・ルカの三福音書において、全く同じ構成で、記載者それぞれの視点から取り上げられており、この二つの事件の一貫性が強調されています。本日はこれら異常な出来事を通して私たちに語られている福音をご一緒に味わいたいと思います。

●1月22日 週報巻頭言 教会員A


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-12 18:45:18 (972 ヒット)

✣ 求めよ、探せ、門をたたけ ✣

    イエスさまは、弟子たちに、集まって来た人々に、このように教えました。
    【人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい】(マタイ7:12)。
    これは“黄金律(Golden Rule)”と呼ばれ、キリスト教倫理の原則として広く知られています。私(イエス)がここにいる。だからあなたがたは、人からして欲しいと思うことを自分から率先して行え、というのです。
    これに対して、「孔子の教えにも『自分がして欲しくないことは、人にするな』とある。イエスも同じことを言ったに過ぎない」と言う人もいます。
    さて、“黄金律”と『孔子の教え』は、同じことを言っているのでしょうか?
    私は、まったく違うと思います。孔子の教えは、人として、当たり前のことです。でもその当たり前が、当たり前に出来ない。それが人間の現実です。しかし少し我慢するか、ここが踏ん張り所と腹を据え、歯をくいしばって頑張れば、出来ないことはありません。
    ところが、“黄金律”は“イエスさまの十字架と復活”を土台とする“福音(喜びの訪れ)”です。“聖霊の力”によって実現されます。
    イエスさまを信じて、イエスさまに従い、イエスさまと共に生きる人が体験する幸い、それが“黄金律”です。“I am OK, You are OK”という新しい世界が始まるのです。

●1月15日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-05 19:48:24 (1096 ヒット)

✣ あなたがたは幸いである ✣

    キリストの十字架に目を向けると、見えて来るものがあります。神に従う“ひたむきな姿勢”、小さい者を尊ぶ“濁りのない愛”、更に神の子が低い所へ降る“気高い精神”です。
    キリストに従うとき、私たちは「罪人」でありながら、十字架の“絶対恩寵”によって“義なる人”とみなされます。ここでいう“義”とは、「神の小羊なるキリスト」と共にある「我」を意味します。“義なる人”には、見分ける知恵が神から与えられます。
    例えば、お金で「家」は買えても“家庭”は買えない、「薬」は買えても“健康”は買えない、「地位や名誉」と“尊敬されること”は別物だということをしっかり見分けます。
    見分ける知恵が働くと、自分の足元にある「偽(ニセモノ)・ギ」を“義(ホンモノ)・ギ”に変える選び取をします。この選択には必ず試練が伴います。そこで“義なる人”は、祈らずにはいられなくなり、「主よ、助けてください…我を憐れみたまえ…」と、一所懸命、祈り始めます。これが《義に飢え渇く人々》の姿です。キリストは、《幸いだ…その人たちは満たされる》(マタイ5:6)と、力強く語りました。
    他者はどうあれ、「私は“神の義”を選ぶ」という人を神は放っておきません。《幸い》はその人のものです。なぜなら、キリストが来て下さるから 約束された《幸い》は時空を超えて“義なる人”を満たします。

●1月8日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-30 15:50:06 (1109 ヒット)

✣ イエス、洗礼を受ける ✣

    2017年元日は“日曜日”です。教会で礼拝が行われる日です。まず礼拝をささげる、それから行動へ。これはキリスト者の生活の基本です。今年、神さまはカレンダーの並びを用いて人々を“祝福”へ招いているかのようです。“祝福”への招きといえば、バプテスマ(洗礼)は、「罪人」が神さまから受ける“最高の賜物”です。イエスさまも洗礼者ヨハネからバプテスマを受けました。ヨハネが“悔い改めへの招き”のバプテスマを行っていると、そこへイエスさまが来て、自分も受けたいと申し出ます。ヨハネは当惑します。なぜなら、ヨハネのバプテスマは罪に汚れた人へのものであり、イエスさまは受ける必要がないと考えたからです。ヨハネは、むしろ自分の方がイエスさまからバプテスマを受けるべき「罪人」だと思ったほどでした。
    イエスさまはヨハネからバプテスマを受けるに際して、【今は止めないで欲しい…我々にふさわしいことです】(マタイ3:15)と語りました。このバプテスマには、救いを必要とする人々と“イエスさまが連帯する”という意味があります。イエスさまは、ヨハネからバプテスマを受けることで、ご自分から「罪人」へ歩み寄られたのです。
    バプテスマ(洗礼)を受ける。それは、一人の「罪人」が“イエスと連帯した”ことを意味します。十字架を負ってキリストに従う歩みが、ここから始まるのです。 

●1月1日 新年・元旦礼拝 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-22 18:04:23 (1168 ヒット)

✣ 異邦人のクリスマス ✣

    新約聖書によると、世界で最初のクリスマスをお祝いしたのは、マリアとヨセフ、貧しい羊飼いたち、そして東方の博士たちでした。博士たちのことは、【占星術の学者たち】(マタイ2:1)と紹介されています。彼らはユダヤの民(選民)ではありません。異邦人(ペルシャ人の祭司・偶像礼拝者)です。彼らは、哲学、薬学、宇宙科学に精通する当時のスペシャリストで、マギ(学者)と呼ばれ、人々から尊敬されていました。
    彼らがベツレヘムの家畜小屋で“幼子イエスさま”にお会いしたとき、宝の箱から高価な品物を三つ献げたので、「三人の博士」というのが通説になりました。
    「三人の博士」は、東の国で偶像の神々を拝み、星占いをしていました。ユダヤの民からみればとんでもない人々です。ところが、そんな彼らも“救い主(メシア)の到来”を待望していたのです。輝く星に導かれてユダヤ地方へ来た彼らは、宮殿を訪ねヘロデ王と謁見します。
    そのとき、ユダヤの宗教指導者たちが「救い主はベツレヘムに生まれると預言者が書いている」と、自慢げに知識を披露しました。
    しかし宗教家は捜さない。無関心でした。
    一方、異邦人である「三人の博士」は“救い主”を熱心に捜し求め、飼い葉桶に眠る“幼子”を見つけます。こうして、異邦人も最初のクリスマスの光に包まれたのです。

●12月25日 クリスマス礼拝 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


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