✣ イエスの愛にとどまる ✣
聖書は、神さまを信じてまっすぐ歩めば豊かに実を結ぶと告げています。しかし、私たちの現実は、そう甘くはありません。神さまを信じていても苦労や悩みは絶えません。信仰があるばかりに、普通の人なら気にしないことで悩んだりもします。どうすれば豊かな実を結べるのでしょうか?
イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちに「ぶどうの木の譬え」から教えました。翌日、イエスさまは十字架で殺される定めになっていました。限られた時間の中で、イエスさまは、弟子たちがこの先、どのように歩めばよいかを丁寧に諭しました。
《わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。》(ヨハネ15:4)。
イエスさまの弟子にとって一番大切なことは、嬉しいときばかりでなく、悲しいときも、苦しいときも、いつもイエスさまにつがなっていることです。
ところが、その大切なつながりを、自ら断ち切った弟子がいました。ユダです。ユダの裏切りについては、多くの憶測があります。他の弟子たちも裏切って逃げました。しかし、他の弟子たちはイエスの十字架を見て、戻って来たのです。
●2月28日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 弟子の足を洗う ✣
イエス様が十字架にはりつけにされて殺される前の晩の夕食時のことです。イエス様は突然食卓を立たれ、弟子たちの足を洗い始めました。当時、人の足を洗うのは奴隷の仕事であり、誇り高いユダヤの民が最も忌み嫌う仕事でした。弟子たちは大いに驚き、その筆頭であるペテロは「私の足など、永遠に、決して洗わないで下さい」と叫びました。それほど衝撃的な出来事だったのです。
イエス様のこの行為が、単に謙遜と友愛を倫理的・道徳的に教えるだけのものなら、ペテロのこの発言をもって、弟子たちにその意図は十分に伝わったはずです。しかし、イエス様は「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる」とおっしゃいました。そして、ペテロの足を洗い、すべての弟子の足を洗われたのです。
この物語には、イエス様が私たち一人一人と向き合い、一人一人のために最も低いところまで降られるという、十字架に向かわれる御子にしかおできにならない、大切な意味が込められています。イエス様は、私たち一人一人と向き合い、重荷を負い、罪を贖い、私たち一人一人を永遠のいのちへと導いてくださるのです。その御恵みをヨハネ福音書からじっくりと味わって参りましょう。
●2月21日 週報巻頭言 教会員A
✣ 一粒の麦イエス ✣
教会暦によると今年のレント(受難節)は2/10(水)-3/26(土)です。イースター(復活祭)は3/27(日)。教会暦を採用する教派では、イースター前6週間(日曜日を除く40日)を“悔い改め”をあらわす時としています。
クリスマス(キリスト降誕祭)はクリスチャンが少ない日本でも定着していますが、イースターは定着しているとはいえません。クリスマス前のアドベント(待降節)の期間がクリスマスの雰囲気を盛り上げるように、レント(受難節)の意味を人々に理解してもらい、雰囲気を盛り上げることが出来たらイースターも日本に定着するのでは…と私は考えています。そこで期待されるのはクリスチャンの働きです。イースターの本家クリスチャンがレントを何となく過ごしているようでは論外です。今年のイースターを「普通の日曜日」にしないために、レントの過ごし方を工夫して欲しいのです。
レントのテーマは“悔い改め”です。それは『魂の調律』をすることです。ピアノもギターも、正しい音を奏(かな)でるには調律が不可欠です。オーケストラは演奏前に必ず“音合わせ”をします。
私たちは、このレントの季節に聖書の“キリスト受難物語”を読み直して、『魂の調律』をするのです。楽器が絶対音階によって調律されるように、私たちも『一粒の麦イエス(神の絶対恩寵)』に触れることによって、心も体も魂も癒されるのです。
●2月14日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 死で終わらない ✣
イエスさまは、ベタニヤで病死したラザロを復活させました。ヨハネ福音書に記された第七番目の“しるし(奇跡)”です。エルサレム入場(受難週)直前の出来事であり、伝統的解釈によると、これは“イエスのメシア性を証明する奇跡”とされています。
病死したラザロが墓の中から出て来た(ヨハネ11:44)、これを《目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた》(11:45)とあります。イエスさまが“しるし(奇跡)”を行うと、目撃した人々の間に二つの反応が起きました。信じる人と信じない人があらわれたのです。
当時、民衆は宗教指導者から、「復活はメシアだけが行える奇跡である」と教えられていました。そういうわけで、ラザロ復活の目撃者の多くは、イエスさまこそ旧約聖書に預言された“メシア(救い主)”であると素直に認め、信じたのです。
一方、イエスさまをメシアと認めないユダヤ人もいました。信じない人々はエルサレムにいる宗教指導者たちの所へ行き、一部始終を報告しました。彼らの内面には、邪悪な心、反抗心、傲慢な思いなど、心の歪(ゆが)みがありました。これが信じる心を妨げていたのです。それは心の入り口に「墓石」が置かれた状態にたとえることが出来ます。「石」がある間、神の言葉は“光”を放てません。
聖書は、人々が「石」を取りのけるとイエスさまの言葉が“力”を発揮し、死人が復活したと伝えています(11:38‐44)。
●2月7日 週報巻頭言 山田 幸男
✣ 見えなかったが、今は見える ✣
旧約聖書イザヤ書のメシア預言には、《見ることの出来ない目を開き》(イザヤ42:7)とあります。イエスさまは目の見えない多くの人々の目を開き、見えるようにしました。《わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ》(ヨハネ8:12)と語ったイエスさまこそ、旧約聖書のメシア預言を成就したお方であるとヨハネ福音書は告げています。
きょうは、ある盲人がイエスさまに癒された話です(ヨハネ9:1-12)。当時、目の見えない人は他者の憐れみに頼る他に生きる道はなかった。物乞いする人にとって、神殿に近い場所は、最も収入を得られる場所のようでした。弟子たちは盲人を見て、「この人の目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか」とイエスさまに尋ねました。当時の人々は病や苦難の原因は罪にあると考えていたからです。この問にイエスさまは、「本人が罪を犯したのでも両親でもない。神のわざがこの人に現われるためである」と答えた。
誤解しないでください。特定の病や試練が罪の結果でないのは勿論のことですが、生まれつき盲人であることが神の栄光だという訳でもありません。病も試練も喜びも、すべては神の御手にあるという意味です。
イエスさまの言葉を信じて従う。ここに神のわざが現れるのです。
●1月31日 週報巻頭言 山田 幸男