✣ 輝く時が来るまで ✣
きょうから待降節(アドベント)に入ります。待降節第一週は「世界バプテスト祈祷週間」です。日本国内のみならず、世界中のバプテスト教会の女性会が中心となり、世界伝道のために祈り、献金をささげるときです(期間は11月最終日曜日から12月最初の日曜日まで)。この運動は19世紀後半に、中国伝道のために生涯をささげた米国南部バプテストの女性宣教師ロティ―・ムーンに由来します。彼女の伝道への情熱は、「世界バプテスト祈祷週間」に今も息づいています。日本バプテスト連盟は、かつて、南部バプテストからの多大な支援を得て全国への伝道を推進しました。私たちの教会も、その支援を受けて、この地に伝道の基礎(土地と最初の会堂)を据えました。
大きな支援を受けた私たちは、【受けるよりは与える方が幸いである】(使徒20:35)を心に刻み、この待降節に伝道の情熱を再び燃え立たせたいのです。以下の三点に注目して、伝道スピリットを熱くしましょう。
1)視野を広げる 〜 世界(外)に目を向ける。関心を持つ。知らなかったことを知る。
2)他者のために祈る 〜 自分のことだけでなく、厳しい状況にある人々をとりなす。
3)愛をあらわす 〜 主イエスは【神と人とを愛せよ】と教えました。
●11月27日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 希望・それは生きる力 ✣
荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。このようにして、主の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。主の御口が語られたからだ。」
あなたの道は整えられているでしょうか。谷底のように心が沈んではいないでしょうか。劣等感、自己憐憫、罪悪感、敗北感といった谷は埋められなければなりません。また、山や丘のような高くはなっていませんか。プライドや傲慢といった山や丘があれば削られて低くされなければなりません。障害物は取り除かれ、でこぼこ道は平らに整えなければならないのです。
今から2000年前に来られた主イエスは再び来られると言われました。その主が再び来られる前に、私たちは荒野の声となって、私達自身は勿論、世界の人々にその道を整えるように叫ばなければなりません。
●11月20日 週報巻頭言 教会員 吐田 敏宏
✣ 真の神、他になし ✣
ダニエル書3章はバビロン帝国の王ネブカドネツァル(在位・前605-562)に仕えたユダヤの三人の若者への「宗教迫害と奇跡的救出」の物語です。
ネブカドネツァル王は「巨大な金の像(高さ27m)」を造り、これにひれ伏して拝むよう国民に命じます。ひれ伏さない者は「燃え盛る炉」に投げ込むと宣言しました。バビロン帝国下の人々は、王を恐れて、だれもが「金の像」を拝みました。
ところが、王に仕えるユダヤの三人の若者は「金の像」を拝まなかったので、カルデア人(バビロンの人々)は、ユダヤ人が厚遇されていることへの妬みもあり、三人の若者が王の命令を無視していると密告します。王は事実を確かめた上、三人に改めて「金の像」を拝むよう命じました。
若者たちは答えました。
「私たちの仕える神(ヤハウェ)は、燃え盛る炉からも、王の強引な命令からも、私たちを救い出すことが出来ます。たとえそうでなくても、王よ、私たちは金の像を拝みません。」
ユダヤの若者らは、バビロン王の命令をきっぱり断りました。王は激怒し、彼らは「燃え盛る炉」へ投げ込まれた。「炉」の中で、三人は神(ヤハウェ)に祈りました。すると天の御使いがあらわれ、彼らを燃え盛る火から守ります。三人は燃え盛る火の中で、神(ヤハウェ)を讃美しました。
ここには、“祈りと讃美”があるところに“キリスト”が来て、試練から守り、神の栄光へ導くという“励ましのメッセージ”があります。無傷で生還した若者を見たバビロン王は、驚き、彼らの“神(ヤハウェ)礼拝”を公認したのです。
●11月13日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 神の約束を信じる ✣
聖書が伝える“希望”。それは“キリストと共に生きる人生”です。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きる。それは理想に過ぎないと言う人もいます。それなら、現実に振り回されるだけの人生に満足できるのでしょうか。それで良いと言う人には、これ以上お話することはありません。しかし、“希望”を持ちたい人は、引き続き、牧師の話を聞いてください。
聖書が教える“豊かな人生”。それは、理想だけでも現実だけでもありません。理想と現実の両方を含みます。理想は理想として、現実は現実として、それぞれを見極める“知恵”を持つのです。そのために、聖書を繰り返し読み、聖書時代の人々が歴史に残した足跡を吟味して、そこに自分を重ねてみる。気づいた点があれば、それに学び、“知恵”を得て新しい歩みを始める。
謙遜に人の意見を聞く人は“解決”を得るといわれます。それなら、聖書(神の言葉)を謙虚に聞く人が“希望”を見出さない訳がありません。神の言葉に従って不幸になったという話は聖書にはありません。
聖書は、神に従う人が“祝福”される姿を伝えています。嬉しいことに、聖書は先に天へ召された方々との“再会の時”を約束しています。“再会”の鍵は、イエス・キリストを心に信じ、自分の口で公に「イエスは主なり」と告白すること。ここに、“本当の喜び”と“真実の希望”があります。
●11月6日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 勝利の幻を見た ✣
預言者エゼキエルは、バビロン帝国によって破壊されたエルサレム神殿が新設される幻を見ました(エゼ40:1-44:3)。彼は人々の不信仰(神に背を向けた歩み、偶像礼拝、不品行)のために神殿から離れた“神の栄光”が、将来再建される神殿へ、再び戻って来ると預言しました。
“神の栄光”とは、旧約聖書を理解する大切な概念です。旧約の世界では、神は自然現象(嵐、雷、火山噴火、恐るべき声)と関連して人々に接しています。モーセの時代、“神の栄光”は「威厳と力と祝福、聖別の恵み」によって“幕屋”を満たしました。
王国時代初期には、モーセの十戒を刻んだ石板を収納した“神の箱”の置かれた場所に“神の栄光”があるとされました。
ソロモン王の時代にエルサレム神殿が献堂されると、“神の箱”が奉納され、“神殿”が“神の栄光”の場所とされました。更に“神殿”で行われる“儀式”が“神の栄光”に結びつき、“神の栄光”と“礼拝(神の臨在)”は密接な関係を持つようになりました。
バビロン捕囚時代、預言者エゼキエルは“神の意志”を可視的幻として受け、捕囚下の人々に破壊された神殿が再建されること、必ずエルサレムへ帰還することを告げました。
ところが、エルサレム崩壊を嘆く当時の捕囚民にとって、預言者が語るメッセージは夢物語でしかなかった。現実に心を奪われて礼拝の恵みを忘れていたのです。
●10月30日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男