✣ 賛美と祈り〜福音の道を歩こう ✣
古代社会では農作物を収穫したとき、喜びの「祭儀」を行いました。また、愛する人の死に直面したときは「葬儀」を行い、人々は悲しみを天に向けて祈りました。
もし理性で宗教を定義するなら、「宗教とはある特定の人々に共通する思想や感情から発生したところの教義に促される行動の形態である」と言えるでしょうか。どんな宗教にも、それを選び取る人々の“信仰心”や“祈りの対象”が存在します。そして、“芸術(音楽や美術)”も、古来、宗教と深い関係があり、密接に結びついているのは不思議な現実です。現代人によく知られている“芸術作品”の多くは、実際、作者の“信仰心”を反映しています。それを理解出来れば音楽や美術作品の“真髄”に触れることが出来るでしょう。
例えば作曲家バッハは、数々のカンタータ(声楽曲)を残しました。それはキリスト者としてのバッハの“信仰告白”です。キリストを信じる幸いを世に伝えると共に、バッハのキリストへの思いが表現されています。
キリスト教の礼拝では“聖書(御言葉)・祈り・讃美歌”が一体となっています。人々は礼拝に参加することによって“キリストに触れる体験”をします。キリストに触れた人々は、賛美と祈りにより、あらゆる違いを超えて一つとされ、聖書が約束する“天国”を見える形であらわします。礼拝は、堅苦しい宗教の儀式ではなく、人間が持つ霊性と理性が調和する至福のときなのです。
●6月12日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 神に選ばれた人 ✣
旧約聖書には、新約聖書に無い面白さがあります。その一つは単純素朴な信仰です。あまりにも単純すぎて聡明な人には物足りないかもしれません。しかし、単純で素朴な信仰の物語こそが、私たち現代人が忘れれている“何か”を思い起こさせてくれるのです。
きょうの聖書(サムエル上16章)は預言者サムエルが少年ダビデに“油”を注いだ物語です。“油”を注がれるのは、旧約聖書の世界では神に選ばれた“しるし”です。ダビデには7人の兄がいました。なぜ、神さまは立派に成長した兄たちではなく、未熟な末っ子のダビデに目をとめたのでしょうか?
聖書の中に答えがあります。
【…主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな…人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」】(16:7)。
【心によって見る】とは、神さまに対して、心底へりくだり、本当に従順になれるのか、そこを見るというのです。
先代のサウル王は、神さまの命令で王位から退けられました。彼は当初、神さまに従順でしたが、次第に傲慢になり、自分を誇り、勝手に振る舞う人になっていました。一方、若くて未熟なダビデは神さまに聞かなければ何も出来ません。ダビデの信仰姿勢は生涯を通して一貫していました。良い時も悪い時も、御言葉に聞く。
●6月5日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 真実の言葉 ✣
ついに聖書66巻の最終章に入りました。この世の苦しみは過ぎ去りました。もはや死はなく、悲しみも嘆きも苦しみもありません。創世記に始まった罪の歴史はここに終わりました。この世の王、罪の王、死の王サタンは永久の業火に投げ込まれ、神様の新天新地が現れました。神様は私たちと共に住まわれ、御自ら私たちの涙をぬぐい去ってくださいます。
神様は、「これらの言葉 は、『真実』であり、『信頼できる』(黙示録22章6節)」と約束されていますが、黙示録の中で、この『真実(ἀληθινός)』という言葉は10回、『信頼できる・真実の(πιστός)』という言葉は8回も使われています。また黙示録1章3節に「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いてその中に書かれていることを守る人々は『幸い』である」とあります。この『幸い(μακάριος)』という言葉は7回も繰り返されています。
いま、神様は「真実であり信頼できる御言葉」をもって御国の成就を示し、「その幸い」にあずかるための門を私たちに開いてくださいました。神様のひとり子イエス・キリストは真実であり信頼できる御言葉をもって、こう宣言されます。「わたしは門である(ヨハネによる福音書10章9節)」さあ、今こそこの門をくぐり、恵みの御国に入ろうではありませんか。
●5月29日 週報巻頭言 教会員A
✣ すると天から火が下った ✣
『ヨハネの黙示録』はアジア地方(現在のトルコ西部)にある「七つの教会」宛に送られたものです。各教会で朗読するように意図されました。今から二千年昔、ローマ帝国によるキリスト教徒迫害の渦中にあった人々は、謎めいた象徴的物語から、どんな“福音(喜びの知らせ)”を読み取ったのでしょうか。
黙示録20章は、いわゆる「千年王国」と「最後の審判」を伝えています。天使は、人々を苦しめた「悪魔」を底なしの淵へ閉じ込め、【千年が終わるまで…諸国の民を惑わさないようにした】(1-3節)。そのとき、イエスに従った殉教者たちは、復活して神の祭司となり、千年の間、イエスと共に統治する(4-5節)。そして、千年が満ちたとき「悪魔」は再び暴れるが、ついに神の「最後の審判」が実行されて、「悪魔」と「死者たち」は、【彼らの行いに応じて裁かれ…火の池に投げ込まれた】(11-15節)。最後の描写は凄惨です。
一体、この話のどこに“福音(喜びの知らせ)”を聞いたのでしょう? 「七つの教会」の人々は確かに神のメッセージを受け取っていました。…今は、まだ夜が明けていないが、既に夜明けの星(キリスト)は輝いている。今こそ、神の勝利を先取りして試練に立ち向かうのだ…。彼らは、【すると、天から…】(9節)を聞き逃さなかった。ここに“光”を見たのです。
●5月22日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 霊性と理性とによって ✣
信仰があるからといって、祈っておけばすべてが上手く行くわけではありません。信仰があっても、冬になれば寒さに震えるし、夏は暑さに閉口します。人から何か言われれば腹も立つ。褒められたら嬉しい。信仰があっても、怒るときは怒るし、泣くときは泣きます。でも信仰があれば、それだけに囚われることはありません。信仰があると、“天の知恵(神の計画)”に気づくことが出来ます。
『ヨハネの黙示録』は、今から二千年昔、ローマ帝国下で激しい迫害の渦中にあったキリスト者に対して書かれたものです。彼らは試練の中で『黙示録』を読みました。謎めいた文書から“主は再び来る(キリスト再臨)”を読み取り、勝利が約束されていることを知り、心を励まされたのです。彼らは今の試練が神の勝利へつながっていると受けとめました。「この試練は勝利の前兆」と考えたのです。これが“天の知恵”です。
『キリスト教信仰は、主の再臨に焦点を合わせていくものであって、今どういうふうに生きていくかは、結果として生まれて来るものである。結果と目的を間違えてはならない。…問題が起きたときに、なお、そこで神を賛美できるところに、キリスト信者の信仰の力、証しがあると思う。』(榎本保郎著「新約聖書一日一章」574頁)【神を礼拝せよ】(黙19:10)
●5月15日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男