✣ 十字架上のキリスト ✣
その頃、ユダヤの人々はローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国をひっくり返してイスラエルの国を復興したいと誰もが願っていました。遠い昔に預言者たちが告知した“メシア(救い主)”が現われ、ユダヤの民を勝利へ導く…。人々の“メシア”待望の気運は、日に日に高まっていました。
そこに登場したのが“ナザレ人イエス”です。
ところが、彼は人々の期待とは違う方向へ進みます。目指すところは力ずくで支配者をねじ伏せる社会改革ではなく、かつてユダヤの預言者たちに啓示された“神の御心”を貫徹する道でした。罪の悔い改めと赦しの宣言、心・体・魂の癒しと愛の実践です。
12弟子の一人イスカリオテのユダは、“ナザレ人イエス”が目指すこの道に絶望し離れて行きました。
【…人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ…】(ヨハネ12:23-24)。
“ナザレ人イエス”は十字架の道を進みます。素っ裸にされて、両手両足を太い釘で打ち抜かれ、十字架に磔(はりつけ)にされる。その十字架が二人の強盗の真ん中に立つ。これは神が永遠に罪人と共に在るしるし。十字架は終わりではなく、新しい世界の入り口です。メシア・イエスは三日後に復活します。
●4月9日 受難週 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ ゲッセマネで祈る ✣
“最後の晩餐”のあと、イエスさまは弟子たちを連れて祈るためにオリーブ山の麓、ゲッセマネの園へ向かいます。そこでイエスさまは、悲しみもだえながら祈りました(マタイ26:37)。“そのとき(十字架)”は翌朝に迫っていました。
12弟子の一人ユダは、銀30枚と引替えにイエスさまの居場所を当局へ密告。ユダヤの宗教指導者たちをゲッセマネへ先導します。
このとき、イエスさまを裏切った弟子はユダだけではありません。イエスさまと一緒にゲッセマネへ向かった弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、必死に祈るイエスさまの背後で眠っていました。イエスさまが当局に逮捕されるときには、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。
“最後の晩餐”の直後に、イエスさまは弟子たちのつまずきを予告していました(マタイ26:31)。そのときペトロは、【…「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません…あなたのことを知らないなどとは決して申しません」…】(マタイ26:33)と勇ましく語りました。他の弟子たちも皆、「つまずかない」と主張しました。
【…心は燃えても、肉体は弱い】(26:41)。
イエスさまは、すべてお見通しでした。弟子たちが居眠りすることも、逃げ出すことも、そして裏切ることも…。それを分かった上で、それでも尚、弟子たちを【友よ】(26:50)と呼びました。言行不一致のダメ弟子に対して、イエスさまは「お前たちなど知らない!」とは言わなかった。「知らない」と言ったのは、イエスさまではなく弟子たちでした。その弟子たちが後に“新生”します。
●4月2日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 最後の晩さん、…そのとき ✣
福音書はイエスさまの12弟子の一人ユダの裏切りを伝えています(マタイ26:14-16、21-25)。
ユダの裏切りは四つの福音書が取り上げています。イースター(復活祭、今年は4/16)前“レント(受難節)”の季節には、避けて通れないキリスト受難物語の一コマです。
なぜ、ユダはイエスさまを裏切ったのか?
ユダの裏切りについて、福音書は【…ユダの中にサタンが入った…】(ルカ22:3、ヨハネ13:27)と伝えています。サタンは“神の働き”を妨害します。“神に従う人”を神から引き離そうとします。その人の弱点を巧みに突いてくる。ユダもサタンに弱点を突かれたようです。
福音書が伝えるユダに関する情報から以下のことが推測されます。
1)お金に目がくらんだ(金銭欲)
ユダは会計係を任されていました。【…彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた…】(ヨハネ12:6)と福音書は伝えています。
2)思い通りにならない苛立ち(イエスに失望)
ユダは熱心党に所属、政治的活動を行っていたようです。革命家としてのメシア(救い主)を期待したものの、イエスさまは武力を否定、祈りを強調します。彼はこの現実に失望。
3)隙を突かれた(油断した)
過越祭用の小羊を受け取りに行ったユダは、祭司らにイエスの弟子であることを見抜かれ、結果として裏切ることになってしまった。ユダは悲劇の弟子である…とする説。
いずれにせよ、ユダは最後の晩さんの席から夜の闇に消えて行きました。
●3月26日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 目を覚ましていなさい ✣
旧約聖書は神を信じる人々(イスラエルの民)の歴史を記しています。そこには一つの類型が読み取れます。イスラエルの民は「不信仰」に陥ると、悔い改めて“信仰”へ立ち返り、神は民を憐れみ、祝福します。これがしばらく続くと、民は“神への感謝”を疎かにして、人の知恵や世の富に心を奪われ「世俗化」する。“ヤハウェ礼拝”よりも「この世」のことに熱心になり、「偶像礼拝(ご利益)」に走る。
すると、優れた知恵や力を持つ民族(異邦人)が攻めて来て、民は打ちのめされる。民は「不信仰」を悔い改める。神は再び憐れむ。民は再度立ち上がる。この繰り返しです。
新約聖書の時代に入り、この堂々巡りを断ち切る知恵が与えられます。『「十人のおとめ」のたとえ』(マタイ25:1-13)は、“小さなともし火(信仰の光)”を消さないように強く戒めています。十字架のときを目前にしたイエスさまは、弟子たちに【目を覚ましていなさい】(マタイ25:13)と繰り返し命じました。しかし弟子たちは、ゲッセマネの園で、必死に祈るイエスさまの近くにいながら眠ってしまうのです。
この話の背後には、“再び来る”と約束して昇天したイエスさま(使徒1章)が、いつまで待っても“再臨”しない「初代教会の苦悩」が隠れているとも言われます。“キリスト再臨”はいつなのか? それは誰にも分かりません。
しかし、今、分からなくても、“神の約束”は必ず成就します。だからこそ、イエスさまを信じた者は、油の用意を怠る【愚かなおとめ】(マタイ25:8)のようであってはならない。
堂々巡りを断ち切るために。
●3月19日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 主がお入り用なのです ✣
エルサレムの近くで、イエスさまは弟子たちに命じました。【…向こうの村へ行きなさい。…ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。…わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる】(マタイ21:2-3)。
『主がお入り用なのです』。心に響きます。
ある人が、「教会で何かを人に頼むときに使える“フレーズ”だ」と言いました。
『主がお入り用なのです』は、聖書を読み始めたばかりの人、信仰初心者、なまくらな信仰の人には殆ど無力な言葉ですが、聖書をよく読んでいる人、いつも熱心に奉仕する人にはテキメンです。その人は、「依頼された事柄は、主の御心かもしれない」と考えて、真剣に祈り始めます。そして、神と人に喜ばれると確信したら、喜んで引き受けてくれます。
もし引き受けられないときには、ただ「お断りします」で終わりません。より良い方法を一緒に考えたり、相応しい助け手を紹介するなどして、必ず力になってくれます。
聖書によると、イエスさまはエルサレム入場に際し無価値と見下された“ろば”を選びました。なぜ、「勇ましい馬」に乗らなかったのか?
その答えは旧約聖書の預言者の言葉にあります(ゼカリヤ9:9-10)。当時の人々には、馬は「戦争」を連想させる家畜であり、“ろば”は「平和な日常」を思わせる家畜でした。
“救い主(メシア)”が働くとき、立派な軍馬ではなく、素朴で不格好な“ろば”が必要です。“ろば”は、あなたです。
●3月12日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男