✣ 祈りの決戦 ✣
『…いつの時代にも権力者は従順な者を賞揚(しょうよう:ほめたたえること)し、批判者を迫害する。神の民が、地の塩、世の光として生きて行こうとすれば迫害を恐れてはならない。…主にある一人の兄弟から便りをもらった…その文中に、戦時中ある有力な牧師が教会の集会で国防献金を強調したので、「聖書のキリスト教はいずこにありや」と正したとき、「貴下の申されるようなこと、壁に耳あり…発言に注意ありたし。教会の迷惑千万」と言われたと記されていた。…神の言葉を大胆に語り、世に向かって、非を非と指摘することの難しさを感じさせられる一文である。預言者の道は決して栄光や称賛の道ではない。…』〜榎本保郎著「旧約聖書一日一章337頁」
預言者エリヤはカルメル山でバアル神の預言者450人に対して、ただ一人で立ち向かう。そこにいた人々は神の民なのに、神(ヤハウエ)に期待せず、バアル神に心奪われていた。そこでエリヤは〈祈りの戦い〉を始める前に、【壊された祭壇を修復した】(列王上18:30)。
これは自分の生活を吟味して、神の方へ向き直る(祈りの姿勢を整える)ことを意味する。預言者エリヤに力を与えた神は、今も同じように私たちを勝利へ導く。御言葉に従うとき味わう幸いがある。
●8月21日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 今、時のあるうちに ✣
「平和」という言葉が、今、あちこちから聞こえて来ます。私たちの国、日本の現在の繁栄は、71年前の夏に終わった「太平洋戦争」の犠牲の上にたてられています。
しかし、あの歴史は、昨今、徐々に風化していないでしょうか。あのとき、日本は何をしたのか? 日本は世界の平和に対して「不幸の種」を蒔き散らした。あの歴史は我が国の「負の遺産」です。国策の「失敗」が取り返しのつかない悲劇を招いたからです。これに対して、「負の遺産」ばかり強調するな、萎縮するから、という意見もあります。それなら視点を変えましょう。
自虐的に「負の遺産」を見るのではなく、そこから真摯に学ぶのです。「失敗」を検証して、よりよい日本を、「世界の平和」を実現するための糧とするのです。
明日は「8・15終戦記念日」です。アジア諸国では、この日を「独立記念日」としています。かつて国土を奪われ、言葉や文化、名前まで奪われて尊厳を踏みにじられた苦しみからの解放を祝う特別な日です。
彼らを苦しめたのは当時の日本です。
原爆の悲劇を叫びながら、アジア諸国への謝罪は聞こえて来ない。被害者意識だけ大きいのは、なぜ…? この矛盾は、現代の日本人(私たち)の課題です。
●8月14日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 真実のことば ✣
8月に入りました。平和を考え、平和を祈る季節です。我が国は71年前、広島と長崎に人類史上初の原子爆弾を投下されました。広島では14万人、長崎では7万人が犠牲になったとされていますが、正確な犠牲者の数は、今も分からないそうです。
当時、「1億玉砕」のスローガンを掲げ、国民に徹底抗戦を強制した日本政府(軍部)は、原爆による被害の甚大さに言葉を失ったといいます。考えてみれば、B29爆撃機は1万メートル上空から爆弾投下、これに国民は竹槍で立ち向かおうと大真面目に訓練していたわけです。今思えば愚かの極みです。
当時の指導者らが、もっと賢明な判断をしていれば原爆の悲劇は避けられたという歴史家もいます。原爆を投下したのは米国ですが、宣戦布告したのは我が国です。悲惨な結末を招いた当時の政府指導者らの「愚行」を忘れることは出来ません。
『過去に学ばない者は過去を繰り返す』(元ドイツ大統領ヴァイツゼッカー)の名言に耳を傾けましょう。聖書の民イスラエルは「出エジプト」「バビロン捕囚」「20世紀のホロコースト」等、民族の悲劇(歴史)を次世代へ繰り返し伝えています。同じ悲劇を繰り返さないために。一方、我が国では「太平洋戦争」を知らない若者が現われています。
●8月7日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 本気の悔い改めとは ✣
人は良い状況が続くと“神の恩寵(めぐみ)”を忘れて、自分の力で何でも出来るかのような「錯覚」に陥ります。この「錯覚」は、やがて自分を絶対化し、自分を「神」とします。これを聖書は「罪」と呼び、警告しています。「罪」に心を奪われると、どんな人も、例外なく「堕落」します。
ダビデは信仰の人でした。国王になってからも謙虚な心で神に従いました。熱心に礼拝をささげました。それだけでなく、貧しい人々や苦しむ人々に目をとめ、すべての国民が「生きていて良かった」と思えるようにと、国づくりに励んでいました。
ところが、ここにも「罪」の落とし穴がありました。ダビデが行った人口調査を神は悪とみなした(歴代上21:7)。人口調査は、かつてモーセも行っています(民数記1章)。
なぜ、ダビデの人口調査は「罪」なのか? 理由は明らかです。モーセは“神の命令”を受けて行いました。しかし、ダビデは“神の命令”を受けないまま、自分勝手にしたからです。聖書は、「ダビデはサタンに誘われた」と記しています(歴代上21:1)。
さて、ここに現代人への問いかけがあります。その行動の“動機”は何か? “神の言葉”を忘れた時、信仰の人でさえ時代の波に翻弄されてしまうのです。
●7月31日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 放置された歴史の清算 ✣
ダビデ王の治世のある時期に「飢饉」が3年続きました。現代なら気象条件等からその理由を合理的に説明できますが、これは三千年昔の世界の話です。当時の人々は、「飢餓(国家の災い)」は神の怒りの発露と考えました。ダビデ王が「飢饉」の理由を神に尋ねると、「先代サウル王の犯した罪が未解決」との答えがありました(サムエル下21:1)。
ダビデの時代から200年程昔、モーセの後継者ヨシュアは、カナン地方統治に際し、先住民(ギブオン人)との間に“和親条約”を結びました(ヨシュア記9章)。先代サウル王はこの約束を破り、命を守るべき人々を傷つけ、危害を加えたのです。これが「神への背信行為(罪)」とみなされました。「罪」を解決するには“償い”が必要です。それでサウル王家の生き残り7人が、先祖の「罪」の代償として処刑された、というのです。
この話は現代人には不可解です。しかし旧約聖書の世界では、「失われた命は、命で償う」のが正義とされたので、ダビデ王は罪解決のため、当時の正義を貫徹したのです。
それならキリスト教も同じか、と質問されそうです。…No ! 新約聖書は、“十字架で死んだキリスト”を信ぜよ、そうすればすべての「罪」が赦されて、“新しい世界が始まる”と教えています。
●7月24日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男