✣ 神の不思議な介入 ✣
失敗したとき、「ことわざ」が心に浮かびます。「転ばぬ先の杖」「備えあれば憂(うれ)いなし」等々。「ことわざ」には含蓄があります。失敗してみて、初めて、もっと素直に聞けばよかったと後悔する。私だけでしょうか。信仰生活で失敗すれば、「もっと祈ってから行動すればよかった」「あの御言葉に従うべきだった」と、やはり後悔します。
信仰があっても、そこは生身の人間です。失敗もします。そんなとき、信仰の友が、「失敗しない人などいないから…」と、言葉を掛け、励ましてくれます。本当にありがたいことです。しかし、それでも尚、落ち込むのです。失敗は嫌なものです。出来れば失敗はしたくありません。
ところが、失敗にもよい所があります。人は失敗すると注意深くなります。失敗したことで、新しい発見をする場合もあります。長い目で見れば、失敗は成功への前段階(ステップ)であるとも言えます。それでは楽観的過ぎるという批判もありますが、キリストに従う人なら分かるでしょう。失敗しても、悔い改めて新しくされる“神の恵み”を知っています。新しくされるから悲観しないのです。聖書によると、キリストに従う人は失敗しても“主のもの(神の子)”です。ここに神の不思議な介入があります。
●9月25日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 異邦人ナアマンへの恵み ✣
イスラエルの隣国、アラムの王の軍司令官、ナアマンは、重い皮膚病を患っていました。何とかしてその病を治したいと思っていた彼に、主の招きの言葉を届けたのは、アラム軍がイスラエルに侵攻した時に、捕虜として連れ去られ、ナアマンの妻の召使いをしていたイスラエル人の少女でした。
「サマリアの預言者の所を訪ねれば、重い皮膚病を治してもらえるでしょう」
ナアマンはその言葉を信じて、はるばるイスラエルに赴き、「神の人」エリシャを訪ねます。しかし、彼はエリシャの対応に不満を抱いて憤り、彼の元を立ち去ろうとします。そんな彼を、神は辛抱強く、今一度招いてくださったのです。彼の家来が彼をいさめて思いとどまらせ、悔い改めた彼は、ついに神の力によるいやしの恵みを得て主なる神への信仰へと至ります。
異国に連れ去られた小さな一人の少女の信仰が、異邦人ナアマンに福音の種をまき、主の恵みが彼に与えられたように、私たちも主を心から信じて、隣人を愛しながら生きていくことで、自分の周りの人々に福音を伝えることが、きっとできるはずです。
私たち一人一人が、たとえ小さくても主に用いられる器となっていけるように、祈りながら歩んでいきましょう。
●9月18日 週報巻頭言 教会員 衣笠 壮
✣ 神を深く知るために ✣
罪を犯した少年が、少年院に収容されたなら、直ちに自分の失敗を悔いて反省するかというと、そんなことはありません。彼らの多くは、「運悪く少年院送致になってしまった」ぐらいにしか思わないようです。
ところが、そんな少年たちも人々の働きかけによって変わります。その一つは“愛の力”です。かつて触れたことのない“愛”を知ると、氷結した心が溶け始めるのです。
少年たちは、さんざん人を裏切り、迷惑を掛けて来ました。それにもかかわらず、少年院へ足を運ぶ学校の担任教師がいる。自分が反発しても、粘り強く向き合ってくれる法務教官、心の悩みを何でも聞いてくれる面接委員、生きるために必要で大切なことに気づかせてくれる教誨師がいる。
しかし、最も力を発揮するのは“家族”です。事件を起こした息子を立ち直ると信じる父親がいる。自宅へ帰る日を待つ母親がいる。恥かしい思いをさせたのに変わらずに受入れてくれる兄や弟、姉や妹がいる。
“家族の愛”を実感したとき、少年は、この“愛”を決して裏切らないと決意して、変わり始めます。これは聖書に記された“神の愛”と「罪人」の関係そのものです。聖書が伝える“十字架のキリスト”、ここに【神を深く知る道】があります。
●9月11日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 天へ上げられた預言者 ✣
旧約聖書によると、モーセはシナイ山で神から“十戒(律法)”を授かりました。一方、預言者エリヤは同じシナイ山で“神が静かにささやく声”を聞きました(列王上19:12)。
モーセとエリヤは新約聖書にも登場します。【イエスの山上の変貌】のとき、二人はイエスさまと話し合っています。これに感激したイエスの弟子ペトロが、「ここに仮小屋を三つ建てましょう」と語ります。
すると三者は“光輝く雲”に覆われます。ペトロと他の弟子たちは、天からの声『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』を聞くと、その場にひれ伏して恐れたと記されています(マタイ17章)。
モーセが「律法の書」を、エリヤが「預言者の書」を象徴するなら、イエスさまは「旧約聖書の成就者」である…これを【山上の変貌】は示唆しているといわれます。
イエスさまの時代、ユダヤの民はメシアがあらわれる前に、預言者エリヤが再び戻って来ると信じていたのです。
エリヤはアハブ王の時代(前2800年頃)に活躍した“神の預言者”です。混迷時代にエリヤが見せた“勇気と情熱と信仰”は、神の民を本来の道(ヤハウェのみを神とする)へ立ち返らせるための“神の賜物”でした。預言者エリシャが受け継ぎます。
●9月4日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 大切なことがある ✣
ある日、アハブ王は宮殿近くの「畑」に目をとめます。そこは町の指導者の一人ナボトが所有する「ぶどう畑」でした。
王はナボトに話を持ちかけます。
「私は野菜畑をつくりたい。あなたが所有するぶどう畑を譲って欲しい。代わりにもっと良い土地を与える。あなたが望むなら、納得できる代金を支払う。」
ところがナボトは、あれは先祖伝来の「嗣業の土地」なので譲れませんと言いました。
かつて、エジプトで奴隷状態にあったご先祖が、エジプト脱出後40年を経て神さまから与えられた“約束の土地”なので、王に懇願されても譲れないと断ったのです。
アハブ王は落胆します。しかし、王妃イゼベルは諦めません。町の有力者に働きかけて裁判に訴えます。人を雇って「ナボトが神と王を呪った」と偽証させ、ナボトを死刑にします。こうして《ナボトのぶどう畑》は合法的に王のものになりました。
そのとき預言者エリヤが登場します。エリヤは、王と王妃に対して【主の目に悪とされることに身を委ねた】(列王上21:20)と語り、「悪行」を暴き、「神の裁き」を宣告します。欲望を満たすためなら何でもありを通した自分勝手な権力者は、自ら蒔いた種を刈り取ることになるのです。
●8月28日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男