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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-09 20:35:14 (1033 ヒット)

✣ 主がお入り用なのです ✣

    エルサレムの近くで、イエスさまは弟子たちに命じました。【…向こうの村へ行きなさい。…ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。…わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる】(マタイ21:2-3)。
    『主がお入り用なのです』。心に響きます。
    ある人が、「教会で何かを人に頼むときに使える“フレーズ”だ」と言いました。
    『主がお入り用なのです』は、聖書を読み始めたばかりの人、信仰初心者、なまくらな信仰の人には殆ど無力な言葉ですが、聖書をよく読んでいる人、いつも熱心に奉仕する人にはテキメンです。その人は、「依頼された事柄は、主の御心かもしれない」と考えて、真剣に祈り始めます。そして、神と人に喜ばれると確信したら、喜んで引き受けてくれます。
    もし引き受けられないときには、ただ「お断りします」で終わりません。より良い方法を一緒に考えたり、相応しい助け手を紹介するなどして、必ず力になってくれます。
    聖書によると、イエスさまはエルサレム入場に際し無価値と見下された“ろば”を選びました。なぜ、「勇ましい馬」に乗らなかったのか?
    その答えは旧約聖書の預言者の言葉にあります(ゼカリヤ9:9-10)。当時の人々には、馬は「戦争」を連想させる家畜であり、“ろば”は「平和な日常」を思わせる家畜でした。
    “救い主(メシア)”が働くとき、立派な軍馬ではなく、素朴で不格好な“ろば”が必要です。“ろば”は、あなたです。

●3月12日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-02 19:29:50 (994 ヒット)

✣ 赦すことの葛藤 ✣

    教会暦によると“レント(四旬節・受難節)”に入りました。灰の水曜日(3/1)からイースター(復活祭4/16)の前日までの6週間(日曜日を除く40日)は、“罪の悔い改め”に集中するときです。世界各地で敬虔なクリスチャンたちが自分自身の“悔い改め”を深めようと、禁欲的になり過ぎないように、自由に考えて行動しています。
    一方、日本のプロテスタント教会は“レント”をあまり意識していません。でも“受難週(イースター前の1週間)は大切にします。イエスさまが私のために“大きな犠牲”を払ってくださったことが強調されます。しかし、僅か1週間でイースターを迎えるので、“受難”に思いをめぐらす時間が短いためか、“キリスト復活”の実感がはっきりしない。その結果、気持ちは高揚せず、いつもの日曜日とあまり変わらない感覚でイースター礼拝を迎えることになるのです。
    そこで提案です。例えば“レント期間限定”で、聖書のある個所を熟読する、時間を決めて必ず祈る、奉仕活動に参加する、好きなものを我慢して献金する等々、“誓願”を立て、実行してみてはいかがでしょうか?
    私たちが直面する人間関係の「葛藤」は複雑です。どうしても気になり、心を奪われてしまいます。この季節限定で構いません。優先順位を変えてみるのです。人を赦すか、赦さないか、私たちを悩ます「葛藤」は傍らに置いて、イエスさまの受難と十字架に注目する。そして、“レントの誓願”を、先ず実行するのです。6週間後のイースター礼拝(4/16)に期待しましょう。感動が待っています。

●3月5日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-23 20:24:40 (877 ヒット)

✣ 安心しなさい ✣

    イエスさまは【…弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に行かせ…群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった】(マタイ14:22-23)。その直後、ガリラヤ湖特有の嵐が発生します。強い逆風と激しい波が弟子たちを襲います。夕方から明け方まで、かなり長い時間、弟子たちは荒波に悩まされたようです。明け方になって、イエスさまは水の上を歩いて弟子たちの所へやって来ました。
    ところが、パニック状態の弟子たちにはイエスさまが分らない。怯える弟子たちにイエスさまは【安心しなさい…】(14:27)と語ります。
    この物語は何を伝えようとしているのでしょうか? イエスさまが水の上を歩いたことだけに注目して、「神の奇跡」を信じることが信仰であり、「奇跡」を信じない弟子たちは不信仰である。不信仰はダメ、強い信仰を持つべきだ、という読み方があります。
    一方、別な視点からの読み方もあります。この物語は、迫害最中にある初代教会を励ます“希望のメッセージ”だ、というのです。
    それによると、舟は「教会」を、弟子たちは「教会に集う人々」を、嵐は「当時の社会情勢(迫害)」を象徴する。イエスさまは迫害下にある教会に、ご自分から近づいて来る。教会は、いつもイエスさまと共にある。だから、安心しなさい、恐れるな。時空を超えて、代々の教会へ“福音”を伝える、という読み方。
    聖書をどう読むか。それは各自の自由です。ただし、“福音(良い知らせ・喜びの訪れ)”を読み取れなければ、本当に聖書を読んだことにはならないのです。

●2月26日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-16 18:57:10 (844 ヒット)

✣ すべてに勝る宝 ✣

    マタイ福音書には「天の国」という言葉が度々使われています。これは他の福音書の「神の国」と同じ意味であると考えられています。いずれも「神の支配」を表しますが、二つの意味を持ちます。一つは、神は天地を創造した“被造物の世界の王”であること。もう一つは、神の支配の“未来の側面”。神は永遠の王ですが、現実の世界には罪と苦しみがあり、神の民にすれば「神の支配」は未だ完成されていません。そこで人々の期待は未来へ向かいます。「天の国」は、すでに(神が被造物を支配している)と未だ(これから完成する終末的期待)の緊張関係にあるのです。
    イエスさまは「天の国」について多くのたとえを語りました。その内容は福音書が記された時代の教会が置かれた状況に重なる所から、迫害と戦う教会の人々に希望を与えているとも言われています。
    きょう示された三つの『天国のたとえ』(マタイ13:44-50)も、この視点で読み解けば、イエスさまが弟子たちに教えた“福音の真髄”に近づけるかもしれません。最初のたとえ「畑に隠された宝」…イエスさまの恵みは隠されている。これに気づいた人の大きな喜びを伝えています。次の「高価な真珠を見つけた人」…罪人を探し出し、その一人を『すべてに勝る宝』と見なして、その人のためにすべてを投げ出す(十字架で贖罪の死を遂げる)イエスさまの愛が語られています。最後のたとえ「網に入った魚を選り分ける漁師」…弟子たちへの宣教命令です。最後の審判(結果)は神に任せて、福音を伝えなさい、と励ます。

●2月19日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-09 18:19:19 (838 ヒット)

✣ 悪霊を追い出す力 ✣

    【そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て…ものが言え、目が見えるようになった】(マタイ12:22)。そこに居合わせた人々は驚きました。そして、預言されていた“救い主(メシア)”が本当に来たと思い始めました。
    イエスさまは既に“安息日の主”がご自身であることを宣言されていました(マタイ12:8)。
    ユダヤの宗教指導者たちの反応は、群衆とは正反対でした。【…悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない…】(12:24)。彼らはイエスを怪しい人物と断定し、殺害を企てます(12:14)。
    本来ならば、宗教指導者である彼らが率先して貧しい人々に手を差し伸べ、病に苦しむ人々を慰めるべきでしょう。ところが彼らは、「自分は神の律法に従っている」と言うだけで、結局、何もしないのです。
    聖書は「悪霊」を否定しません。マタイ福音書は「悪霊」と“聖霊”を人物に重ねて、対比して描いています。「悪霊」 の特徴は、神の愛(力)を否定し、人を神から遠ざけようとすること。「悪霊」は、人の耳もとで「おまえには出来ない」「ダメだ」「諦めろ」と囁き、巧みに人の心を挫(くじ)きます。宗教指導者たちは、人々をイエスさまから遠ざけました。
    一方、福音書が伝えるイエスさまの働きは、神と人とを結びつけること。「わたし(イエス)が共にいる、わたし(イエス)に従え、必ず祝福される」と語り、人々に希望を与えます。ここに“聖霊”が働きます。イエスさまを信じるとき、“聖霊”を知るのです。

●2月12日 週報巻頭言  牧師  山田 幸男


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