✣ 悪霊を追い出す力 ✣
【そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て…ものが言え、目が見えるようになった】(マタイ12:22)。そこに居合わせた人々は驚きました。そして、預言されていた“救い主(メシア)”が本当に来たと思い始めました。
イエスさまは既に“安息日の主”がご自身であることを宣言されていました(マタイ12:8)。
ユダヤの宗教指導者たちの反応は、群衆とは正反対でした。【…悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない…】(12:24)。彼らはイエスを怪しい人物と断定し、殺害を企てます(12:14)。
本来ならば、宗教指導者である彼らが率先して貧しい人々に手を差し伸べ、病に苦しむ人々を慰めるべきでしょう。ところが彼らは、「自分は神の律法に従っている」と言うだけで、結局、何もしないのです。
聖書は「悪霊」を否定しません。マタイ福音書は「悪霊」と“聖霊”を人物に重ねて、対比して描いています。「悪霊」 の特徴は、神の愛(力)を否定し、人を神から遠ざけようとすること。「悪霊」は、人の耳もとで「おまえには出来ない」「ダメだ」「諦めろ」と囁き、巧みに人の心を挫(くじ)きます。宗教指導者たちは、人々をイエスさまから遠ざけました。
一方、福音書が伝えるイエスさまの働きは、神と人とを結びつけること。「わたし(イエス)が共にいる、わたし(イエス)に従え、必ず祝福される」と語り、人々に希望を与えます。ここに“聖霊”が働きます。イエスさまを信じるとき、“聖霊”を知るのです。
●2月12日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 正しい知恵とは ✣
そのとき、洗礼者ヨハネは獄に捕われていました。ユダヤの領主ヘロデ・アンテパス(ヘロデ大王の息子)の私生活を糾弾したからです(兄弟の妻との不倫…マタイ14:1-12参照)。
獄中のヨハネは、宣教活動を開始したイエスさまに大きな期待を寄せていました。イエスさまは、ユダヤを支配するローマ帝国と戦い、選民イスラエルを解放するに違いない。洗礼者ヨハネは、イエスさまが「社会革命家」として行動するときを待ち望んでいました。
ところが、イエスさまは重い病の人を癒し、汚れた霊にとりつかれた人を正気に返すなど、一人ひとりの生活に目をとめることに熱心で、「民衆蜂起」をしない。イエスさまは本当に“救い主”なのか…? 洗礼者ヨハネの心に疑いが生じていました。
ヨハネは自分の弟子をイエスさまの所へ派遣します。そして、【来るべき方は、あなたでしょうか。…ほかの方を待たなければなりませんか】(マタイ11:3)と尋ねさせます。
これに対してイエスさまは、一人ひとりを神の前に立たせるために来たこと、一人ひとりに福音を伝えるために来たことを伝えます。
更に、神の方から人に近づいてくださる“新しい世界”が始まることを教えました。
イエスさまは、【わたしにつまずかない人は幸いである】(マタイ11:6)と、洗礼者ヨハネに伝えよと語りました。人の熱心や功徳によって、力ずくで理想社会を実現しようと考えていたヨハネ。彼は挫折します。獄中で惨殺されました。一方、イエスさまは“十字架と復活”によって世の光となったのです。
●2月5日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ だから、恐れるな ✣
マタイ福音書10章は、イエスさまによる12弟子の選任と派遣を伝えています。弟子たちを「この世」へ遣わす前に、イエスさまは【…狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい】(マタイ10:16)と教えました。
この教えは、二千年昔の12弟子だけではなく、時空を超えて、キリストを信じるすべての人を対象としています。福音を受け入れない「この世」へ派遣される“キリスト者の心構え”を教えている、という説もあります。
イエスさまを信じれば、試練も、悩みも、すべて解消…というわけには行きません。イエスさまを信じても、事故に遭うときもあれば、病気になるときもある。直面する課題に怯(ひる)む「私」がいる、これも事実です。
それなら、イエスなど信じても信じなくても同じだ、と皮肉を言われるかもしれません。
イエス・キリストを信じる強みは、一体、どこにあるのでしょうか?
イエスさまを信じる人は、ごたごたが起きても、それに振り回されない平安を持ちます。悩みを抱えながらでも、朽ちない希望を持ち続けることが出来ます。見える世界がすべてではないことを洞察する知恵に満たされます。問題解決の糸口を粘り強く探し求めて、“光(復活の出来事)”を見出します。
イエスさまは、弱さ丸出しの弟子たちに、【最後まで耐え忍ぶ者は救われる】(10:22)と語り、だから【恐れるな】と、三回繰り返しました(10:26、28、31)。“イエス、我と共に在り(インマヌエル)”の信仰だから恐れない。
●1月29日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 御国への招待 ✣
イエス様は、貧乏人や病人など律法を守れない弱者に福音を宣べ伝えておられました。そのため当時の指導者層から敵視されていたのです。ところがある時、驚くべき事件が発生しました。イエス様を敵視しているはずの指導者の一人が突然イエス様の前にひれ伏し、懇願して言ったのです。「私の娘がたった今死にました。しかしおいでになって、娘の上にあなたの手をおいてください。そうすれば娘は生きるでしょう。」この人は社会的地位も名誉も恥も外聞もかなぐり捨てて、愛娘のためにイエス様の御前に身を投げ出したのです。
イエス様がその懇願に応えて歩みを進めている最中、またしても事件が発生しました。12年もの間、出血がとまらず、その汚れのため神殿で祈ることも許されず、病気治療のために全財産を使い果たしてしまった女性が、後ろから、そっとイエス様の衣に触れたのです。
汚れた者が聖なる方に触れるなど、大変な冒涜でした。一方は高い権威と社会的な重責を負い、人々の尊敬を集める指導者。もう一方は社会的にも宗教的にも抹殺された女性。当時の常識からは大きく逸脱した二つの事件が一連の出来事としてまとめられるという、聖書の中でも特異な箇所です。
しかもこの異常な出来事は、マタイ・マルコ・ルカの三福音書において、全く同じ構成で、記載者それぞれの視点から取り上げられており、この二つの事件の一貫性が強調されています。本日はこれら異常な出来事を通して私たちに語られている福音をご一緒に味わいたいと思います。
●1月22日 週報巻頭言 教会員A
✣ 求めよ、探せ、門をたたけ ✣
イエスさまは、弟子たちに、集まって来た人々に、このように教えました。
【人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい】(マタイ7:12)。
これは“黄金律(Golden Rule)”と呼ばれ、キリスト教倫理の原則として広く知られています。私(イエス)がここにいる。だからあなたがたは、人からして欲しいと思うことを自分から率先して行え、というのです。
これに対して、「孔子の教えにも『自分がして欲しくないことは、人にするな』とある。イエスも同じことを言ったに過ぎない」と言う人もいます。
さて、“黄金律”と『孔子の教え』は、同じことを言っているのでしょうか?
私は、まったく違うと思います。孔子の教えは、人として、当たり前のことです。でもその当たり前が、当たり前に出来ない。それが人間の現実です。しかし少し我慢するか、ここが踏ん張り所と腹を据え、歯をくいしばって頑張れば、出来ないことはありません。
ところが、“黄金律”は“イエスさまの十字架と復活”を土台とする“福音(喜びの訪れ)”です。“聖霊の力”によって実現されます。
イエスさまを信じて、イエスさまに従い、イエスさまと共に生きる人が体験する幸い、それが“黄金律”です。“I am OK, You are OK”という新しい世界が始まるのです。
●1月15日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男