✣ 目を覚ましていなさい ✣
旧約聖書は神を信じる人々(イスラエルの民)の歴史を記しています。そこには一つの類型が読み取れます。イスラエルの民は「不信仰」に陥ると、悔い改めて“信仰”へ立ち返り、神は民を憐れみ、祝福します。これがしばらく続くと、民は“神への感謝”を疎かにして、人の知恵や世の富に心を奪われ「世俗化」する。“ヤハウェ礼拝”よりも「この世」のことに熱心になり、「偶像礼拝(ご利益)」に走る。
すると、優れた知恵や力を持つ民族(異邦人)が攻めて来て、民は打ちのめされる。民は「不信仰」を悔い改める。神は再び憐れむ。民は再度立ち上がる。この繰り返しです。
新約聖書の時代に入り、この堂々巡りを断ち切る知恵が与えられます。『「十人のおとめ」のたとえ』(マタイ25:1-13)は、“小さなともし火(信仰の光)”を消さないように強く戒めています。十字架のときを目前にしたイエスさまは、弟子たちに【目を覚ましていなさい】(マタイ25:13)と繰り返し命じました。しかし弟子たちは、ゲッセマネの園で、必死に祈るイエスさまの近くにいながら眠ってしまうのです。
この話の背後には、“再び来る”と約束して昇天したイエスさま(使徒1章)が、いつまで待っても“再臨”しない「初代教会の苦悩」が隠れているとも言われます。“キリスト再臨”はいつなのか? それは誰にも分かりません。
しかし、今、分からなくても、“神の約束”は必ず成就します。だからこそ、イエスさまを信じた者は、油の用意を怠る【愚かなおとめ】(マタイ25:8)のようであってはならない。
堂々巡りを断ち切るために。
●3月19日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 主がお入り用なのです ✣
エルサレムの近くで、イエスさまは弟子たちに命じました。【…向こうの村へ行きなさい。…ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。…わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる】(マタイ21:2-3)。
『主がお入り用なのです』。心に響きます。
ある人が、「教会で何かを人に頼むときに使える“フレーズ”だ」と言いました。
『主がお入り用なのです』は、聖書を読み始めたばかりの人、信仰初心者、なまくらな信仰の人には殆ど無力な言葉ですが、聖書をよく読んでいる人、いつも熱心に奉仕する人にはテキメンです。その人は、「依頼された事柄は、主の御心かもしれない」と考えて、真剣に祈り始めます。そして、神と人に喜ばれると確信したら、喜んで引き受けてくれます。
もし引き受けられないときには、ただ「お断りします」で終わりません。より良い方法を一緒に考えたり、相応しい助け手を紹介するなどして、必ず力になってくれます。
聖書によると、イエスさまはエルサレム入場に際し無価値と見下された“ろば”を選びました。なぜ、「勇ましい馬」に乗らなかったのか?
その答えは旧約聖書の預言者の言葉にあります(ゼカリヤ9:9-10)。当時の人々には、馬は「戦争」を連想させる家畜であり、“ろば”は「平和な日常」を思わせる家畜でした。
“救い主(メシア)”が働くとき、立派な軍馬ではなく、素朴で不格好な“ろば”が必要です。“ろば”は、あなたです。
●3月12日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 赦すことの葛藤 ✣
教会暦によると“レント(四旬節・受難節)”に入りました。灰の水曜日(3/1)からイースター(復活祭4/16)の前日までの6週間(日曜日を除く40日)は、“罪の悔い改め”に集中するときです。世界各地で敬虔なクリスチャンたちが自分自身の“悔い改め”を深めようと、禁欲的になり過ぎないように、自由に考えて行動しています。
一方、日本のプロテスタント教会は“レント”をあまり意識していません。でも“受難週(イースター前の1週間)は大切にします。イエスさまが私のために“大きな犠牲”を払ってくださったことが強調されます。しかし、僅か1週間でイースターを迎えるので、“受難”に思いをめぐらす時間が短いためか、“キリスト復活”の実感がはっきりしない。その結果、気持ちは高揚せず、いつもの日曜日とあまり変わらない感覚でイースター礼拝を迎えることになるのです。
そこで提案です。例えば“レント期間限定”で、聖書のある個所を熟読する、時間を決めて必ず祈る、奉仕活動に参加する、好きなものを我慢して献金する等々、“誓願”を立て、実行してみてはいかがでしょうか?
私たちが直面する人間関係の「葛藤」は複雑です。どうしても気になり、心を奪われてしまいます。この季節限定で構いません。優先順位を変えてみるのです。人を赦すか、赦さないか、私たちを悩ます「葛藤」は傍らに置いて、イエスさまの受難と十字架に注目する。そして、“レントの誓願”を、先ず実行するのです。6週間後のイースター礼拝(4/16)に期待しましょう。感動が待っています。
●3月5日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 安心しなさい ✣
イエスさまは【…弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に行かせ…群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった】(マタイ14:22-23)。その直後、ガリラヤ湖特有の嵐が発生します。強い逆風と激しい波が弟子たちを襲います。夕方から明け方まで、かなり長い時間、弟子たちは荒波に悩まされたようです。明け方になって、イエスさまは水の上を歩いて弟子たちの所へやって来ました。
ところが、パニック状態の弟子たちにはイエスさまが分らない。怯える弟子たちにイエスさまは【安心しなさい…】(14:27)と語ります。
この物語は何を伝えようとしているのでしょうか? イエスさまが水の上を歩いたことだけに注目して、「神の奇跡」を信じることが信仰であり、「奇跡」を信じない弟子たちは不信仰である。不信仰はダメ、強い信仰を持つべきだ、という読み方があります。
一方、別な視点からの読み方もあります。この物語は、迫害最中にある初代教会を励ます“希望のメッセージ”だ、というのです。
それによると、舟は「教会」を、弟子たちは「教会に集う人々」を、嵐は「当時の社会情勢(迫害)」を象徴する。イエスさまは迫害下にある教会に、ご自分から近づいて来る。教会は、いつもイエスさまと共にある。だから、安心しなさい、恐れるな。時空を超えて、代々の教会へ“福音”を伝える、という読み方。
聖書をどう読むか。それは各自の自由です。ただし、“福音(良い知らせ・喜びの訪れ)”を読み取れなければ、本当に聖書を読んだことにはならないのです。
●2月26日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ すべてに勝る宝 ✣
マタイ福音書には「天の国」という言葉が度々使われています。これは他の福音書の「神の国」と同じ意味であると考えられています。いずれも「神の支配」を表しますが、二つの意味を持ちます。一つは、神は天地を創造した“被造物の世界の王”であること。もう一つは、神の支配の“未来の側面”。神は永遠の王ですが、現実の世界には罪と苦しみがあり、神の民にすれば「神の支配」は未だ完成されていません。そこで人々の期待は未来へ向かいます。「天の国」は、すでに(神が被造物を支配している)と未だ(これから完成する終末的期待)の緊張関係にあるのです。
イエスさまは「天の国」について多くのたとえを語りました。その内容は福音書が記された時代の教会が置かれた状況に重なる所から、迫害と戦う教会の人々に希望を与えているとも言われています。
きょう示された三つの『天国のたとえ』(マタイ13:44-50)も、この視点で読み解けば、イエスさまが弟子たちに教えた“福音の真髄”に近づけるかもしれません。最初のたとえ「畑に隠された宝」…イエスさまの恵みは隠されている。これに気づいた人の大きな喜びを伝えています。次の「高価な真珠を見つけた人」…罪人を探し出し、その一人を『すべてに勝る宝』と見なして、その人のためにすべてを投げ出す(十字架で贖罪の死を遂げる)イエスさまの愛が語られています。最後のたとえ「網に入った魚を選り分ける漁師」…弟子たちへの宣教命令です。最後の審判(結果)は神に任せて、福音を伝えなさい、と励ます。
●2月19日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男