✣ 福音の力 ✣
教会暦では“復活節”に入りました。“聖霊降臨日(ペンテコステ:今年は6/4)”前日までの7週間です。福音書の時代のように“復活のキリスト”が、私に近づいてくださることを確認する季節です。喜びを体験した人々は、集まって一緒に祈り始めました。こうして“キリスト復活”の日から数えて50日目に、信徒たちの証しによる伝道が開始されました。世界初の“キリスト教会誕生”です。現代に於いても、“復活のキリスト”を信じた人々が集まり、心を合わせて祈れば、そこにいのちに満ちた“キリストの体なる教会”が立て上げられるのです。
今年の“復活節”は「ローマの信徒への手紙」を学びます。著者パウロは生涯を“キリストの使徒”として歩み、世界宣教の礎となりました。彼は信仰の初心を忘れず、信仰の軸がぶれない人でした。まだ会ったことのない人々へ、手紙の冒頭で自己紹介をしています(ローマ1:1)。
1)キリストの僕(しもべ)
…僕は「奴隷」の意味。自分に不利でもキリストの命令ならば従う覚悟だ。
2)福音宣教のために選ばれた
…神はアブラハム、モーセ他を選び立てたように、福音を伝える器として、この私に目を留め、選び立てた。
3)使徒の責任を果たす
…私は福音を恥としない(16)。あなた方と一緒に神に仕えたい。
この手紙には、パウロの「ローマ福音宣教」への思いが熱く語られています。
●4月23日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 復活する(恐れ・驚き・喜び) ✣
日本人が無神論に傾倒する理由を、あるクリスチャン生物学者が、『進化論に居心地のよい住居を提供した「罪」のため』と指摘しました。
この学者の説によると、人が物事を考えるとき、何を土台にするかによって進む方向がまったく違って来るといいます。進化論を土台にする場合と、聖書の神による創造論を土台にする場合、その違いは明らかです。
1)進化論
…その土台は「偶然、無秩序、弱肉強食、そして合理性」です。世界的に見れば進化論は仮説の一つに過ぎません。が、日本では権威を持ち、絶対視されている。
2)創造論
…「存在の意味、調和、いのちの尊厳」が土台です。合理性を否定しませんが、それだけでは説明出来ない「無駄、不合理」を認め、そこに“神の摂理”があるとする。
進化論には「罪」の解決はありませんが、創造論には“キリストの十字架と復活”による“救い”があります。「弱肉強食、合理性」はいのちを切り捨てる。一方、「無駄、不合理」を認める世界は違うことを尊重する。
人は聖書を通して“復活のキリスト”に出会い、創造論を理解します。創造論的人生とは、聖書から養いを受けて、日々新しくされる歩みです。躓いても、尚、神が備える希望があると信じて前進する人生です。進化論的人生では味わえない豊かな生き方です。
●4月16日 イースター礼拝 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 十字架上のキリスト ✣
その頃、ユダヤの人々はローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国をひっくり返してイスラエルの国を復興したいと誰もが願っていました。遠い昔に預言者たちが告知した“メシア(救い主)”が現われ、ユダヤの民を勝利へ導く…。人々の“メシア”待望の気運は、日に日に高まっていました。
そこに登場したのが“ナザレ人イエス”です。
ところが、彼は人々の期待とは違う方向へ進みます。目指すところは力ずくで支配者をねじ伏せる社会改革ではなく、かつてユダヤの預言者たちに啓示された“神の御心”を貫徹する道でした。罪の悔い改めと赦しの宣言、心・体・魂の癒しと愛の実践です。
12弟子の一人イスカリオテのユダは、“ナザレ人イエス”が目指すこの道に絶望し離れて行きました。
【…人の子が栄光を受けるときが来た。はっきり言っておく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ…】(ヨハネ12:23-24)。
“ナザレ人イエス”は十字架の道を進みます。素っ裸にされて、両手両足を太い釘で打ち抜かれ、十字架に磔(はりつけ)にされる。その十字架が二人の強盗の真ん中に立つ。これは神が永遠に罪人と共に在るしるし。十字架は終わりではなく、新しい世界の入り口です。メシア・イエスは三日後に復活します。
●4月9日 受難週 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ ゲッセマネで祈る ✣
“最後の晩餐”のあと、イエスさまは弟子たちを連れて祈るためにオリーブ山の麓、ゲッセマネの園へ向かいます。そこでイエスさまは、悲しみもだえながら祈りました(マタイ26:37)。“そのとき(十字架)”は翌朝に迫っていました。
12弟子の一人ユダは、銀30枚と引替えにイエスさまの居場所を当局へ密告。ユダヤの宗教指導者たちをゲッセマネへ先導します。
このとき、イエスさまを裏切った弟子はユダだけではありません。イエスさまと一緒にゲッセマネへ向かった弟子ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、必死に祈るイエスさまの背後で眠っていました。イエスさまが当局に逮捕されるときには、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。
“最後の晩餐”の直後に、イエスさまは弟子たちのつまずきを予告していました(マタイ26:31)。そのときペトロは、【…「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません…あなたのことを知らないなどとは決して申しません」…】(マタイ26:33)と勇ましく語りました。他の弟子たちも皆、「つまずかない」と主張しました。
【…心は燃えても、肉体は弱い】(26:41)。
イエスさまは、すべてお見通しでした。弟子たちが居眠りすることも、逃げ出すことも、そして裏切ることも…。それを分かった上で、それでも尚、弟子たちを【友よ】(26:50)と呼びました。言行不一致のダメ弟子に対して、イエスさまは「お前たちなど知らない!」とは言わなかった。「知らない」と言ったのは、イエスさまではなく弟子たちでした。その弟子たちが後に“新生”します。
●4月2日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 最後の晩さん、…そのとき ✣
福音書はイエスさまの12弟子の一人ユダの裏切りを伝えています(マタイ26:14-16、21-25)。
ユダの裏切りは四つの福音書が取り上げています。イースター(復活祭、今年は4/16)前“レント(受難節)”の季節には、避けて通れないキリスト受難物語の一コマです。
なぜ、ユダはイエスさまを裏切ったのか?
ユダの裏切りについて、福音書は【…ユダの中にサタンが入った…】(ルカ22:3、ヨハネ13:27)と伝えています。サタンは“神の働き”を妨害します。“神に従う人”を神から引き離そうとします。その人の弱点を巧みに突いてくる。ユダもサタンに弱点を突かれたようです。
福音書が伝えるユダに関する情報から以下のことが推測されます。
1)お金に目がくらんだ(金銭欲)
ユダは会計係を任されていました。【…彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていた…】(ヨハネ12:6)と福音書は伝えています。
2)思い通りにならない苛立ち(イエスに失望)
ユダは熱心党に所属、政治的活動を行っていたようです。革命家としてのメシア(救い主)を期待したものの、イエスさまは武力を否定、祈りを強調します。彼はこの現実に失望。
3)隙を突かれた(油断した)
過越祭用の小羊を受け取りに行ったユダは、祭司らにイエスの弟子であることを見抜かれ、結果として裏切ることになってしまった。ユダは悲劇の弟子である…とする説。
いずれにせよ、ユダは最後の晩さんの席から夜の闇に消えて行きました。
●3月26日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男