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本日のマタイによる福音書13章のたとえ話は、パレスチナに住む農夫にはなじみの深い情景であり、実際に彼らが目で見ることができるものでした。毒麦は、農夫にとって最大の悩みの種であり、これを取り除くのに、彼らはたいへん苦労したといいます。
ここで「毒麦」と呼ばれている麦は「細麦(ほそむぎ)」と呼ばれる一種の雑草を指しており、苗の間はふつうの麦とほとんど見分けがつかず、穂が出て初めてその相違がはっきり分かるというものでした。しかも、そのころには、麦と毒麦の根が複雑にからみあっていて、毒麦を抜き取ると、よい麦まで一緒に抜いてしまうことになったのです。
細麦(ほそむぎ)の穀粒は、軽度ではあるものの、確かに有毒で、めまい、吐き気、しびれを起こし、かつ、麦の粉に少しでも毒麦が入ると、苦くて嫌な味がしたといいます。このような毒麦を除くため、打穀して製粉する前には女たちが雇われ、その手で選り分けられたということです。
この毒麦のたとえを通して、イエスは何を語ろうとされたのか、本日はこの箇所から、聖書のメッセージを聞いてゆきます。
●10月6日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の聖書であるテサロニケの信徒への手紙一は、新約聖書の中でもっとも古い文書、すなわち最初期に書かれた使徒パウロの直筆の手紙です。AD50〜51年ごろに書かれたと見られています。
パウロは、その5章で「主の日は盗人のようにあなた方を襲うことはない」と言います。それは、わたしたちが目を覚ましていることができるからだというのです。そこで、結論としてパウロは言います。「キリストがわたしたちのために死なれたのは、わたしたちが目覚めていても、眠っていても主と共に生きるようになるため」であると。
その次に、語られている言葉が有名な次の言葉です「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(口語訳聖書)
パウロの時代を生きた初代の信徒たちはユダヤ教とギリシャ・ローマの偶像の神という二つの大きな勢力のはざまで生きてきました。その中で、皇帝の権力に抵抗し、自らの信仰を貫くことは決してたやすいことではありませんでした。しかし、パウロは、それでもキリスト者の生が喜び、感謝、祈りの生であることを訴えるのです。
●9月29日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の箇所の前の章、マルコによる福音書5章で、カファルナウムの会堂長ヤイロの娘を癒された主イエスは、そのあと故郷のナザレにお帰りになりました。そこで、安息日をむかえ、会堂で、御言葉(みことば)を教えられ始めます。すると、多くの人々は「この人はこのようなことをどこから得たのだろう。…この人は、大工ではないか。」と言って、イエスの教えに耳を傾けようとしなかったばかりか、むしろイエスにつまずいたといいます。「つまずく」と訳される原語には、英語のスキャンダルの語源になっている動詞が使われています。その行為によって、多くの人を失望させ、或いはその信用を失ってしまうような行為をしたということです。
この事を、私たちはどう考えればよいでしょうか。イエスの華々しいカファルナウムでのデビューぶり、またその名声や預言者としての評判が、イエスの故郷、ナザレではそれほどよくなかったということを、私たちはどう捉えればよいのか。今朝は、ここに焦点をあてて、なぜイエスは故郷ナザレで人々に受け入れられなかったのかという理由について考えます。 そこから響いてくるメッセージに耳を傾けてゆきます。
●9月22日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の聖書であるダニエル書は、イスラエル南王国がバビロニア王ネブカドネツァルによって滅ぼされた後、バビロンに連れ去られたユダヤ人の中から、王の側近として仕えたダニエルに関する物語です。
ダニエルは、王の夢を解き明かすことによって高い地位を与えられました。そこで、彼は王に願って3人の者(シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ)を、バビロン州の行政官に任命してもらいます。しかし、彼らは王宮に仕える何人かのカルデア人(バビロニア人のこと)より、妬みゆえに、中傷を受けることになりました。すなわち、彼らが王の命令を無視して王の神々に仕えることをせず、また金の像を拝むことを拒んでいるというのです。「わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」(ダニエル書3:15) しかし、彼ら3人の行政官たちは、ネブカドネツァル王のこの脅しに対して、敢然と次のように答えます。「わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」 本日はここから神の言葉に耳を傾けます。
●9月15日 週報巻頭言 牧師 木村一充
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本日の聖書箇所である使徒言行録3章には、ペンテコステの日から、数日後に起きたエルサレム神殿での出来事が、たいへん印象的に記されています。
ペトロとヨハネが、午後3時の祈りの時間に合わせて、神殿に上っていきました。すると、生れながら足の不自由な男がそこに運ばれてきました。彼は、毎日この時間に合わせて、「美しい門」の前に置いてもらっていた、と聖書は記します。「運ばれる」とか「置く」という表現から分かることは、この男が一人の人間としてではなく、あたかもモノであるかのように扱われていたということです。
彼は、ペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。しかし、ペトロは答えて言います。「わたしには金や銀はない」これを聞いて、物乞いはがっかりしたことでしょう。しかし、その次にペトロが放った言葉、それが次の言葉でした。「しかし、わたしが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、彼の右手を取って立ち上がらせたのでした。本日は、この出来事から、神のメッセージを読み取ってゆきます。
●9月8日 週報巻頭言 牧師 木村一充