✣ 天地創造 ✣
旧約聖書・創世記は50章もある長編です。内容は大きく二つに分かれます。「創世神話(1-11章:天地創造、人の誕生と堕罪、ノアの物語、バベルの塔)」と、「族長物語(12-50章:イスラエル民族の起源)」です。
「創世神話」は非科学的で信じる価値は無い、という人もいます。私もかつてはそうでした。「創世神話」だけでなく、聖書そのものをクダラナイと決めつけていました。
そんな私も、あるとき、自分は知ったかぶりをするだけで、実際には何も分かっていないと気づき、聖書をきちんと読んでみたくなり、近所の教会へ行き始めました。牧師先生から“聖書の読み方”を教えていただくと、書いてあることの意味が徐々に分かるようになりました。「創世神話」は一見単純で馬鹿げた話のように思えますが、奥が深く、読む度に新しい発見がある。これには驚きました。今も、新しい発見があり感動しています。
【初めに、神は天地を創造された…】(創世記1:1)。このくだりは、読者を突然、神の前にひきずり出します。そして、“創造主と被造物”という世界観を前提とした話を押しつけて来る。こんな世界観があるの?と思いながら「創世神話」を読み進むと、それまで当前と思っていた価値観とは違う“豊かさ、慰め、希望”が迫って来るのです。
●7月2日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
「放蕩息子」のたとえ
主イエスさまは、ご自身が十字架刑に向かう定めにあることを想われている時、天の父である神さまが、どんなに失われた人を探し求め、愛のふところへ招きたいかを、どうにかして知らせたいとの思いを持たれ、この「放蕩息子」のたとえを語られました。
★ある人に二人の息子がいました。弟息子は早々と財産の分け前をもらい、放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たしてしまいます。そしてとうとう父のところに戻らざるを得なくなってしまいました。その時父は、弟息子を、仕方なしに受け入れるどころか、憐れに思い、一番良い服を着せ肥えた子牛を食べさせて大歓迎しました。一方、兄息子はその様子を見て不満がつのります。自分は何年も父に仕え、そむいたことはないのに子ヤギ一匹ももらえなかったと。その兄息子に対して父は、「兄息子よ、お前はいつも一緒にいるが、弟息子はいなくなったのに見つかったのだ。喜ぶのは当たり前だ。」となだめます。
◆私たちは、弟息子のように、自由奔放な生き方をしていようとも、兄息子のように、真面目にソツなく生きていようとも、神さまは変わることのない愛をもって、私たち一人一人を自分の子どもであるがゆえに、神の元に帰ることを待っておられます。
●6月25日 神学校週間礼拝 週報巻頭言 神学生 中根 淨(花小金井キリスト教会)
✣ わたしたちは主のもの ✣
榎本保郎著『新約聖書一日一章(ローマ人への手紙 P.281)』の一節が心に響きました。
『私が同志社に行っているとき、御所の庭で宗教部の集会が開かれた…20〜30名集まり…先生を迎えて話を聞いた。私は信仰を持っていない友人を一人連れていった…腰をおろして話を聞くことになったとき…先生は聖書と讃美歌を置いて、その上に腰をおろした。草のしみがつくからと思ってひょいとしたのである。そのとたん、私が連れていった友人は帰ってしまった。
聖書は一つの本であり…内容が大事…と言ってしまえばそれまでだが、人に対する配慮がなさすぎたと思った。人がつまずこうがどうしようが、わが道を行くというのではなく、信仰の弱い人のことを考えて、つまずかないようにしていくのが愛である。【キリストはその兄弟のために死んでくださったのです】(ロマ14:15新共同訳)。この言葉が、私の心が本当に開かれる一つの鍵となった。』
パウロはローマ教会にくすぶる問題に切り込みます。それは初代教会が抱える共通の悩みでした。キリストは違う意見の「あの人」のためにも十字架で死なれた。【キリストの愛がわたしたちを駆り立てている】(2コリント5:14)。だから、私たちは“光の子”として、互いに思いやりの心を持とう、というのです。
●6月18日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ キリストの愛を知る ✣
ある朝読んだ黙想書に“富士山”が取り上げられていました。日本で暮らす外国人が記した信仰の証しです。要約して紹介します。
『…晴れた日の夕方には、あざやかな夕焼けを背景にした荘厳な“富士山”が、美しい姿を見せます。しかし、雨の日や曇りの日、霧がかかっているときは、日本の最高峰は全く見えません。悪天候のときに、外国から初めて我が家へ来た人に、「霧のむこうに美しい“富士山”があるのですよ」と言っても、なかなか信じてもらえません。
これは“神の存在”を疑う人の反応に似ていると思いました。試練に直面して心騒ぐとき、そこに“神が共いる”と言われても、疑う人が多いのです。“富士山”はいつもそこにあります。雨雲や霧が視界を邪魔して見えないだけです。同じように、“天地を創造した神”は、どんなときも私たちと共にいてくださいます。そう思ったら、私は両手を広げて叫びたくなりました…』。
聖書は、【神は万事を益とする】(ロマ8:28)と約束しています。それにもかかわらず、私たちは自分の小さな頭であれこれ考え、悲観的な結論を下します。自分の基準で神を量り、神の働きに枠をはめてしまうのです。発想を転換しましょう。“神の愛”は、人の知識を超えて、広く深いのです。
●6月11日 初夏の音楽礼拝 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 新しい生活 〜応答する信仰 ✣
「ローマの信徒への手紙(ローマ書)」は、1-8章が教理(人の罪と福音の力)、9-11章はイスラエルの選び(選民の堕落と異邦人の救い)、12章以降は新しい生活(神への応答)の順で記されています。この手紙を書いたパウロは、これを読む人々(元ユダヤ教徒、異邦人)が、“キリストに結ばれている”という前提で話を進めます。
12章以降は、“キリストに結ばれている”という要点を外して読むと「壁」に跳ね返されるかもしれません。パウロの論点は、信仰の目標ではなく“信仰の実”が実際に結ばれること。
12章冒頭で、パウロは“キリストに結ばれた人”に【自分の体を神に献げ】【心を新たにして神の御心をわきまえ】【慎み深く生きる】ように勧めます。神の恵みに“応答する心”を持ちなさい。これが“新しい生活”です。
人の知恵や力では達成不可能でも、“キリストに結ばれた人”が“神の絶対恩寵(光)”に包まれるなら実現されるとパウロは語ります。
人は、礼拝に身を置き、聖書の言葉に養われ、祈ることによって、自分自身が更新され、キリストの似姿に造り変えられて行きます。
イースター後、50日目に起きた“聖霊降臨(ペンテコステ)”はパウロが語る“新しい生活”の証(実)です。人々は“恩寵(光)”の中で信仰の友らとの一体性、多様性、調和を備えたキリストの体(教会)を造り上げたのです。
●6月4日(ペンテコステ) 週報巻頭言 牧師 山田 幸男