✣ 嵐の中で聞く神の声 ✣
理不尽な理由でサタンと神の賭けの対象となったヨブ。「罪もない私に苦しみを与える神とは一体何者か」とヨブは激しく問い続けます。しかし神は沈黙されて答えません。
その神がついに嵐の中からヨブに答えられます。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」ヨブは逆に神に問われてしまいます。
わたしはお前の全てを知っているが、お前は私の何を知っているのか。自分の小さな知恵の故に悩んだり、疑ったりして生きているのはどうしてか。さあ目を開いてわたしの創造の業、この美しい世界を見よ。わたしはこの全世界と同じだけお前を愛している。神はご自身をヨブに示して下さいました。
「なぜですか」の答えではないけれど、神の声を聞くことによって、ヨブは心から悔い改め、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」という心を取り戻しました。まさに神がサタンに勝利した瞬間です。
栗ヶ沢教会では新しい牧師を求める日々が始まりました。自分の望みばかりを述べ立てず、時には黙して神の言葉を聞きたいと思います。
●10月15日 週報巻頭言 教会員 箕輪 治子
✣ 絶望から希望へ ✣
ルツ記は士師記と同じ時代を背景にしていますが、士師記とは対照的に、ルツ記の明るさは心を和ませます。
ルツ記のテーマは、第一は混乱の時代に生きた、神と人に忠実な人物を示す事です。主人公のルツは、異邦人モアブの女性で、姑のナオミの信じる主なる神を自分の神と信じ、ナオミの民ユダを自分の民として、故国モアブから、ベツレヘムにやって来たのです。
第二は神の深いご計画です。ルツは「たまたま」ボアズの畑に導かれ、彼と結婚します。彼は「買い戻し=贖い」の権利を持つエリメレクの親戚でした。そして外国人ルツとの間に子孫としてダビデ王が生まれ、更には主イエスがお生まれになったのです。
ルツ記はまた、美しい愛の物語とも言えます。その一つは、ナオミとルツの姑・嫁の愛であり、もう一つは、ボアズとルツの男女の愛です。
更には、姑ナオミの「行きて帰りし信仰物語」と言えるかと思います。
御教会は10月から新しい信仰の旅路が始まりました。旅路には困難や試練が伴うかも知れませんが、必ず主は解決の道を与えて下さると堅く信じて歩みたいものです。
●10月8日 週報巻頭言 平山 公司(アーク福音ミニストリー 牧師)
✣ 主は与え、主は奪う ✣
栗ヶ沢教会の無牧師の期間が始まりました。つい三ヶ月前まで私は、そんな日が今日訪れるとは全く思ってもいませんでした。思えば私たちの人生は、そうしたことの繰り返しで成り立っているのではないか…と、改めて感じさせられます。
旧約聖書ヨブ記の冒頭の1-2章は、一人の信仰深い人間の人生が、神の試みによって、急転落していく物語を伝えています。
ヨブ記の主人公ヨブは、イスラエルの民ではない異邦人でしたが、地上の誰よりも主なる神を畏れて、主に悪とされることを避けて生きていました。そんな彼は神の祝福の中でとても裕福に暮らしていましたが、ある日突然、10人の子どもと全ての財産を奪われてしまいます(ヨブ1:13-19)。悲嘆にくれるヨブは、それでも神を呪うことはせずに、言います。
「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)
私達がヨブの立場に立った時、同じように語ることができるでしょうか。苦難に遭った時、そこに神の大いなる意思が存在していると信じていても、「主よ、なぜですか!?」と言わずにはいられない…。そんな愚かな私達に、神様は御手を差し伸べてくれます。十字架の苦しみの後に復活された、キリスト・イエスの栄光を示して。
●10月1日 週報巻頭言 教会員 衣笠 壮
✣ 主イエスに結ばれた者として ✣
現代社会が抱える問題の一つに「無責任」があります。政治、経済の世界で、教育、医療、福祉の現場で、他にもさまざまな場所で「無責任」がまかり通っています。
「ケシカラン!」と叫ぶ私たちも、知っていながら知らないふりをする、自分のことは棚に上げて人を責める、上辺をつくろって済ませる等、家庭で、職場で、学校で、或いは教会で、自分の果たすべき務めを、いい加減にしていないでしょうか。
「現代は、先が見えない不安な時代だからやむを得ない…」という人もいます。しかし、こういう時代だからこそ、“真実の光”が必要ではないでしょうか。
では、“真実の光”を世に届けるのは誰か? 聖書は、神の手足として召し出された“キリスト者”だ、と言っています。ところが、“キリスト者”の福音理解が不十分、言動が「俗人」と変わらない…これでは“真実の光”は輝きません。
使徒パウロは、初代教会のそのような“キリスト者”に対して、【あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者になりなさい】(エフェソ5:1)と厳しく戒めました。
旧約聖書「士師ギデオン」の晩年の物語は、立派な実績を残した信仰の人も、例外なく「世俗化」する教訓を伝えています(士師記8:27)。牧師退職に際し、私はこの物語を心にしっかり刻もうと思います。
●9月24日 週報巻頭言 牧師 山田 幸男
✣ 神と共に豊かに生きる ✣
今回の青年が作る礼拝は「神と共に豊かに生きる」をテーマにしております。私たち青年会は、新約聖書(ルカ12:13-21)のみ言葉と、それぞれが持ち得た知見を通して、このテーマについて考えたいと存じます。
イエス様のみ言葉である上記ルカの福音書では、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とありますが、イエス様がご降臨される以前の記録である旧約聖書においても、「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8:17-18)とあり、謙虚な気持ちで主と向き合うことが説かれています。
世界では、軍事力による国家間の挑発行為、宗教の名を騙って行われる弱者への暴力、多民族国家の中の国なき民の問題、依然存在感を示している自民族中心主義等々、心が痛むことや不安にさせることは枚挙に暇がありません。
しかし、そのようなときであるからこそ、苦難に苛まれる人々に心を寄せるとともに、今一度イエス様のみ言葉に立ち返り、主との向き合い方を見つめ直すときなのではないかと信じます。
●9月17日 青年がつくる礼拝 週報巻頭言 教会員 T. Y.