✣ 反面教師バビロン ✣
「バビロン捕囚」(BC586〜538)は、今から2,500年余り前のイスラエルの民に降りかかった災難だけにとどまらない。科学文明の恩恵のなかに生きる、私たち現代人こそ、「バビロン捕囚」の真っ只中にあると言える。「バビロン」は、神の言葉に耳を傾け神に向かわせようとする心を閉ざさせ、失望させ、神を見失わせるものの象徴だからである。私たち、特に現代の多くの日本人は、神無しでも結構楽しく、面白く暮らしている。神を必要としない風潮が、大手を振っている状況にある。
しかし、神はその大きな愛を以って私たちにかかわろうとされる。それは私たちが、滅びの民となってはならない、神の造られた、神にあって大切なかけがえのない存在だから。ゆえに「バビロン捕囚」は、私たちにとっても必要悪、反面教師として位置づけられる。それは、私たちにとって「試練」でもある。神から離れようとする誘惑・罪に対して、自らを省み、神に立ち帰るべき「気づき」をもたらす大切な機会である。その気づきこそ、主イエスの苦しみ・愛の深さを覚えるときだ。神の配剤に感謝、感謝。
●3月25日 受難週 週報巻頭言 齋藤 隆(前・逗子第一教会 牧師)
✣ 父よ、彼らをお赦しください ✣
イエス様は十字架上で七つの短い言葉を発せられました。受難週を前にして、改めてそれらの言葉を聞きたいと思います。最初の一言は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」というものでした。苦悶のうちに血が流れ、やがて死を迎えようとしているその瀬戸際に、父なる神へ向かってのとりなしの叫びでした。 彼らとは十字架へ追いやった世の敵対勢力だけではなく、神の被造物である私たち全ての人間を指していると思います。父なる神と人の狭間に瀕死の身を置いて、自らの命を犠牲として捧げることにより、造り主との応答に生き得ない人の罪を許してください…との祈りでもありました。
産業や科学技術の発展が著しい現代において、神とイエスキリストに対する無関心、あるいは神など必要としない驕りが、蔓延しているように感じます。むさぼりや力の支配を強める姿には、「自分が何をしているのか知らない」という十字架上の言葉が、今を生きる全ての人に向かって発せられているように思います。とりなしの犠牲により、私たちは赦される。その恵みの声に耳を傾けたい。そして具体的な生き方、何がみ旨にかなうあり方なのかを模索したいと願います。
●3月18日 週報巻頭言 教会員 渡辺 光雄
✣ その名はレギオン ✣
多くの悪霊に取り付かれた男「レギオン」が、「墓を住みかとして暮らしていた」! この男が主イエスから悪霊を追い出してもらい、正気になって社会復帰したという、…何とも奇妙な記事。
が、墓を住みかとしたこの人こそ、現代の私たちの生活の姿であると、聖書は語っている。当然私たちは反論する。私はマンションに住んでいる、あるいは私は一戸建ての家に住んでいる、墓などには住んではいない、と。ところが神の眼からは、様々な不安・孤独の中に生きる私たちの姿こそ、あのレギオンなる男の如しと映る。私たちを取り巻く環境…核爆弾の恐怖、汚染された大気・土地の食糧(原発事故の放射能汚染・PM2.5濃度・農薬の付着した野菜・抗生物質づけの若鶏や養殖魚など)。さらに陰湿な「いじめ」、「スマホ依存症」の孤独感など、…これこそ、笑いもない・希望もない墓場での暮らしということになる。
この状況・風潮は私たちの力ではとても抑えようがない。急がば廻れ。私たち一人一人が主イエスの招きにしっかりと向き合うことこそ、基本であり、最も大切なこと。主イエスは今日も招く、「他ならぬわたしこそ、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。この招きにしっかり従いましょう。
●3月11日 週報巻頭言 齋藤 隆(前・逗子第一教会 牧師)
✣ イエスのまなざし ✣
十字架にかけられる前にイエスさまが滞在されたエルサレムでは、入れ代わり立ち代わり律法学者らと問答が交わされ、本日の聖書箇所(マルコ12章35〜44節)で、イエスさまは律法学者らの教えやその振る舞いを否定したうえで、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と手厳しく批判します。また、イエス一行のエルサレム入城後の律法学者と、その背後にいるユダヤ教の各宗派からは、イエスさまに対する「恐れ」がありありとうかがわれます。
対してイエスさまは、神殿の中で献金をしていく群衆の中から、たった2枚だけの銅貨を入れた1人の貧しいやもめの女性を見出し、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」とおっしゃいました。
この「権威を持つ」とされていた律法学者らからイエスさまに向けられた「恐れ」のまなざしと、社会的地位が低く貧しいやもめの女性に対してイエスさまが向けられた情け深いまなざしの違いは、いったいどこからくるのでしょうか。
本聖書箇所の前後の文脈と、時代背景を総合的に検証し、世俗的な観点も踏まえながら、皆様とともに考え、そこから発せられるメッセージを読み取りたいと思います。
●3月4日 週報巻頭言 教会員 T. Y.
✣ 苦難を担った人物 ✣
南ユダ王国は、前6世紀の初めに大国バビロンとの戦に敗れ、国の中心だった人々は捕囚として敵地に連れ去られた。約60年後、ペルシャがバビロンを滅ぼすと、民は解放されて祖国に帰還した。この時代に、旧約聖書のエベレストにも例えられる「苦難の僕(しもべ)」は記された。
その人物は、輝かしい風格も容姿もなかった。軽蔑され、人に見捨てられた。自分自身の罪科ゆえに、悲哀の中を這いずり回っていると思われた。しかし、僕本人が悪いのではなかった。私たちの罪科ゆえだった。彼は他人の身代わりとして苦難や痛みを担い、とうとう死に渡される。
いつの時代も、人間は意識するか否かは別にして、他人に犠牲を強いて生きていないだろうか…。東日本大震災に依る原発事故で、福島の子ども達の甲状腺癌の罹患率は驚くほどの数値だと聞く。しかも被災は今も続く。イエスのご受難と十字架上の死は何だったのか。人間に死をお命じになった神は、その人間を心から愛しておられる。矛盾とも思える事の解決には、ご自身が痛むしか道はなかったに違いない。
十字架に依る主の死は、我々人間の心の奥底にある罪の購いである。ご受難は我々の苦悩を理解するためなのか。レントの日々に、あらためて主のご受難と死の意味を考えてみたい。
●2月25日 週報巻頭言 古賀 公一(花野井バプテスト教会 牧師)