✣ あしあと ✣
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
(マーガレット・F・パワーズ作)
●11月19日 週報巻頭言 教会員 播磨 実結
✣ イザヤ書 〜審判と回復〜 ✣
●イザヤ書は66章からなる壮大な預言書です。分量的にも、また内容においても、偉大な書であると言えます。神の救いのご計画の全貌がここから見えてきます。
●イザヤ書は、二つ、或いは三つに分けられると言われています。二つの場合は、1〜39章までの部分と40〜66章までの部分です。三つの場合は、第一イザヤ(1〜39章)、バビロン捕囚前にエルサレムでの40年間に語った預言。第二イザヤ(40〜55章)、バビロン捕囚地での預言。第三イザヤ(56〜66章)、バビロン捕囚からの帰還後の預言。
●預言された期間は約60余年間に及ぶようですが、全体としては一貫した、神の啓示によって語られた書として読まれます。イザヤ書全体の主要メッセージは「審判と回復」です。この二つのキーワードはそれぞれ別個のものではなく、「神によって裁かれた民が、神によって回復させられる」という繋がりがあります。しかもその回復は人間的に見るならば不可解極まり無い事柄ですが、それはただ、神から油注がれたメシアによって実現するのです。それが「福音」と言われるものです。メシアの再臨によってこの地上に完全に実現する御国なのです。そこには、神と神によって選ばれた民イスラエルとの壮大な愛のかかわりのドラマが啓示されているのです。私たち異邦人の救いもそのご計画の中に組み込まれているのです。
●11月12日 週報巻頭言 教会員 面川 正史
✣ 復活を否定する人々とイエス ✣
復活を否定する人々がイエスさまに近寄り、あれこれ質問しました。イエスさまは、「復活するのにふさわしいとされた人々」のことを告げ、その人たちは「天使に等しい者」「神の子」であり、あなた方とは違うと突き放しました。
同じ話がマタイとマルコの福音書にもあります(マタイ22章、マルコ12章)。そちらでは、直後に【最も重要な掟(神と人とを愛せよ)】が記録されています。
「あなたは全人類を愛しますか?」と問われたら、「はい、愛します」と誰もが答えるでしょう。しかし、「今、そこにいる人を愛しますか?」と問われたら事態は一変します。現実を直視させられるからです。
復活を否定する人々に、イエスさまは神の絶対恩寵(最後の審判後の世界)を語る。人の理解を超えた雲の上の世界の話です。飛行機で雲の上を飛んだことのある方はご存知でしょう。眼下の雲が太陽の光を反射、眩しい銀世界が広がる。夜は満天の星空。雲の下では人々が雨風に悩まされている。でも、雲の上はいつも穏やかです。
イエスさまがいる所。そこは地上の条件に縛られない世界(神の国)だ、と聖書は教えます。すべて任せてよい世界がある。あなたも絶対恩寵の対象です。イエスさまがあなたを招いています。
●11月5日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 山田 幸男(前・栗ヶ沢バプテスト教会 牧師)
✣ 沈黙の神様 ✣
一切皆苦。生も苦、老いも苦、病も苦、死も苦。人生は苦しみの連続です。せめて「苦しみ」の根源的な原因がわかれば慰めにもなり、解決策も立てられるのですが、思い通りにならないのが「苦しみ」です。
人生の「苦しみ」に対する最も原始的で直感的、かつ数多の宗教が主張する解答が「因果応報論」です。「悪い行い」をすれば、「悪い報い」として、病気や事故、身内の不幸、その他あらゆる災いと苦難がやってくる、という考え方です。この思想の危険性は、「幸福な人」には「善い行いの結果、今の幸いがある」として、権力者の蛮行や金持ちの悪行を正当化すること、また、苦しむ弱者には「悪行の結果、今の苦しみがある」と迫り、さらに多大な苦しみを負わせて憚らないことにあります。人は罪ある自己中心的な動物ですから、自分を甘やかし隣人を裁くために、この因果応報論を都合よく用いるのです。神様の愛から離れ、隣人愛から離れ、弱者を裁き、自分の悪行を正当化する。新約聖書における祭司や律法学者、ヨブ記におけるヨブの友人たちの態度がまさにこれでした。因果応報論に基づく彼らの主張は直感的でわかりやすく、また正当なように思えます。しかし、それは神様の御心なのでしょうか。
イエス様は明確に答えておられます。「(この人が苦しむのは)本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ福音書9:3)」今回は、ヨブ記からこの「人生の苦しみ」について聞きたいと思います。
●10月29日 週報巻頭言 教会員A
✣ 「わたし」のもとに ✣
本日のメッセージ主題は「『わたし』のもとに」です。その「わたし」と言われるお方について、共に聞き、共に出会って行きたいと思っています。一方、そのメッセージを取り次ぐ私は何者なのか、その自己紹介をいたします。
私は福岡県の久留米キリスト教会の牧師家庭にて生まれ育ちました。ゆえに神の存在を絶対的価値として抱き、11歳の頃にバプテスマを受けクリスチャンとなりました。教会という場所が家庭であり、教会員は家族でした。両親はもとより、私を囲む多くの信仰者の生き方から多くのことを学び、そこに神存在のリアリティー、そして十字架の主イエス・キリストの救いを確信して、今日まで歩んできました。途中「牧師にだけはならない(なれない)」と豪語していた私でしたが、大学浪人期の19歳の時に「神学校に行きなさい」との招きが胸に響き、献身、そして21歳で神学校の道に進みました。それは私の思いではなく、「わたし」たるお方の御計画であったと信じます。26歳で神学校の学びを修め、函館6年、別府12年半、そして現在の相模中央教会での務めにあたらせて頂いています。
牧師としての最大の喜びは、何よりも「バプテスマ」です。一人の人がイエス・キリストに救われること、これ以上の喜びはありません。一期一会、主が設けてくださった皆様とのかけがえのない出会いに感謝し、私ではなく「わたし」たるお方との出会いのみが皆様の心に記憶されることを願い、ご奉仕させて頂きます。
●10月22日 週報巻頭言
秋の特別伝道礼拝 講師 吉田 真司(相模中央教会牧師)