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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-27 10:55:45 (812 ヒット)

✣ 西郷隆盛〜その愛とゆるしの生涯

    「『西郷隆盛と聖書』(著書)は、あの大西郷と言われた人物が、自殺未遂をする場面から物語は始まります。それは、西郷の光の部分を描くだけでなく、一人の人間として、その心に闇を抱えていたという事実を明らかにし、その闇にどのように打ち勝っていったかという真実を知って欲しかったからです。
    “人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人をとがめず、我が誠の足らざるを尋ぬべし”
    これは、西郷さんの言葉です。ここで、西郷さんは、“天を相手にせよ”と繰り返し述べています。また、西郷さんの言葉に次のようなものがあります。“天は人も我も同一に愛したもうゆえ、我が愛する心を以って人を愛するなり。” “天”という言葉は、西郷さんが信奉した陽明学にも出てきますが、“天がすべての人を愛している”という教えは、西郷さんが、漢訳聖書を熟読した結果、遂に発見した真理だったのです。」(「Good News しらかば vol.17」より抜粋)

●10月28日 週報巻頭言
  秋の特別伝道礼拝 講師 守部喜雅先生
 《講師プロフィール》
  1940年 中国上海市生まれ
  1977〜1997年 クリスチャン新聞編集部長
  1998〜2004年 月刊「百万人の福音」編集長
  現在 クリスチャン新聞編集顧問
           日本基督教団新宿西教会 教会員


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-20 19:45:12 (783 ヒット)

✣ 神はわがやぐら ✣

    『旧約聖書一日一章』著者の榎本保郎氏は、詩編46編のメッセージで、マルティン・ルターについてこのように書いている。
「彼の宗教改革は決してスムーズに行ったわけではない。終始誤解され、そのため多くの人からののしられ、悪魔呼ばわりまでされた。時には彼の心は、すっかり滅入ってしまった。妻が彼の部屋に喪服ではいっていき『神がなくなりました』と言ったおかげで、彼の心に再び光が与えられたこともあった。それほどにルターの苦悩は大きかったのである。」
    宗教改革の中心人物であるルターは、その困難の中で、詩編46編を絶えず口ずさみ想を得て「神はわがやぐら」を作詞作曲した。この賛美歌はルターの最もよく知られた賛美歌で、日本の教会でもよく用いられている。ちなみに、日本バプテスト連盟発行の『新生讃美歌』にも取り上げられており、私たちにもなじみ深い。
    詩編46編を絶えず口ずさみ、救いの光を見い出したルターの信仰告白とも言えるこの賛美歌。苦難の中にあって、神が避難所となってくださり、盾となってくださり、共にいてくださるという確信をもち、神に信頼して生きる時、私たちに恐れはないのだと励まされる。

●10月21日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-13 14:20:33 (823 ヒット)

✣ 顧みてくださる神 ✣

    詩編8編の作者は、神の偉大さ、神の業の偉大さをほめ讃える一方で、人間の弱さ小ささ、被造物としての人間の限界をあらわし、この賛美を口ずさむ者に、人間とは何かという聖書の人間観を探らせている。
    今日の聖書の6〜9節は、創世記の創造物語を思い起こさせる。神は、ご自分にかたどり、ご自分に似せて、ご自分に僅かに劣るものとして人を造られた。そして神は人間に栄光と威光を譲渡し、神によって造られたものをすべて治めるように人間に託したのだという。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31前半)。神が「極めて良かった」と宣言されたものをそのまま人間が守り続けることは容易ではない。しかし、主のみ名は力強く、全地に満ちており、人間は、神に代わって被造物全体を治める責任を引き受ける覚悟をしなければならないのである。
    今日、人間の傲慢によって自然が破壊され、生態系が破壊され、地球温暖化が進み、すべての被造物が呻いている現実を私たちは目の当たりにしている。この現実の中で、私たちは自らの限界を思い知らされ苦悩している。神の憐れみを願い、「立ち帰れ」との神の招きを聴いていきたい。

●10月14日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-06 11:21:38 (813 ヒット)

✣ さいわい ✣

    「いかに幸いなことか」で始まる詩編。この書には、古代イスラエルの人々の祈りや賛美の言葉が150収められています。興味深いのは、神を賛美する歌、神を信頼する歌に比べて、深い嘆きの歌がとても多いということです。全体の約三分の一が「嘆きの歌」になっているようです。このことは、詩編には人間のあらゆる現実が表されているということなのでしょう。なぜなら、私たちの人生は、嬉しいことや喜ぶことよりも、辛いことや、苦しいこと、悲しいこと、悩むこと、怒ること、落ち込むことの方が多いと言っても過言ではないからです。それゆえ自分の苦しみ、悲しみ、怒り、嘆きを隠すことなく率直に神に訴える歌がたくさん収められている詩編は、これまで無数の人々の人生を支えてきましたし、今もこれからも、人々は詩編の祈りや賛美の言葉に支えられていくに違いありません。
    詩編は、原典のヘブライ語では「賛美」として伝承されています。賛美という語感にふさわしくない「嘆きの歌」が圧倒的に多い詩編がなぜ賛美と呼ばれるのか、信仰の内実を探り、また「さいわい」を告げる神の祝福の言葉から始まる詩編が、私たちに指し示している神のみ旨のありかを探し求めていきたいと思います。

●10月7日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-28 16:49:10 (857 ヒット)

✣ サムソンに思うこと ✣

    私が得意なことってなんだろう?
    私の長所ってどこだろう?
    人に認められたい。人に誉められたい。そんなことに思いを巡らしたり、願ったりすることは私の自由。けれどもその前に祈りたい。十分にいただいている霊の賜物を、神さまの前で正しく使わせてくださいと。得意なことや誉められることがあったら、神さまに感謝できますようにと。私の中のサムソンが暴れ出しませんようにと祈りたい。

●9月30日 週報巻頭言(1)  教会員  入江 恵里子

****************

    イエス様とサムソンの性質は、比べるのがはばかれるくらい異なる。
    ところが、サムソンが受けた、苦難の経緯が、イエス様の受難と類似していることに驚く。どちらも、その人間技とは思えない能力を発揮し、その結果として、支配者に敵意を持たれ、銀貨の対価によって、裏切られ、肉体的な苦しみ、観衆の嘲笑いを受けながら引き立てられ、死に場所として、二つの柱の間に立たされた。
    傍若無人に行動し、ついには神様の誓願を破ってしまったサムソンと同様の肉体的苦痛、そして衆人による侮辱とあざけりを、イエス様は何の罪もなく受けられた。
    それは、私の罪を負ってくださったから。
    サムソンは、自らの罪を、自らが償ったが、私の罪は、イエス様が贖ってくださっている。だから、私には、サムソンを指さして、何か言えるような資格などない。

●9月30日 週報巻頭言(2)  教会員  武若 智之


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