✣ 平和を希求し、非戦を誓う ✣
「…摩文仁(まぶに)の丘、眼下に広がる穏やかな海。悲しくて、忘れることのできないこの島の全て。私は手を強くにぎり、誓う。奪われた命に想いを馳せて、心から、誓う。私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと。全ての人間が、国境を越え、人種を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。生きること、命を大切にできる権利を誰からも侵されない世界を創ること。平和を創造する努力を、いとわないことを。あなたも、感じるだろう。この島の美しさを。あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。今を一緒に、生きているのだ。だから、きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。戦力という愚かな力をもつことで得られる平和など、本当はないことを。平和とは、当たり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。…」(浦添市立港川中学3年 相良倫子〔さがらりんこ〕さんの詩「生きる」より)。
●8月12日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 人間の尊厳 ✣
創世記16章と21章には、アブラハムの妻サラと、彼女に仕える「女奴隷」のハガルという二人の女性が登場します。当時、女性の存在意義は、家系を絶やさないように男子を産むことにあり、女性にとって不妊は最も辛いことでした。高齢に達したサラは神の約束を信じて待つことができず、自分の権力を行使し、ハガルによって自らの子を持つ企てを立てました。サラは、女性であるがゆえに抑圧されている自分を認識できなかったのか、被抑圧者として連帯するのではなく、別の女性の尊厳を無視し利用しました。しかし、それは当時の父権制社会では法的に許されている習慣でした。社会的な正しさの多くは支配構造を支えるためにあり、その必然的結果として弱い立場にある者の尊厳を脅かし、侵すものとなってしまいます。
先日、国会議員の女性がLGBT(性的少数者)の方たちを指して「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と述べ、問題になっています。この発言の背後には多くの支持者がいることは明らかです。生産性のあるなしで人間が分けられ、弱い立場の者が排除されるこの社会。教会はそれを否とし、命に意味があると言い切っていきたいと思います。
●8月5日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 約束の子 ✣
「書物を買い求めるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も買い求めることができればである。・・・良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである(ショウペンハウエル)」。
この世は、様々な情報で溢れています。しかし、人生で本当に会得しなければならない情報は限られています。中東の片田舎で生まれ育ったイエス・キリストは、わずか3年半の働きをもって、「すべて成就した」と言い残して息を引き取られました。この短い期間の御業が2000年の長きに渡り、全世界を導き続けています。新約聖書にはその奥義が凝縮されています。旧約聖書はさらに数百年の時を加えて、未だに人々の魂を養い続けています。
「神は死んだ(ニーチェ)」との宣言からすでに百有余年。聖書の出版数は60億を越えて、世界一の発行部数を保ち続けています。この事実こそ奇跡と言えるのではないでしょうか。この奇跡の書は、読めば読むほどに誰もがその深遠な真理に驚かされます。本日は旧約聖書と新約聖書から、全地の創造主たる神様から「約束の子」として選ばれた私たちへの語りかけを、イエス・キリストの福音の光に照らして読んでみたいと思います。
●7月29日 週報巻頭言 教会員A
✣ 子どもたちの幸せを願って ✣
以前、連盟宣教研究所発行の研修用冊子『教会と暴力』第3章「子どもへの暴力」に拙文を書かせていただきました。
「……今日、わたしたちの社会にはさまざまな暴力の問題があり、その中で、成人に比べて、決定権、経済力、法的な「力」などを奪われやすい弱い立場の子どもたちが、「力」を持つ者からのさまざまな暴力によって傷つき、痛み、悲しんでいる現実があります。教会に集う子どもたちの中にも、暴力を受けて苦しんでいる子がいるかもしれません。子どもたちは、この社会において、今ここにいる存在として認められるよりは、おとなの予備軍として将来のために生きることを求められ、……また、教育の現場では、国にとって都合のよい人づくりという国策により、子どもたちの自由がだんだん奪われています。子どもたちは、教会に来るまでの一週間、家庭や学校で、楽しいことばかりでなく、悲しいことや辛いことも経験し、いろいろなものを背負って来ているのです。教会は、豊かな交わりの中で、み言葉を通してイエス・キリストを伝え、子どもたちをケアし、子どもたちと共に生きる群れです。……子どもたちの現実を知り、子どもたちの伴走者、支援者となることが求められます……」。
昨日から夏期学校が行われています。教会は、この時代この社会で、子どもたちが幸せに生きることができるようにと祈りつつ、今朝の合同礼拝をささげます。
●7月22日 夏期学校合同礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 被災地をおぼえて ✣
この度の西日本豪雨による被害は13府県におよび、各地に甚大な被害をもたらしました。この豪雨による多くの死を悼み、家族、親族、友人、知人の突然の死に直面し、苦しみ悲しみの中にある方々に主の慰めと支えがありますようにと祈ります。また、避難所での生活を余儀なくされ不安と困難の中にある方々、この暑さの中で必死に行方不明者の捜索をしている方々、復旧作業や片付けなどで大変な方々、皆様の健康と安全が守られますよう祈ります。
さて、今回のような緊急事態が起こる度にいつも考えさせられるのは、教会の宣教についてです。「大雨の被害お見舞い申し上げます。シャワー貸します!16時〜20時、何かお困りごとがありましたらご相談ください。電話番号……」、先々週、北九州市を襲った豪雨の際に、H教会の前に立てられていた看板です。しかし、こういったことはとっさにできることではなく、教会が日常的に自分たちの教会の宣教について考え活動しているからこそ、できることなのです。東日本大震災の時も、日常的にやっていないと緊急時への対応が難しいことを痛感させられました。私たちはよく「地域に開かれた教会」という言葉を使います。が、具体的にはどういうことでしょうか。栗ヶ沢教会にとっての「地域に開かれた教会」、一緒に考えたい課題です。
●7月15日 週報巻頭言 牧師 村上 千代