✣ 新しい年に向けて ✣
2018年が終わろうとしています。今年最後の主日礼拝となりました。この一年、教会の礼拝を一度も欠かすことなく無事にささげられたことを感謝しています。この二十数年間、大きな災害が起こるたびに、教会に集って礼拝をささげることが決して当たり前のことではないと知らされてきました。いつ何が起こるかわたしたちには分かりません。一回一回の礼拝がとても貴重です。毎週、一回限りのその日の礼拝が無事にささげられたことを主に感謝せずにいられません。新しい年も、毎週の礼拝を当たり前のこととせず、一回限りのその日の礼拝を大切にしていきたいと思います。
また今年は、教会にとって大きな変化の年でした。1〜3月の無牧師期間を経て4月から新しい体制になりました。無牧師期間は、様々な困難の中で、教会員の祈りと献身、近隣教会の祈りと協力によって、その時を乗り越えてきたことをおぼえます。そして新体制になってから早や9ヵ月、とにかく皆で祈りを合わせて進んできました。この一年、教会がどのような時も、主の伴いと、導き、支えがあったことは言うまでもありません。恵みに感謝し、新しい年はどのようなビジョンを共有して歩むのか、皆で考えたいと思っています。
●12月30日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 輝く星に導かれて ✣
先週の宣教で、婚約者マリアが神の子を宿しているという、とんでもない出来事に巻き込まれたヨセフが、混乱し、揺れの中で考え続け、「恐れるな。私は共にいる」という神の言葉に信頼してマリアの胎内にいる子を引き受ける決断に至った話をした。
ヨセフは生物学的父性をもたないまま社会的父性を引き受けたのだ。それゆえマリアは安心して子どもを産み、その後も、ヨセフは母と子を守り続けた。ヨセフ物語が示す社会的父性は、子どもの虐待などの問題が深刻な今日の社会で重要性をもつと大嶋果織氏(元NCC教育部総主事)はいう。
社会的父性は、生物学的な父に限らず、母親でも友人でも、これを引き受けようとする者なら誰でも担える。子どもたちが安心して生きることができるよう地域ぐるみで「社会的父性」を引き受ける必要があるのではないかと考えていた矢先、東京都港区の児童相談所を含む総合施設の建設に反対する声をテレビで聞いた。差別、偏見…。
クリスマスは、キリストがこの世の権力者や、経済や政治の中心にではなく、多くの苦しむ人々の中に生まれたことを教えてくれる。イエスの誕生を祝う私たちは、悲しみや苦しみにある命へと心を向けるよう輝く星に導いていただきたい。
●12月23日 クリスマス礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 一緒にいてくださる神さま ✣
アドベント第三主日の今日、クリスマスを祝う子どもたちと一緒に礼拝する。合同礼拝での子どもとは、教会学校と「くりくりあおぞらくらぶ」に集う小学生の年齢の子どもたちである。日頃なかなか接点のない「くりくりあおぞらくらぶ」の皆さんと、顔と顔を合わせて共に礼拝できることを嬉しく思い、主に感謝している。
合同礼拝の考え方はさまざまだが、私たち栗ヶ沢教会が合同礼拝をもつことの目的は何かと考えさせられている。通常の礼拝に子どもたちをお客さんとして招くことを合同礼拝と考えるのか。それとも、子どもたちも礼拝をつくる一員として一緒に礼拝をつくっていくのか(例えば、アドベントクランツのキャンドルの点火や聖書朗読の奉仕を担う、等)。前者と後者では、礼拝式は大きく違ってくる。子どもを主体にすると、子どもの集中力を考えてメッセージは10〜15分、礼拝式全体の時間は45分だといわれている。子どもは授業でその時間の長さに慣れているという理由からだ。合同礼拝は、今後考えていきたい課題である。
いずれにせよ、子どもを愛し、受け入れ、どんな時も一緒にいるよと子どもたちを招くイエスが、集った一人ひとりに出会ってくださるようにと祈っている。
●12月16日 第3アドベント合同礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ イエスの系図 ✣
某テレビ局の番組で、ゲストのルーツをたどる番組を見たことがある。ゲストの方の家系図をもとに、親の代から数世代前まで遡って調査し、それぞれの時代を生きた方々の苦労や生き様、功績、歴史に名が残る有名な人との関係などを紹介する番組である。ゲストの方は、それまで知ることのなかった家族の歴史を知って感動する。
系図というと、そのような家父長制的な家系図をイメージする。しかし、マタイによる福音書のイエスの系図は、私たちが通常考える系図とはまったく違う。イエスの系図は、「単なる家門の真正性の証明ではなく、信仰告白に導かれた歴史解釈を表現したものにほかならない」(関田寛雄)。それは、神によるイスラエルの選びと救済の歴史を顕し、アブラハムからイスラエルの歴史全体の完成であるイエス・キリストへと向かう系図である。イエスの系図には、父の名だけでなく女性の名も記されている。名もなき少女でしかなかったマリアと、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バト・シェバ)。社会的に弱い立場の女性、蔑まれ差別されている外国人女性、倫理的に問われる女性。父系社会の中で、悩みや痛みを抱える女性たちがイエスの系図に組み込まれている意味を考えたい。
●12月9日 第2アドベント 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ うたがう者をも ✣
今日は、アドベント(待降節)第1主日、そして世界バプテスト祈祷週間(以下、祈祷週間)最終日をおぼえて礼拝します。
私たちが世界宣教のために祈りささげる祈祷週間は、アドベントの頃に時期が定められていますが、それには理由があります。「クリスマスは、家族や友人が『神からのもっとも偉大な贈りもの』を覚えて、互いに贈りものを交換する喜びの季節です。神はこの『贈りもの』を祭壇にそなえて、人類の救いを完成してくださいました。このクリスマスは、富める者はその豊かな富から、貧しい者はその貧しさの中から、心いっぱいの捧げものをして、この喜びの訪れが、世界の果てにまで届くようにと祈るべきではありませんか」(ロティ・ムーン)。
ロティは農村伝道に携わる中、飢饉で飢えに苦しむ人びとに仕えました。とうとう自分自身の体が弱り、アメリカに戻る途中、クリスマスイブの日に神戸の港で主の許に召されたのです。中国でのロティの働きは、彼女の献身によるものではありますが、一人の罪人に過ぎない者を愛し、ゆるし、キリストの弟子として立て、苦難の中で共に苦しみ支えてくださった主の業によるものです。そして会ったこともない多くの人の祈りがあったからなのです。
●12月2日 第1アドベント・世界バプテスト祈祷週間 週報巻頭言
牧師 村上 千代