✣ 教会学校月間 ✣
9月は、日本バプテスト連盟(以下、連盟)が推進する教会学校月間です。この月間は、歴史をさかのぼると、1950年以前から教会学校の働きをおぼえる「教会学校週間」として推進されており、1988年以降、「週間」が「月間」になって、それぞれの教会が自分たちのスタイルに合ったかたちで教会学校の働きをおぼえるプログラムを持つようになったと言われています。
教会学校は、子どもたちだけでなく全年齢層の教会学校であり、連盟諸教会は、礼拝式と教会学校で主日礼拝と位置づけ、教会学校の働きを大切にしてきました。学校と言っても、それは教師が生徒に教える場ではなく、クラスに集う一人ひとりが聖書を読み、み言葉に聴き、分かち合う、共同学習の場です。そしてもう1つ大切なことは、相互牧会の場だということです。クラスメンバーが互いにおぼえ合い、祈り合い、支え合っていく、そのような教会学校をこれからも続けていきたいと思います。
「教会学校の目的は、その活動を通して、すべての人々がイエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことにある」(連盟1971年制定、1999年改訂)。
●9月2日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 青年がつくる礼拝 ✣
今年で、10回目の「青年がつくる礼拝」を迎えることができました。全てを整えてくださる神様に感謝します。
「青年がつくる礼拝」は9年前から始まり、年に一度、青年が主体となって礼拝に関わり、準備して捧げています。始まったきっかけは、教会の皆さんに青年会のメンバーを知ってもらいたい、青年の抱いている思いや自分たちの信仰の歩みを分かち合いたい、という思いからでした。そして、教会に繋がるメンバーとして、教会の方々と一緒に私たちにもできることをしていきたい、という決心でもあります。
就職や結婚などにより、青年会のメンバーは変わることもあるので、年度初めの例会の中で、今年はどうするかという話し合いを持ちます。今年も、全員一致で「青年がつくる礼拝」を捧げることが決まりました。今年のテーマは『帰る場所』です。未熟な私たちは、日々の仕事や生活に追われて、神様を忘れてしまいそうな時があります。そんな時に、私たちの救い主であるイエス様のところへ帰り、励まされてまた歩んで行くことができるようにと、このテーマにしました。
栗ヶ沢教会の皆さんと礼拝を捧げられる喜びを噛み締め、感謝して奉仕させていただきます。
●8月26日 青年がつくる礼拝 週報巻頭言 青年会 播磨 実結
✣ アブラハムのこだわり ✣
イスラエルの族長アブラハムは、イスラエルの信仰の父と仰がれ、その妻サラは、信仰の母と呼ばれています。そのような二人ですが、100点満点の人物ではなさそうです。
アブラハムは、エジプトで、自分の身を守るために妻を自分の妹と偽る浅はかな手段を考え、サラもそれに同意しました。彼女はアブラハムの異母妹で「妹」には違いないのかもしれませんが、彼の正式な妻。夫からの提案とはいえ、二人で神に背きました。またサラは、「アブラハムから生まれる者が後を継ぐ」という神の約束を信頼できず、アブラハムの後継者を得るために仕え女(女奴隷)のハガルを利用し、抑圧しました。人間の愚かさ、罪深さ丸出しの二人が、なぜ信仰の父、信仰の母なのか、この世的には理解し難いことかもしれません。しかし、これが神のご計画の不思議なのです。神の選びは、人物的に非の打ちどころがないとか、優秀であるとか、力があるとか、そういったことが基準ではないことを、聖書の物語は示しています。
アブラハムは主の言葉に従って父の家を離れ、未知の世界へと旅立ちました。退路を断った彼は、息子イサクの「嫁」探しにおいて、息子を故郷に戻すことにはキッパリと否を言いました。神に信頼するアブラハムの姿を見ることができます。
●8月19日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 平和を希求し、非戦を誓う ✣
「…摩文仁(まぶに)の丘、眼下に広がる穏やかな海。悲しくて、忘れることのできないこの島の全て。私は手を強くにぎり、誓う。奪われた命に想いを馳せて、心から、誓う。私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと。全ての人間が、国境を越え、人種を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。生きること、命を大切にできる権利を誰からも侵されない世界を創ること。平和を創造する努力を、いとわないことを。あなたも、感じるだろう。この島の美しさを。あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間(とき)を一緒に生きているのだ。今を一緒に、生きているのだ。だから、きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。戦力という愚かな力をもつことで得られる平和など、本当はないことを。平和とは、当たり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きることだということを。私は、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。…」(浦添市立港川中学3年 相良倫子〔さがらりんこ〕さんの詩「生きる」より)。
●8月12日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 人間の尊厳 ✣
創世記16章と21章には、アブラハムの妻サラと、彼女に仕える「女奴隷」のハガルという二人の女性が登場します。当時、女性の存在意義は、家系を絶やさないように男子を産むことにあり、女性にとって不妊は最も辛いことでした。高齢に達したサラは神の約束を信じて待つことができず、自分の権力を行使し、ハガルによって自らの子を持つ企てを立てました。サラは、女性であるがゆえに抑圧されている自分を認識できなかったのか、被抑圧者として連帯するのではなく、別の女性の尊厳を無視し利用しました。しかし、それは当時の父権制社会では法的に許されている習慣でした。社会的な正しさの多くは支配構造を支えるためにあり、その必然的結果として弱い立場にある者の尊厳を脅かし、侵すものとなってしまいます。
先日、国会議員の女性がLGBT(性的少数者)の方たちを指して「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と述べ、問題になっています。この発言の背後には多くの支持者がいることは明らかです。生産性のあるなしで人間が分けられ、弱い立場の者が排除されるこの社会。教会はそれを否とし、命に意味があると言い切っていきたいと思います。
●8月5日 週報巻頭言 牧師 村上 千代