✣ ふるさとを望み ✣
栗ヶ沢教会では、毎年11月の第一主日を「召天者記念礼拝」として守ってきた。先に召された方々を「記念」する礼拝である。ご遺族のご希望に従い、クリスチャンではない方も覚えている。召天者記念礼拝は、召天者を礼拝するのではなく、教会と個人の信仰の歩みを振り返り、先に召された方々、お一人おひとりの人生を導き支えてくださった神に感謝し、礼拝するのである。この日は、先達をおぼえ、神に感謝する日として大切にしていきたい。
週報3面に召天者のリストが載っている。長い人生、短い人生、それぞれにそれぞれの人生があったことをおぼえる。その歩みには、嬉しいことばかりでなく、つらく苦しい目に遭うことも多々あったことだろう。聖書は、信仰を抱く者の人生がすべて順風満帆に行くとは書いていない。他ならぬイエスご自身も捨てられ、十字架につけられて、孤独と深い苦しみの中で死なれたのである。しかし聖書は、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、死が終わりではないことを明らかにしている。先に召された方々は、その人生がどんな状況であったとしても、その恵みによって幸いな人生を送られたのだ。私たちもその恵みに与っていることを覚え、神に感謝し、今を生きていきたい。
●11月4日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 西郷隆盛〜その愛とゆるしの生涯 ✣
「『西郷隆盛と聖書』(著書)は、あの大西郷と言われた人物が、自殺未遂をする場面から物語は始まります。それは、西郷の光の部分を描くだけでなく、一人の人間として、その心に闇を抱えていたという事実を明らかにし、その闇にどのように打ち勝っていったかという真実を知って欲しかったからです。
“人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人をとがめず、我が誠の足らざるを尋ぬべし”
これは、西郷さんの言葉です。ここで、西郷さんは、“天を相手にせよ”と繰り返し述べています。また、西郷さんの言葉に次のようなものがあります。“天は人も我も同一に愛したもうゆえ、我が愛する心を以って人を愛するなり。” “天”という言葉は、西郷さんが信奉した陽明学にも出てきますが、“天がすべての人を愛している”という教えは、西郷さんが、漢訳聖書を熟読した結果、遂に発見した真理だったのです。」(「Good News しらかば vol.17」より抜粋)
●10月28日 週報巻頭言
秋の特別伝道礼拝 講師 守部喜雅先生
《講師プロフィール》
1940年 中国上海市生まれ
1977〜1997年 クリスチャン新聞編集部長
1998〜2004年 月刊「百万人の福音」編集長
現在 クリスチャン新聞編集顧問
日本基督教団新宿西教会 教会員
✣ 神はわがやぐら ✣
『旧約聖書一日一章』著者の榎本保郎氏は、詩編46編のメッセージで、マルティン・ルターについてこのように書いている。
「彼の宗教改革は決してスムーズに行ったわけではない。終始誤解され、そのため多くの人からののしられ、悪魔呼ばわりまでされた。時には彼の心は、すっかり滅入ってしまった。妻が彼の部屋に喪服ではいっていき『神がなくなりました』と言ったおかげで、彼の心に再び光が与えられたこともあった。それほどにルターの苦悩は大きかったのである。」
宗教改革の中心人物であるルターは、その困難の中で、詩編46編を絶えず口ずさみ想を得て「神はわがやぐら」を作詞作曲した。この賛美歌はルターの最もよく知られた賛美歌で、日本の教会でもよく用いられている。ちなみに、日本バプテスト連盟発行の『新生讃美歌』にも取り上げられており、私たちにもなじみ深い。
詩編46編を絶えず口ずさみ、救いの光を見い出したルターの信仰告白とも言えるこの賛美歌。苦難の中にあって、神が避難所となってくださり、盾となってくださり、共にいてくださるという確信をもち、神に信頼して生きる時、私たちに恐れはないのだと励まされる。
●10月21日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 顧みてくださる神 ✣
詩編8編の作者は、神の偉大さ、神の業の偉大さをほめ讃える一方で、人間の弱さ小ささ、被造物としての人間の限界をあらわし、この賛美を口ずさむ者に、人間とは何かという聖書の人間観を探らせている。
今日の聖書の6〜9節は、創世記の創造物語を思い起こさせる。神は、ご自分にかたどり、ご自分に似せて、ご自分に僅かに劣るものとして人を造られた。そして神は人間に栄光と威光を譲渡し、神によって造られたものをすべて治めるように人間に託したのだという。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31前半)。神が「極めて良かった」と宣言されたものをそのまま人間が守り続けることは容易ではない。しかし、主のみ名は力強く、全地に満ちており、人間は、神に代わって被造物全体を治める責任を引き受ける覚悟をしなければならないのである。
今日、人間の傲慢によって自然が破壊され、生態系が破壊され、地球温暖化が進み、すべての被造物が呻いている現実を私たちは目の当たりにしている。この現実の中で、私たちは自らの限界を思い知らされ苦悩している。神の憐れみを願い、「立ち帰れ」との神の招きを聴いていきたい。
●10月14日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ さいわい ✣
「いかに幸いなことか」で始まる詩編。この書には、古代イスラエルの人々の祈りや賛美の言葉が150収められています。興味深いのは、神を賛美する歌、神を信頼する歌に比べて、深い嘆きの歌がとても多いということです。全体の約三分の一が「嘆きの歌」になっているようです。このことは、詩編には人間のあらゆる現実が表されているということなのでしょう。なぜなら、私たちの人生は、嬉しいことや喜ぶことよりも、辛いことや、苦しいこと、悲しいこと、悩むこと、怒ること、落ち込むことの方が多いと言っても過言ではないからです。それゆえ自分の苦しみ、悲しみ、怒り、嘆きを隠すことなく率直に神に訴える歌がたくさん収められている詩編は、これまで無数の人々の人生を支えてきましたし、今もこれからも、人々は詩編の祈りや賛美の言葉に支えられていくに違いありません。
詩編は、原典のヘブライ語では「賛美」として伝承されています。賛美という語感にふさわしくない「嘆きの歌」が圧倒的に多い詩編がなぜ賛美と呼ばれるのか、信仰の内実を探り、また「さいわい」を告げる神の祝福の言葉から始まる詩編が、私たちに指し示している神のみ旨のありかを探し求めていきたいと思います。
●10月7日 週報巻頭言 牧師 村上 千代