✣ 前のものに全身を向けつつ ✣
今日は、日本バプテスト女性連合(以下、女性連合)が推進している6・23「沖縄(命どぅ宝)の日」、平和を希求し祈る日です。
当時アメリカの占領下にあったとはいえ、沖縄の人々の苦しみ・悲しみ・痛みに思いが至らず、沖縄を「国外」と位置づけて宣教師を派遣したことへの悔い改めとして、2007年度の女性連合総会でこの日が制定されました。「沖縄の歴史に学び『二度と戦争を起こさない誓い』を新たにする」「沖縄の組織的地上戦が終結した日と言われている6月23日は、死者を悼み非戦を誓う日であることを覚える」「沖縄バプテスト連盟女性会との交流を深め、ともに福音を担う活動を展開する」ことが目的です。私たちが、沖縄の犠牲の上に生きていることを思う時、沖縄の現状に無関心であることの罪を自覚させられます。力のない私(私たち教会)はどうすればよいのかと苦悩する日々です。しかし全国の教会と祈りでつながるこの時、私たちは微力であっても無力ではないことを知らされ、励まされるのです。主の十字架によるゆるしに感謝し、差別・抑圧の中から叫ぶ沖縄の声を聴き、キリストの十字架と復活の希望に全身を向けつつ、まずは祈ることから始めたいと思います。主が私たちのなすべきことを示し導いてくださいますように。
●6月23日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ イエス・キリストの名によって歩む ✣
使徒言行録は、パウロやペトロのような使徒が主役である印象がありますが、陰の主役は神様で具体的には、聖霊の働きを通して福音が全世界に広がった様子が描かれています。
使徒言行録3章には、足の不自由な男性が癒され神を賛美する者へと変えられた物語が記されています。この男性を変えた言葉、それは「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」というペトロの言葉でした。
名前はその人の本質を表すと言われますが「ナザレのイエス・キリスト」とは、旧約時代から連綿と語り継がれてきたメシア(救い主)が人の姿をとり、私たちのすぐ近くまで降りてくださったことを表します。40年間神殿の前に座り、礼拝から除外されていたこの男性に神の救いが訪れたのです。神への感謝と喜びに溢れて躍り上がるこの男性が真っ先に行ったところはどこでしょうか。祈りの家である神殿でした。群衆は彼の身に起こったことを知り驚いたとありますが、ペトロにはこの出来事をきっかけに主を証しする機会が与えられます。ペンテコステの時には3千人、この時には5千人が主を信じたとあります。
聖霊の驚くべき業を知ることができますが、私たちはその陰には、たゆまず祈り続ける群れの存在があったことを忘れてはなりません。
●6月16日 神学校週間礼拝 週報巻頭言 神学生 吉村知子
✣ パウロの祈り ✣
ペンテコステ、すなわち聖霊降臨日は、キリスト教会の誕生を記念する日として祝われています。使徒言行録には、イエスの復活・昇天後に、弟子たちが集まって祈っていたところに聖霊が降り、一同は聖霊に満たされ、それぞれの生まれ故郷の言葉で福音を語り出した出来事が記されています。教会の誕生です。弟子たちが異なる言葉でイエス・キリストの福音(よき知らせ)を宣べ伝え、福音は世界へと広がりました。
「異邦人」伝道へと遣わされたパウロは、ヨーロッパ各地にキリスト教会を建てました。その最初の教会が、フィリピの教会だと言われています。獄中から教会に手紙を書いたパウロは、信徒たちが福音に接した最初の日からずっと福音に生かされ、福音に生きてきたことを喜び、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」と信徒たちのために祈ります。神のみ旨を深く知り、実行することが、すなわち愛することになるからです。
パウロの祈りは、現代の信徒たちへの祈りでもあると思います。私たちはみ言葉に養われ、知る力と見抜く力を身に着けて、何が神のみ旨かを深く知り、キリストの福音に生かされ、福音に生きる者であるようにと招かれているのです。
●6月9日 ペンテコステ 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 十字架のほかに誇るもの無し ✣
ガラテヤ書6章の前半で、パウロは、ガラテヤの教会に対して「互いに重荷を担いなさい」「自分の行いを吟味してみなさい」と勧めています。教会の中で、互いに助け合う温かい交わりが失われていたことや、自分の霊的能力を誇り、他の教会員に対して優越性を主張する人の存在があったからです。人間は神に造られたものであり、自分の能力も賜物も神から与えられたものです。神に感謝こそすれ、自分を誇るわけにはいかないのです。ところが、能力が他の人に優ることは実に心地よく、自分が神の前に何者なのかを忘れて、自らを誇り、人を見下し、自分を上に置いて人をさばいてしまう。パウロはその愚かさを指摘します。
6章後半では、パウロの反対者が、ユダヤ人への恐れからガラテヤの信徒たちに無理やり割礼を受けさせ、異邦人改宗の実績を誇ることに対して、パウロは自分の確信を鮮明にします。それは、「ユダヤ人が忌み嫌うキリストの十字架を、あえて唯一の誇りとする」ものです。そして、割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、キリストの十字架によって新しく創造されることであると断言します。十字架の主を信じる信仰を与えられ新しく創造された私たちは、ゆるされた者として、肉の「誇り」から解放され、神のものさしを基準として生きるものへと主の助けを願うのです。
●6月2日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 神様のご計画の中で ✣
今月、米国の女優・歌手であるドリス・デイが死去したとのニュースが報じられました。彼女の代表曲といえば『ケ・セラ・セラ』。日本語では「ケ・セラ・セラ、なるようになるさ。先のことなど、わからない」と歌われます。「ケ・セラ・セラ」という言葉が「人生は先のことなどわからない。だからあれこれ思い悩むのはやめて、肩の力を抜いて生きよう」と、ストレスの多い現代人へのアドバイスとして使われることもあります。
確かに、私たちには先のことはわかりません。「ケ・セラ・セラ」のススメに心を軽くしてもらえることもあるでしょう。しかし、もしも私たちが神様を知り、信じて生きると約束を交わすなら、そこに「ケ・セラ・セラ」を超えた、新たな視点を持つことができるのではないでしょうか。先の見えない心細さに蓋をするのではなく、すべてを神様に委ねることができるのですから。
この世のすべてを造り、私たちの思いを超えたご計画のうちにすべてを統べ治めておられるお方が、一人ひとりのためにあらかじめ備えて下さった道へと、それぞれを導いて下さっている…その確信は、私たちにとっての大きな恵みであり、人生の歩みを進める力となります。
●5月26日 週報巻頭言 教会員 水林 京子