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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-27 14:30:58 (906 ヒット)

✣ わすれられたヨセフ ✣

    今月のはじめ、品川バプテスト教会山中臨在(ともなり)牧師就任感謝礼拝に出席した。
    品川教会のルーツは1962年に遡り、伝道開始から57年の歴史をもつ教会である。「1962年8月11日付のキリスト新聞に、『福音不毛の地に、大井バプ教会の祈り実る、新教会発足』という見出しで、品川バプテスト教会の門出が伝えられていた」と、教会の50周年記念誌に書かれている。伝道所が開設された品川の荏原地区は、それまでいくつかの教会が伝道に着手したものの、戦争その他の理由で、いずれも途中で途絶えてしまい、牧師の間でも「教会不毛の地」といわれたところであったようだ。「しかし、この地で50年間、福音伝道を続けているのだから、もう教会不毛の地とは言えない」と結ばれている。まったくその通り。神にわすれられたかに思えたこの地は、決してわすれられてはいなかったのである。
    教会の初期の頃、この地区には勤労青年が多く、教会が彼/彼女らの居場所、拠り所となり、そこからキリストに出会って教会につながる方々が起こされたと伺った。山中牧師を迎え、これからも青少年を励まし、全年齢層への福音宣教に仕え、品川から世界へと宣教のビジョンを掲げて歩み出した教会の姿にとても励まされた。

●7月28日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-20 14:57:16 (701 ヒット)

✣ 失望のただ中に ✣

    父親のヤコブに寵愛されていたヨセフは、兄たちの妬みと憎しみゆえにエジプトへ売られ、異国で奴隷にされ、彼の境遇は一変した。そればかりか、ヨセフは、彼を買い取った宮廷の役人で侍従長のポティファルの妻に陥れられて、奴隷の生活から、さらに投獄という苦難を味わうことになった。奴隷でありながら、主人であるポティファルに目をかけられて状況が好転したかに見えたのであるが、彼は再び奈落の底へと突き落とされたのだ。理不尽な監獄の生活を余儀なくされた彼は、今度は監守長の信頼を受けるが、先の見通しは立っていない。ヨセフの度重なる苦難の現実に対して、神は無言である。
    今日の物語には、「主がヨセフと共におられた」という言葉が4回繰り返されている(39章2、3、21、23節)。それが語られるのは、神がまさにヨセフの行く手をさえぎり、理不尽な状況のただ中においてである。失望のどん底に置かれ、主に見放されたとしか思えぬ状況のただ中で語られている。ヨセフは、監獄で監守長の信頼を受けていても、彼の置かれた状況は、先の見えない不安や失望の続く日々なのではないだろうか。しかし、神が共にいないとしか思えないところこそ、「神が共におられる」その場所であることをこの物語は示している。

●7月21日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-13 11:44:37 (834 ヒット)

✣ たとえひとりであっても ✣

    ヨセフ物語(37〜50章)の主人公ヨセフは、ヤコブの12人の息子の一人で、父のお気に入りの息子でした。彼は、兄たちから、「夢見るお方」と呼ばれているように、夢を見、判断することのできる能力がありました。ヨセフは少し生意気なところもありましたが、それ以上に、父の偏愛のゆえに兄たちから妬まれていました。やがて兄たちの妬みは高じて強い憎しみとなり、ついにヨセフを殺そうとたくらみます。
    ところが、これを聞いた最年長の兄ルベンが、待ったをかけました。長兄としての責任感なのか、年下の者に対する優しさ、思いやりなのか。長兄であっても、敵意で一致している兄弟たちに、「殺すのは止めよう」と言うのは危険なことです。たとえ理にかなったことでも、集団の利益に反することを主張すれば、その矛先が一転して自分に向けられる恐れがあるからです。それにもかかわらず、ルベンは、ヨセフの命を取ることに「否」を主張しました。その勇気が、ヨセフの命を助けることになったのです。
    集団の中で、多数派の意見と違う意見を言うのは本当に難しいことです。しかし、たとえひとりだけであったとしても、神のみ旨にそって自分の意見を言う勇気がもてるようにとルベンから教えられます。主よ、私たちにその勇気を与えてください。

●7月14日 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-05 19:34:34 (783 ヒット)

✣ 嵐を静めるイエス ✣

    私たちは、順風満帆な人生を願います。しかし、日々の生活において悩みや困難は尽きず、人生の海の荒波にのみ込まれてしまうような恐れが私たちを襲うこともあります。また、世の中には悲しいニュースや暗いニュースがあふれ絶望的になることさえあります。
    「向こう岸へわたろう」と言われたイエスと共に、弟子たちは舟にのりました。途中、激しい突風が吹き荒れ、舟は波をかぶって水浸しになります。元々漁師であった弟子たちは、その経験から天候や舟のことは詳しかったと思います。想定外のことが起こったのでしょうか。弟子たちは身の危険を感じ、恐れ、眠っていたイエスに「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えます。その訴えを聞いたイエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言うと、風はやみ、すっかり凪になった、と聖書は語ります。
    私たちは、悩みや恐れの中、イエスが共にいてくださることへの信頼が薄れ、神の沈黙に耐えられず、自分は見捨てられているのではないかと絶望的になることがあります。しかし、イエスは、私たちが絶望の中から叫ぶ声を聞いてくださる方であること、そして、激しい突風と荒波の中で、イエスに訴え、助けを求める者に、神の平安が備えられると、今日の物語は伝えています。

●7月7日 初夏の音楽礼拝 週報巻頭言  牧師  村上 千代


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-28 17:04:08 (737 ヒット)

✣ ごはんおいしいネ ✣

    パウロ一行はローマに向かって航海する途中、暴風に襲われて難破します。嵐の最中にパウロは食事をとることを勧め、一同が食事をしたと記録されています。パウロは食べるというごく日常的な営みを、生きるか死ぬかも判らない漂流の中であえて実行しました。それが「生き延びるために必要だからです」という確信です。食事をすることと生き延びることがストレートに繋がっている実感は、飽食の現代には薄れているのかもしれませんが真理だと思います。
    さらに漂流の只中で食事と合わせて礼拝を捧げました。パウロはパンを裂き、神に感謝の祈りを捧げました。現実は絶望的とも言える状況に置かれているにも拘らず、神に心を向けることを選択しました。夫々の思惑が違い、パウロは囚人として護送される身、百人隊長と兵士はローマまで護送することが第一の任務、積み荷の荷主である商人、そして船の乗組員など危機の中で、みんなバラバラな心を一つにする礼拝は、そこに乗り合わせた276人が一人も欠けることなく「全員が無事に上陸した」ことのおおもとであったように教えられました。
    今年度教会の基本方針は、「地域に開かれ、共生を目指す教会」、共に生きることのキーワードは一緒に食事をすることと、礼拝することと示しているように思います。

●6月30日 週報巻頭言  教会員  渡辺 光雄


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