✣ 誰が隣人になったか ✣
私は、聖書には「正しい」読み方があると思っていました。神学生だった頃には、そうした「答え」を得ようと必死になっていましたし、牧師になってからも、そんな「正解」にのっとって説教をつくり、語っていたように思います。けれども、牧会の中でそうした「正しさ」「答え」「正解」は何の役にも立たず、今、ここで、この人と聖書をどう読んでいくか、何を聞きとっていくのかを問われ、もっと豊かな聖書の読み方があることに気付かされていきました。
「聖書には何と書いてあるか、あなたはそれをどう読むか」というイエスさまの言葉が私に迫ってきました。自分が置かれている現状、自分を取り巻く環境、自分が抱えている課題の中で聖書と向き合う時、聖書はもっと自由に私に語りかけてくれることを感じました。
今日は、よく読み親しまれてきた聖書から、違った視点を頂きたいと思いますし、午後には「誰かと一緒に聖書を読む」ことの豊かさを分かち合いたいと思います。
こうした「自由さ」と、「誰かと共に」ということを大事にしてきたのが、バプテストです。そうしたことも確認し合いながら、今日皆さんと一緒に過ごしていきたいと願っています。
●9月8日 週報巻頭言 松藤 一作(日本バプテスト連盟 宣教部長)
✣ 旅立ち ✣
ユダ地方に飢饉が起こり、エリメレクと妻ナオミは、二人の息子と一緒に、ベツレヘム(「パンの家」の意)から異邦の地であり、異教の地であるモアブに移住します。おそらくナオミの家族は、移住者として、ある程度の安定した暮らしができていたのでしょう。ほんのしばらくのつもりが、長くそこに住むことになり、息子たちはモアブの娘と結婚します。ところが、ナオミは、夫と二人の息子に先立たれ、生活の基盤を失い、一人残されてしまいました。当時の家父長制社会において、女性が一人で生きるのは、非常に困難であることは言うまでもありません。そして、女の幸せや、女としての成就に男性が必要だと信じ続けているナオミにとって、夫や息子たちとの死別は、悲しみだけでなく、彼女の人生そのものが失われたような虚しさや絶望感に包まれることであったのです。
ナオミは、ベツレヘムに飢饉がなくなり、食べ物が与えられたことを聞いて、二人の「嫁」と一緒に旅立ちます。が、この後に続く物語で、結局はルツだけがついて行くことになりました。ナオミの旅立ちは、単に食べ物を求めてのことではなく、彼女の悲しみ、苦しみに寄り添い、彼女の人生を支えてくださる神、弱い立場の者に寄り添う神のもとに帰る旅立ちであったのです。
●9月1日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 和解 ✣
ヨセフ物語は50章まで続きますが、分級での学びは今日の45章が最後になります。この物語のキーワードの一つは「夢」。ヨセフは、親元にいた時に夢を見ます。収穫の時、兄たちの束が自分の束の周りに集まってきてひれ伏したという夢、太陽と月と11の星が自分にひれ伏した夢です。父も母も兄たちもヨセフにひれ伏すという夢に兄たちは怒り、父親に特別扱いされるヨセフへの妬みも重なって、ヨセフは兄たちにエジプトへ売られてしまいます。エジプトでの奴隷の生活から、えん罪で囚人の生活へと状況は悪くなるばかりでしたが、いつも「主が共におられ」ました。そして今や大臣の座に。といっても、これは彼の出世物語ではありません。かつては自分の能力を誇っていたヨセフでしたが、苦難の中で神に信頼して生きる者へ、夢の解き明かしを「神がなさること」と、信仰を告白する者へと変えられた話だと言えます。
飢饉が深刻化し、食料調達のためにエジプトに下ってきた兄弟たち。彼らは、目の前にいるその大臣がヨセフだと気づきません。とうとうヨセフは自分の身を明かし、そこで兄たちとの「和解」の出来事が起こったのです。ヨセフは、この一連の出来事を通して、かつて見た自分の夢は、成功物語だったのではなく、神の働きによる「和解の夢」だと気づかされたのかもしれません。
●8月25日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 失敗は新しい道のはじまり ✣
今日は、礼拝後に、市川大野、市川八幡、花野井との「4教会合同平和祈祷会&食事会」がもたれます。この会は、当初4教会交流の食事会だったそうですが、8月は特に平和のために祈る月間であることから、合同平和祈祷会をもつことになったようです。敗戦から74年を迎え、戦争の惨状、苦しみ、悲しみ、痛みを体験した世代が少なくなって戦争の記憶が風化しつつある中、日本の過去の罪を負いつつ今を生きる私たちが、平和を希求し、共に祈ることの大切さをおぼえます。
今日の聖書には、ヨセフの策略により12人兄弟の末っ子ベニヤミンが奴隷としてエジプトにひとり残されることになった時に、兄のユダが弟の代わりに奴隷になると自ら進んで申し出た話が書かれています。ユダは父ヤコブに寵愛されたヨセフを妬んで、「イシュマエル人に売ろうではないか」と提案した兄です。彼は、自分のその負い目にずっと心が痛んでいたのでしょう。過去の負い目を、今こそ自分は負うべきだと思ったのか、弟の代わりに自分を、と必死に嘆願したのです。そして、物語は新たな展開を迎えます。ここに神は登場していませんが、自分(たち)の誤りや失敗に蓋をせず、謙虚にそこに向き合う中に神がおられ、ゆるしと新たな道への力が与えられると知らされます。
●8月18日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 平和をつくりだす ✣
愛知県で開催されている「あいちトリエンナーレ2019」の企画展の一つ「表現の不自由・その後」が3日限りで中止に追い込まれました。この出来事は「時のしるし」です。
河村名古屋市長は、「あいちトリエンナーレには10億円を超える税金が使われているのに行政の立場を超えた展示が行われている」ことを問題として、「中止を含めた適切な対応」を大村愛知県知事に求めました。その後大村知事は中止を発表。テロ予告や脅迫を含むメール、電話が殺到したとして「芸術祭全体の安心安全、今後の円滑な運営のために判断した」と伝えられています。加えて菅義偉官房長官らが同展への補助金交付の差し止めを示唆するコメントを発表しています。
行政は、まずテロ予告等の脅迫行為を反社会的な犯罪として取り締まるべきです。行政・政権と異なる意見の表明を行政が許さないとするなら、税金使用の有無に関わらず、憲法21条に違反します。「一切の表現の自由は、これを保障する」(1項)、「検閲は、これをしてはならない」(2項)。これらは主権者に対する義務ではなく、政治権力(行政官や議員ら)をもっている者たちに対する義務です。むしろ政権与党こそ、税金を使ってでも異見や批判を歓迎するべきです。それが民主政治を成り立たせるのです。※連盟憲法アクションメルマガ32号より
●8月11日 平和祈念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代