✣ み言葉に助けられ ✣
パウロの「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。どんな事にも感謝しなさい。」は、私にとって信仰生活の基本であると思っています。
その事が、どのように私の人生に関わっていくのか、そのようになってみなければわからない。そうしてクリスチャンになる事を自分で決めたつもりが、実は「神が私を選んだ」と聖書に書かれています。私たちはいつも自分中心に物事を考えていることに気づかないのです。
主語を「私」から、「神」へと変えて考えていくと世界は俄然、客観性を帯びてきます。ただただ悩み続け、螺旋階段を下へ下へと向かっていた人生は立ち止まりながらも、「神様」と呼びかけ、共に歩いて下さる同伴者を得た事は、私の人生の最大の宝です。
創世記から始まった神様の道は今もこれからも人々を励まし、愛し、人間が存続する限り続くでしょう。なぜならば私たちは神に造られた者であり責任者は神様ですから。アーメン
●11月17日 週報巻頭言 教会員 H.Y.
✣ 神にゆだねる ✣
今日は、幼い子どもたちと一緒に子ども祝福礼拝をささげます。少子高齢化や、社会状況の変化によって子どもたちが外で遊ぶ姿があまり見かけられなくなっているこんにち、教会の中で子どもたちの笑い声や泣き声が聞こえると、本当に嬉しくなり、元気をもらいます。私たちおとなは、成長させてくださる神に子どもたち一人ひとりをゆだね、祈り、子どもたちと適切にかかわっていくことができるようにと願っています。子どもを教え育てるということと、子どもから学び、共に育ち合うということを大切にしながら。
礼拝後に「芋煮会」があります。収穫感謝と、日本国際飢餓対策機構への寄付が目的です。世界人口72億、世界で食料が十分に手に入らない人の数が約8億人、日本の家庭で1年間に捨てられる食品の量870万トン、日本の家庭で食べられるのに捨てられる食品の量320万トン。世界で多くの子どもたちが飢餓や栄養不足の状態であることに、私たちは関係ないとは言えない現実です。
子ども祝福礼拝をささげる私たちは、私たちの教会の子どもだけでなく、世界中の子どもの幸せをも願い祈りたいと思います。十字架の主に自らの罪のゆるしを願い、悔い改めて、隣人の苦しみをおぼえ、子どもたちと一緒に生きていきたいと思います。
●11月10日 子ども祝福礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ わたしは復活であり、命である ✣
本日は、召天者記念礼拝です。午後から、ラザロ霊園において墓前礼拝と、5月に召されたM.M.さんの納骨式が行われます。教会でも墓前でも、わたしたちは、先に召された方々をおぼえ、一人ひとりの生涯を支え導き共に歩んでくださった神に感謝し、礼拝をささげます。そして今日、この時、先達の信仰を振り返り、集っているわたしたちも、先達と同様に、神の愛とキリストの恵みにあずかっていることを覚え感謝したいと思います。
今年は、召天者にお二人の名前が加えられました。もうこの地上で会うことのできないさびしさがありますが、わたしたちには、再会を待ち望むという希望があります。この希望によって一つにされているわたしたちは、主への感謝をもって、与えられた日々を大切に生きていきたいものです。
今日の聖書箇所で、マルタが「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言うと、イエスは、わたしが復活であり、命である、と言われました。復活は、いつなのか分からない遠い事柄ではなく、今、あなたの前にいるわたし自身のうちにあることだとイエスはおっしゃるのです。復活であり、命であるイエスを信じる者は、死に向かうのではなく、死を背にして命へと向かう力を主からいただくのです。
●11月3日 召天者記念礼拝 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 絶えることのない主の見守り ✣
「ヤハウェよ、あなたは私を探り、知ってくださる。/私が座すのも立つのも、あなたは知っておられる、遠くから、あなたはわが思いをわきまえられて。/私が出るのも入るのも、あなたは察してくださる。わが歩みのすべてを、あなたは承知しておられて。/じつに、わが舌にまだひとつの言辞さえなくとも、ヤハウェよ、あなたはすべてを知っておられる。/後ろからも前からも、あなたは私を囲み、わが上にあなたの掌をおいてくださった。/その知識は私にはあまりに不思議、あまりに高く、私には及びません。」(詩篇139:1後半〜6、月本明男訳、下線筆者)
この詩人は、「私」の行動も、心の奥底にある思いも、すべてをご存じで、祝福してくださる神が、小さな存在である「私」に思いを寄せてくださる不思議、神への思いを詠う。それだからこそ、「私」は神の前に自分を隠すことも、神から逃れることもできない(7節〜)。ヨハネ福音書に「弟子のシモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」、とある(21:7)。私たちは、恥ずかしい自分を隠そうとし、主から逃れようとする。しかし主は、私たちが隠れている間も愛をもって見守っておられ、水から上がって来るのを待っていてくださっていることを思う。
●10月27日 週報巻頭言 牧師 村上 千代
✣ 夜明け前 ✣
今日の宣教題について、ある方から「小説の題名からですか」と問われた。この題は、島崎藤村の小説で知られているからだ。しかし、宣教題はそれとは違う。恵泉教会の賛美グループ「アムハアレツ」(地の民)が、イザヤ書21章、詩編130編をもとにつくった歌の題からつけさせていただいた。
「東の空遠く 夜明けは来るのだろう
廃墟の片隅に 来るのだろう
来るのだろう
夜回りよ 夜回りよ あしたは近いか
望み待つ あしたは 来るのだろう
崩れた町に立ち 何を見たのだろう
夜中の今はもう 何どきになるのだろう
夜回りよ 夜回りよ あしたは近いか
望み待つ あしたは 来るのだろう
誰もが踏んできた 罪の代償を
自ら払うべき時が今 来たのだろう
夜回りよ 夜回りよ あしたは近いか
望み待つ あしたは 来るのだろう」
(詞・千野 肇)
現代における「廃墟」は、足元にも、世界のあちこちにも存在する。罪の現実、悲しみや苦しみの現実、希望を失いそうな現実の中で、わたしたちは救いを求める。
詩編130編の詩人は歌う。わたしの魂は、見張り(夜回り)が朝を待つにもまして、主を待ち望むのだ、と。
●10月20日 週報巻頭言 牧師 村上 千代